
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
広瀬隆 『チェルノブイリの少年たち』 生々しい原発事故の恐怖 ― 2009/08/06
今日は、ヒロシマの日。
大津市の三井寺では恒例の慰霊祭が行われる。
私は、残念ながら、出席できない。
その代わり、K君は、原水禁大会に出発。
昨晩から、読んでいる。
広瀬隆『チェルノブイリの少年たち』
事故の生々しい描写がつづられる。
炎をあげ、爆発するチェルノブイリ原発。
目に見えない放射線の恐怖、そして、死。
読みながら怒りを抑えることができない。
人間抑圧をつづけていた体制は、
史上最悪の原発事故を目の前にしても、
人の命最優先の避難組織さえ、
真剣にとることができなかったのだ。
自己犠牲もいとわない決死隊の
英雄的行為も、あわれでならない。
チェルノブイリの被害は、「安全神話」が
もたらした人災である。
それは、兵器として市民の上に
投下された原爆とはちがうかも知れない。
しかし、結果は、同じ。
いやそれ以上である。
底知れない人類史的悲劇。
1945年8月6日とともに、
1986年4月26日も
決して忘れることのできない日なのである。
大津市の三井寺では恒例の慰霊祭が行われる。
私は、残念ながら、出席できない。
その代わり、K君は、原水禁大会に出発。
昨晩から、読んでいる。
広瀬隆『チェルノブイリの少年たち』
事故の生々しい描写がつづられる。
炎をあげ、爆発するチェルノブイリ原発。
目に見えない放射線の恐怖、そして、死。
読みながら怒りを抑えることができない。
人間抑圧をつづけていた体制は、
史上最悪の原発事故を目の前にしても、
人の命最優先の避難組織さえ、
真剣にとることができなかったのだ。
自己犠牲もいとわない決死隊の
英雄的行為も、あわれでならない。
チェルノブイリの被害は、「安全神話」が
もたらした人災である。
それは、兵器として市民の上に
投下された原爆とはちがうかも知れない。
しかし、結果は、同じ。
いやそれ以上である。
底知れない人類史的悲劇。
1945年8月6日とともに、
1986年4月26日も
決して忘れることのできない日なのである。
ヒバクシャと話せなかった20代の後悔 ― 2009/08/06
ヒロシマの夏がまためぐってくる。
いまから思うと、とても残念なことがある。
結婚前の20代の話。
「年末に時間がとれますか。手伝って欲しいことがある」と知り合ったばかりのNさんから電話がかかってきた。「はい、いいですよ」と私は気軽に答えた。
指定された場所にでかけると、渡されたのは、住所を記したメモと重い餅の包みだった。頼まれた用事は、つきたてのお餅を市内に住むヒバクシャの方に届けることだった。届けに回る人数が足りないので、一人で行ってくれとのことだった。
自分の街にヒバクシャが住み、暮らしている・・・この街の住民なのに、私はまったく知らなかった。ショックだった。
家は簡単に見つかるはずだからと、街に出た。
私は動揺を抑えられなかった。ヒバクシャの方と直接出会うのは、はじめてだったのだ。どんな姿をされているんだろう、どう切り出したらいいのだろう。迷いながら私は走った。
ヒバクシャの方の家は簡素で、路地の奥だった。
やわらかい表情で感謝の言葉を述べられた。緊張した私は、「どうぞ」としかいえなかったのだ。
もしかすると、その方の生の話を聴かせていただく最後のチャンスだったのかも知れない。頼んでも拒否されたのかも知れないけれど。
それから30年近く経つ。
その当時すでに高齢で病気がちだったであろうその方は、もう亡くなられているにちがいない。
20代の私は、なんて臆病だったのだろう。なんて大切なものをなくしたのだろう。つぎの世代にヒバクシャの生のメッセージを伝える輪の一つにさえなれなかった・・・。
いまから思うと、とても残念なことがある。
結婚前の20代の話。
「年末に時間がとれますか。手伝って欲しいことがある」と知り合ったばかりのNさんから電話がかかってきた。「はい、いいですよ」と私は気軽に答えた。
指定された場所にでかけると、渡されたのは、住所を記したメモと重い餅の包みだった。頼まれた用事は、つきたてのお餅を市内に住むヒバクシャの方に届けることだった。届けに回る人数が足りないので、一人で行ってくれとのことだった。
自分の街にヒバクシャが住み、暮らしている・・・この街の住民なのに、私はまったく知らなかった。ショックだった。
家は簡単に見つかるはずだからと、街に出た。
私は動揺を抑えられなかった。ヒバクシャの方と直接出会うのは、はじめてだったのだ。どんな姿をされているんだろう、どう切り出したらいいのだろう。迷いながら私は走った。
ヒバクシャの方の家は簡素で、路地の奥だった。
やわらかい表情で感謝の言葉を述べられた。緊張した私は、「どうぞ」としかいえなかったのだ。
もしかすると、その方の生の話を聴かせていただく最後のチャンスだったのかも知れない。頼んでも拒否されたのかも知れないけれど。
それから30年近く経つ。
その当時すでに高齢で病気がちだったであろうその方は、もう亡くなられているにちがいない。
20代の私は、なんて臆病だったのだろう。なんて大切なものをなくしたのだろう。つぎの世代にヒバクシャの生のメッセージを伝える輪の一つにさえなれなかった・・・。
しっかり草をつかむセミの抜け殻 ― 2009/08/07
どのアサガオも、りっぱに育ってほしい ― 2009/08/07
アサガオを見ると、思い出すことがある。
でも、もしかして、アサガオでは
なかったのかも知れないけれど。
それは、H君の小学校時代のこと。
H君のクラスで、鉢植えで花を育てることにした。
一人一人が、鉢に種をいれて、
毎日毎日水を遣る。
同じように、他のクラスでも、
鉢植えを育てていた。
ところが、H君が、
水を遣ってもやっても、
芽は大きくならなかった。
夏が近づくと、他のクラスの花は、
茎をのばし、おおきな花をつけた。
H君のクラスのみんなは、けんめいに
けんめいにがんばったけれど、
その努力は実らなかった。
オトナなら、「種をまちがったんだ」と
(実際、「安い種があった!」と先生は
はじめは喜んでいたらしい)
苦笑してすませる話だけど、
そこは、初めての鉢植え。
小学生のH君がベソをかきながら、
夏休みの前の日に、
鉢植えを持って帰ってきたのを
私は忘れない。
でも、もしかして、アサガオでは
なかったのかも知れないけれど。
それは、H君の小学校時代のこと。
H君のクラスで、鉢植えで花を育てることにした。
一人一人が、鉢に種をいれて、
毎日毎日水を遣る。
同じように、他のクラスでも、
鉢植えを育てていた。
ところが、H君が、
水を遣ってもやっても、
芽は大きくならなかった。
夏が近づくと、他のクラスの花は、
茎をのばし、おおきな花をつけた。
H君のクラスのみんなは、けんめいに
けんめいにがんばったけれど、
その努力は実らなかった。
オトナなら、「種をまちがったんだ」と
(実際、「安い種があった!」と先生は
はじめは喜んでいたらしい)
苦笑してすませる話だけど、
そこは、初めての鉢植え。
小学生のH君がベソをかきながら、
夏休みの前の日に、
鉢植えを持って帰ってきたのを
私は忘れない。
乱れ咲く花火と湾岸戦争 ― 2009/08/08
7日の夜は、琵琶湖花火大会。
時間帯が7時30分から8時30分まで。
短縮された・・・のだろう。
中心街の湖岸は車の立ち入り禁止。
午後3時を過ぎた頃から
人や車が集まりだして、
日常とは離れた世界が生み出されている。
大事な仕事を控えた切迫した時期なので、
事務所で仕事を続けながら、
花火大会の夜を迎えた。
残っているのは、Ц氏と私。
終わったあとの渋滞を避けて、
同僚達は花火より先に家路についた。
音がし始めたとき、
すこし、心が騒ぐ。
誘われて、3階のベランダに出てみる。
ビルの間から、花火が見える。
丸い花火はときぞき、
外輪がビルの陰に欠けて見える。
別の形の花火も登場し、
目を楽しませる。
あちこち不規則に
光が飛び散りる花火は、
ビルの姿をくっきり浮かび上がらせる。
その光のなかに、硝煙のような煙まで見える。
デジャヴ・・・。
そう、湾岸戦争のTV画面。
戦争の開始を衛星中継で
安全なお茶の間から眺める。
・・・なんてひどい時代だと、
感じていたのだ。
9.11もそう・・・。
時間帯が7時30分から8時30分まで。
短縮された・・・のだろう。
中心街の湖岸は車の立ち入り禁止。
午後3時を過ぎた頃から
人や車が集まりだして、
日常とは離れた世界が生み出されている。
大事な仕事を控えた切迫した時期なので、
事務所で仕事を続けながら、
花火大会の夜を迎えた。
残っているのは、Ц氏と私。
終わったあとの渋滞を避けて、
同僚達は花火より先に家路についた。
音がし始めたとき、
すこし、心が騒ぐ。
誘われて、3階のベランダに出てみる。
ビルの間から、花火が見える。
丸い花火はときぞき、
外輪がビルの陰に欠けて見える。
別の形の花火も登場し、
目を楽しませる。
あちこち不規則に
光が飛び散りる花火は、
ビルの姿をくっきり浮かび上がらせる。
その光のなかに、硝煙のような煙まで見える。
デジャヴ・・・。
そう、湾岸戦争のTV画面。
戦争の開始を衛星中継で
安全なお茶の間から眺める。
・・・なんてひどい時代だと、
感じていたのだ。
9.11もそう・・・。
新しい「忠霊塔」を見て ― 2009/08/09
なにげなく、ひとつにくくってしまうけれど、
そこには大きな違いがあると私には思える。
ーーー忠魂碑(忠霊塔)と戦没者慰霊碑。
そんなことを考えるようになったのは、
大石中町で「忠霊塔」を見つけたとき。
礎石の部分は古びているけれど、
墓石にあたる「塔」は新しい。
そして、「塔」をとりまく柵は、
砲弾型の柱。
再建されて、10年程度の新しさ。
なのに・・・という思いが私に生まれる。
靖国神社は、戦死した若者を、
宗教の違いを無視して、ひとつにくくる。
そして、神に変え、英霊として祀る。
英霊は、天皇を護り、戦った忠民。
個性を消し去った名称。
そこには、侵略戦争の反省など
入る余地がない。
戦死した若者には、
一人一人の顔があり、
その死を悼む家族の心情がある。
靖国神社に祀られることで、
癒しきれない傷がある。
個々人の墓碑から、私が感じるのは
そういう一人一人の死への思いである。
地域には、日清日露戦争後、
「忠魂碑」が建てられた。
それは、戦死の意味を一元化し、
天皇に忠実な魂として死に
赴くように鼓舞してきたのだろう。
大石中町で「忠霊塔」を見つける。
それは、「忠魂碑」と同じ流れのもの。
塔を取り巻くのは、砲弾を模した柱。
新しい金属プレートに張られている。
そこには、この町の戦死者の名が
一人一人刻まれている。
いつ建てられたのだろう。
同じようなプレートは、
小松でも見つけた。
それは、「忠魂碑」ではなく、
「戦没者慰霊碑」に張られていた。
「忠魂」から「戦没者」へと
くくられ方がかわっていく。
それはかつての戦争をどう見るか
という深部の認識にかかわること。
私は合葬するなら「戦没者」がよいと思う。
一人一人の死として、
後世に伝えるプレートを読んだとき、
戦争がもたらす死が、
美化された忠魂の死ではなく、
具体的な個々の若者の死だと認識できる。
遺族の思いが感じられる個人碑は、
永遠の存在ではない。
民間墓地にある戦死者の墓碑は、
無縁化していけば、どんなりっぱな
ものも、隅に追いやられ、
もはや名前さえ確認できなくなる。
ならば、プレートが今後、
大切なものとなっていくのだろう。
平和の礎と同様に。
一人一人の若者の死として
戦死を受け止めるならば。
そんなことを考えたのだ。
そこには大きな違いがあると私には思える。
ーーー忠魂碑(忠霊塔)と戦没者慰霊碑。
そんなことを考えるようになったのは、
大石中町で「忠霊塔」を見つけたとき。
礎石の部分は古びているけれど、
墓石にあたる「塔」は新しい。
そして、「塔」をとりまく柵は、
砲弾型の柱。
再建されて、10年程度の新しさ。
なのに・・・という思いが私に生まれる。
靖国神社は、戦死した若者を、
宗教の違いを無視して、ひとつにくくる。
そして、神に変え、英霊として祀る。
英霊は、天皇を護り、戦った忠民。
個性を消し去った名称。
そこには、侵略戦争の反省など
入る余地がない。
戦死した若者には、
一人一人の顔があり、
その死を悼む家族の心情がある。
靖国神社に祀られることで、
癒しきれない傷がある。
個々人の墓碑から、私が感じるのは
そういう一人一人の死への思いである。
地域には、日清日露戦争後、
「忠魂碑」が建てられた。
それは、戦死の意味を一元化し、
天皇に忠実な魂として死に
赴くように鼓舞してきたのだろう。
大石中町で「忠霊塔」を見つける。
それは、「忠魂碑」と同じ流れのもの。
塔を取り巻くのは、砲弾を模した柱。
新しい金属プレートに張られている。
そこには、この町の戦死者の名が
一人一人刻まれている。
いつ建てられたのだろう。
同じようなプレートは、
小松でも見つけた。
それは、「忠魂碑」ではなく、
「戦没者慰霊碑」に張られていた。
「忠魂」から「戦没者」へと
くくられ方がかわっていく。
それはかつての戦争をどう見るか
という深部の認識にかかわること。
私は合葬するなら「戦没者」がよいと思う。
一人一人の死として、
後世に伝えるプレートを読んだとき、
戦争がもたらす死が、
美化された忠魂の死ではなく、
具体的な個々の若者の死だと認識できる。
遺族の思いが感じられる個人碑は、
永遠の存在ではない。
民間墓地にある戦死者の墓碑は、
無縁化していけば、どんなりっぱな
ものも、隅に追いやられ、
もはや名前さえ確認できなくなる。
ならば、プレートが今後、
大切なものとなっていくのだろう。
平和の礎と同様に。
一人一人の若者の死として
戦死を受け止めるならば。
そんなことを考えたのだ。
大石村の12名の戦死者 ― 2009/08/09
大石村は、昭和26(1951)年に大津市に合併。
大石学区となった。私は、村の時代を知らない。
現在の人口は、4,300人ぐらい。
そのうち、住宅開発でできた団地が
三分の二ぐらいを占めている。
村の時代は、きっと、2千人程度だったのだろう。
(後日、国勢調査を調べて見ることにする)
その村にある「忠霊塔」
黒い金属のプレートがはめ込まれ、
村出身の戦没者の名前が刻まれている。
日清戦争時が2名。
あとは、1939年から1945年まで
戦死された土地は、
中国、ビルマ、南洋群島、フィリピン、
御前崎沖そして沖縄。
階級についての記述はなく、
年代が西暦で刻まれていることに、
私は、注目した。
後の戦争に比べて小数であった
日清戦争の死者が、この地に生まれ、
それをはるかにしのいだ日露戦争の
戦死者が出なかったのは
なぜだろう・・・などど思いながら、
しばらく、この場所にたたずんでいた。
大石学区となった。私は、村の時代を知らない。
現在の人口は、4,300人ぐらい。
そのうち、住宅開発でできた団地が
三分の二ぐらいを占めている。
村の時代は、きっと、2千人程度だったのだろう。
(後日、国勢調査を調べて見ることにする)
その村にある「忠霊塔」
黒い金属のプレートがはめ込まれ、
村出身の戦没者の名前が刻まれている。
日清戦争時が2名。
あとは、1939年から1945年まで
戦死された土地は、
中国、ビルマ、南洋群島、フィリピン、
御前崎沖そして沖縄。
階級についての記述はなく、
年代が西暦で刻まれていることに、
私は、注目した。
後の戦争に比べて小数であった
日清戦争の死者が、この地に生まれ、
それをはるかにしのいだ日露戦争の
戦死者が出なかったのは
なぜだろう・・・などど思いながら、
しばらく、この場所にたたずんでいた。
「戦没者合祀氏名」を刻む銅版 ― 2009/08/09
切り裂かれたボール ― 2009/08/10
無縁仏化する戦死者の墓碑 ― 2009/08/11

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)









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