お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
あいば野演習場における過去の日米合同演習(メモ) ― 2009/09/14
先日、「日米合同演習反対 10/3 あいば野集会」 があることをブログで紹介しました。そのときに、「あいば野での日米合同演習は10回目」であることも合わせて、書いたのですが、その年代をすぐに思い出せませんでした。
調べ直して、メモとして、残しておくことにしました。
ちなみに、私は、このような合同演習が、海外で日米両軍が共同して戦争をする訓練であり、憲法を犯すものとして反対です。
■第一回目■
1986年11月24日から12月7日まで。
▽陸上自衛隊第35普通科連隊
(名古屋・守山 610名)
▽米海兵隊第3海兵連隊第1歩兵大隊
(沖縄 550名)
■第二回目■
1988年11月19日から12月1日まで。
▽陸上自衛隊第37普通科連隊
(大阪・和泉 543名)
▽米海兵隊機動展開部隊
(沖縄 620名)
■第三回目■
1991年11月22日から12月4日まで。
▽陸上自衛隊第7普通科連隊
(京都・福知山 730名)
▽米海兵隊第3海兵連隊第1歩兵大隊等
(沖縄 687名)
■第四回目■
1997年11月4日から17日
▽陸上自衛隊第46普通科連隊
(広島・海田 700名)
▽米陸軍第25軽歩兵師団第2-5歩兵大隊
(ハワイ 480名)
■第五回目■
1999年10月27日から11月6日
▽陸上自衛隊第33普通科連隊
(三重・久居 750名)
▽米第4海兵隊第3海兵連隊
(カリフォルニア 800名)
■第六回目■
2000年11月2日から18日
▽陸上自衛隊第15普通科連隊
(香川・善通寺 約750名)
▽米陸軍第25軽歩兵師団第1-27大隊
(ハワイ 約800名)
■第七回目■
2003年10月27日から11月9日
▽陸上自衛隊第36普通科連隊
(兵庫・伊丹 800名)
▽米第3海兵師団第4海兵連隊
(沖縄 850名)
■第八回目■
2006年2月19日から3月3日まで。
▽陸上自衛隊第8普通科連隊
(米子市 約350名)
▽米海兵隊第1-23予備役大隊
(テキサス 約250名)
■第九回目■
2008年11月28日から12月17日
▽陸上自衛隊第17普通科連隊
(山口 約250名)
▽米海兵隊第31海兵機動展開部隊
(沖縄)
とりあえずのメモです。
間違っている点があれば、ぜひ指摘をお願いします。
演習参加の各部隊についてお知りになりたい方は
以下のサイトを参考にしてください。
「在日米国海兵隊」のホームページは↓
http://www.kanji.okinawa.usmc.mil/Index.html
陸上自衛隊中部方面隊のホームページは↓
http://www.mod.go.jp/gsdf/mae/
調べ直して、メモとして、残しておくことにしました。
ちなみに、私は、このような合同演習が、海外で日米両軍が共同して戦争をする訓練であり、憲法を犯すものとして反対です。
■第一回目■
1986年11月24日から12月7日まで。
▽陸上自衛隊第35普通科連隊
(名古屋・守山 610名)
▽米海兵隊第3海兵連隊第1歩兵大隊
(沖縄 550名)
■第二回目■
1988年11月19日から12月1日まで。
▽陸上自衛隊第37普通科連隊
(大阪・和泉 543名)
▽米海兵隊機動展開部隊
(沖縄 620名)
■第三回目■
1991年11月22日から12月4日まで。
▽陸上自衛隊第7普通科連隊
(京都・福知山 730名)
▽米海兵隊第3海兵連隊第1歩兵大隊等
(沖縄 687名)
■第四回目■
1997年11月4日から17日
▽陸上自衛隊第46普通科連隊
(広島・海田 700名)
▽米陸軍第25軽歩兵師団第2-5歩兵大隊
(ハワイ 480名)
■第五回目■
1999年10月27日から11月6日
▽陸上自衛隊第33普通科連隊
(三重・久居 750名)
▽米第4海兵隊第3海兵連隊
(カリフォルニア 800名)
■第六回目■
2000年11月2日から18日
▽陸上自衛隊第15普通科連隊
(香川・善通寺 約750名)
▽米陸軍第25軽歩兵師団第1-27大隊
(ハワイ 約800名)
■第七回目■
2003年10月27日から11月9日
▽陸上自衛隊第36普通科連隊
(兵庫・伊丹 800名)
▽米第3海兵師団第4海兵連隊
(沖縄 850名)
■第八回目■
2006年2月19日から3月3日まで。
▽陸上自衛隊第8普通科連隊
(米子市 約350名)
▽米海兵隊第1-23予備役大隊
(テキサス 約250名)
■第九回目■
2008年11月28日から12月17日
▽陸上自衛隊第17普通科連隊
(山口 約250名)
▽米海兵隊第31海兵機動展開部隊
(沖縄)
とりあえずのメモです。
間違っている点があれば、ぜひ指摘をお願いします。
演習参加の各部隊についてお知りになりたい方は
以下のサイトを参考にしてください。
「在日米国海兵隊」のホームページは↓
http://www.kanji.okinawa.usmc.mil/Index.html
陸上自衛隊中部方面隊のホームページは↓
http://www.mod.go.jp/gsdf/mae/
二十歳の誕生日 ― 2009/09/14
「饗庭(あいば)野陸軍演習場」について ― 2009/09/14
10回目の日米合同演習が行われる高島市の「あいば野」演習場の起源について、少し紹介します。
陸上自衛隊は、北部方面隊、東北方面隊、中部方面隊、西部方面隊に分かれ、それぞれが演習場をもっています。あいば野演習場は、中部方面隊の演習場の一つです。
この演習場の始まりなどについて、大正十五年の『高島郡史』(復刻版)での饗庭野陸軍演習場の項の記述を見てみると、
明治19(1886)年は、プロイセン陸軍のメッケル参謀少佐が招聘された翌年にあたり、ちょうど、山県有朋などにより、軍の改革がはじまった年です。つまり、演習は、本格的に海外派兵を主任務とする軍隊へ変えようという動きと無縁では、なかったのでしょう。
「饗庭野陸軍演習場」は、「其後同隊の所属地たり」と書かれています。こうして現在に至る恒久的な演習場となったわけです。
引用している『高島郡史』は大正十五年版ですから、その年代までのことですが、
陸上自衛隊は、北部方面隊、東北方面隊、中部方面隊、西部方面隊に分かれ、それぞれが演習場をもっています。あいば野演習場は、中部方面隊の演習場の一つです。
この演習場の始まりなどについて、大正十五年の『高島郡史』(復刻版)での饗庭野陸軍演習場の項の記述を見てみると、
明治十九年三月陸軍演習場として饗庭野を買収す。同年十二月滋賀県より聯隊各大隊二週間滞在して来年春早々演習施行につき差支えの有無答申照会あり。二十年春大阪鎮台砲兵聯隊(野砲兵第四聯隊)射撃演習の為め来たりしを始とす。となっています。
明治19(1886)年は、プロイセン陸軍のメッケル参謀少佐が招聘された翌年にあたり、ちょうど、山県有朋などにより、軍の改革がはじまった年です。つまり、演習は、本格的に海外派兵を主任務とする軍隊へ変えようという動きと無縁では、なかったのでしょう。
「饗庭野陸軍演習場」は、「其後同隊の所属地たり」と書かれています。こうして現在に至る恒久的な演習場となったわけです。
当時舎営は附近村落の民屋を以て之に充てたり。(明治)四十一二年に亙りて附近を買収して演習地を拡大す。総面積四百二十萬九十五坪。四十三年陸軍演習場規則を発布せられし為め、従来第四師団に属せしを第十六師団管理に移さる。日露戦争が終わったのが、明治三十八(1905)年ですから、明治四十一~二年は、その数年後になります。演習場の拡大は、侵略戦争の拡大と密接に結びついているのがよくわかります。
引用している『高島郡史』は大正十五年版ですから、その年代までのことですが、
其後当演習場を使用するものは、京都、伏見、奈良、大津、敦賀屯在歩兵隊、大阪、深山、由良、舞鶴、金沢屯在砲兵隊と書かれています。当然、米軍はありません。
9月のなぎさ公園にて ― 2009/09/14
大塚英志『サブカルチャー反戦論』(角川書店) ― 2009/09/14
ある年の1月、頬をつつかれた気がして目を開けると、カミさんの大写しの顔があった。一瞬ひるむと、「亡くなったんだって」という声が落ちてきた・・・それが始まりだった。
TVはハイジャックされ、その死者の話題しか放送しなくなった。高校生のスポーツ大会は、決勝戦を行うことさえ許されなかった。派手な行事は、中止につぐ中止だった。
私は、別の世界に迷い込んだ気がした。そして、思った。「戦前の世界は死んではいなかったんだ」と。一人の人間の死が過去の世界を蘇らせる・・・その不可思議さに戸惑うほかはなかった。ばかばかしいと切り捨てることができないほど、日本国中が強い流れに押し流されていた。
これは私の体験した昭和天皇の死とその後に起きたことである。
大塚英志が『サブカルチャー反戦論』で述べていることは、ある意味で、私が感じたことに似ている。彼の場合は、ブッシュ政権の引き起こしたいくつかの戦争への文学者の反応についてであるけれど。
TVはハイジャックされ、その死者の話題しか放送しなくなった。高校生のスポーツ大会は、決勝戦を行うことさえ許されなかった。派手な行事は、中止につぐ中止だった。
私は、別の世界に迷い込んだ気がした。そして、思った。「戦前の世界は死んではいなかったんだ」と。一人の人間の死が過去の世界を蘇らせる・・・その不可思議さに戸惑うほかはなかった。ばかばかしいと切り捨てることができないほど、日本国中が強い流れに押し流されていた。
これは私の体験した昭和天皇の死とその後に起きたことである。
大塚英志が『サブカルチャー反戦論』で述べていることは、ある意味で、私が感じたことに似ている。彼の場合は、ブッシュ政権の引き起こしたいくつかの戦争への文学者の反応についてであるけれど。
日清戦争期の墓碑群 ~病死者の手がかり~ ― 2009/09/14
旧大津陸軍墓地のなかで、もっとも墓碑が多いのは、この場所(上の写真)です。207柱の墓碑があり、私はEブロックと(勝手に)呼んでいます。
調べてわかったことは、日清戦争に出征し、そこで病没した兵卒の墓地(1名の幹部候補生の墓碑を除いて)だということです。実際に、遺骨があるかどうかは確認できていません。当時の状況からしたら、死亡した遼東半島で火葬したか、土葬したかどちらかでしょう。
共通して刻まれているのは、階級、氏名、死亡場所、死亡年月日の4つです。日清戦争以外の大津営所での病死者(訓練中の病死もしくは発症)の墓碑は、出身地など個人データが刻まれていますが、これらの墓碑には、まったくありません。
葬られている何人かについては、戦前の『大津市志』などを参照して、出身地、死亡原因などを見つけることができました。それは、ごくわずかにすぎません。
そもそも、大津営所から出征したあと(ごく一部は台湾)、死亡(ほとんどの場合は病死)したすべての兵卒が葬られているのかどうかさえわかりません。
つい先日、大津市立図書館で『高島郡史』(大正15年)のなかから、高島郡出身で、西南戦争、日清戦争、日露戦争で亡くなった人たちの名前と出身地、所属部隊の一覧を見つけました。
旧大津陸軍墓地の墓碑と照らし合わせれば、なにかがわかるかも知れません。
調べてわかったことは、日清戦争に出征し、そこで病没した兵卒の墓地(1名の幹部候補生の墓碑を除いて)だということです。実際に、遺骨があるかどうかは確認できていません。当時の状況からしたら、死亡した遼東半島で火葬したか、土葬したかどちらかでしょう。
共通して刻まれているのは、階級、氏名、死亡場所、死亡年月日の4つです。日清戦争以外の大津営所での病死者(訓練中の病死もしくは発症)の墓碑は、出身地など個人データが刻まれていますが、これらの墓碑には、まったくありません。
葬られている何人かについては、戦前の『大津市志』などを参照して、出身地、死亡原因などを見つけることができました。それは、ごくわずかにすぎません。
そもそも、大津営所から出征したあと(ごく一部は台湾)、死亡(ほとんどの場合は病死)したすべての兵卒が葬られているのかどうかさえわかりません。
つい先日、大津市立図書館で『高島郡史』(大正15年)のなかから、高島郡出身で、西南戦争、日清戦争、日露戦争で亡くなった人たちの名前と出身地、所属部隊の一覧を見つけました。
旧大津陸軍墓地の墓碑と照らし合わせれば、なにかがわかるかも知れません。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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