お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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銅板に刻まれていたのは「軍、戦争(戦役)、階級、氏名」2009/09/04

銅板に刻まれていたのは「軍、戦争(戦役)、階級、氏名」
 「大字南小松区共有墓地」にある「慰霊碑」にも、他の慰霊碑と同様に、戦死者の名前を刻んだ銅板がはめ込まれています。
 このような名簿には、決まった書式がないようです。
 「大石村」の「忠霊塔」の名簿には、階級がありません。戦死された順番に、戦争もしくは死亡場所、戦死年月日、死亡年齢が記されています。
 北小松の「戦没者慰霊碑」は、名前だけで、イロハの順に並べられています。

 では、南小松の名簿はどうでしょうか。

 まず、陸軍か海軍かという区別があります。「陸軍之部」が先で、しかも圧倒的多数です。「海軍之部」の方は、少ないのです。
 それぞれの「部」では、亡くなった戦争の順に、戦死者の階級と名前が記されています。「陸軍之部」が53名、「海軍之部」が11名で、合計64名のリストとなっています。
 上の写真は、その右上の(最初の)部分です。

 南小松区では、「日清戦役」で1人の方、「日露戦役」でさらに1人の方が戦死されていることがわかります。
 その方の墓碑は、ここにあるのでしょうか?

日清戦争戦死者の碑(「陸軍歩兵二等卒 林力松碑」)2009/09/04

日清戦争戦死者の碑(「陸軍歩兵二等卒 林力松碑」)
 「大字南小松区共有墓地」の入り口には、とても目立つ墓碑が建っています。それは、集落を貫く三つの道が交差する地点にあたっていますから、だれもが通る場所にあるわけです。
 最初にこれを目にしたときは、日露戦争の墓碑にちがいないと思っていました。墓地の中心にある「慰霊碑」のプレートから、この墓碑は、日清戦争でなくなった方の碑だとわかりました。



 正面には力強い書体で、「陸軍歩兵二等卒 林 力松 碑」と刻まれています。100年以上たっているのに、鮮明です。



 右側面には、建立年月が刻まれていますが、「明治丗三年八月建立」と読めますね。

日露戦争戦死者の墓碑(「小林林之助塔」)2009/09/04

日露戦争戦死者の墓碑(「小林林之助塔」)
 この墓地の「慰霊塔」は、南小松で、日清戦争で1名、日露戦争で1名の方が戦死したことを物語っています。 日清戦争で亡くなったのは、林力松さん。日露戦争では、小林林之助さん。
 お二人の墓碑は、確かにありました。
 力松さんの墓碑は、一番目立つ入り口に。林之助さんのものは、さらに奥で、しかも端の方で目立たない場所に置かれていました。
 「小林林之助」さんの墓碑は、「塔」と刻まれています。これは、初めて目にするものです。
 名前の上に刻まれている文字がとても判読しにくくなっています。階級でもない様子です。



 よくよく見ると、「日露戦功紀念」と二行にわたって書かれています。たしかに墓ではなく、塔ということですね。
 左側面には、「明治四十三年●●建立」という文字が見えます。

ニコール・キッドマン『めぐりあう時間たち』2009/09/05

ニコール・キッドマン『めぐりあう時間たち』
 ニコール・キッドマン『めぐりあう時間たち』を、シネマで観たのは数年前のことでした。カミさんに連れられて、あたりはずれを気にしながら、席についたことを思い出します。しかし、冒頭のシーンと音楽にすぐ反応し、集中を切らすことなく、見終わりました。
 原作は、マイケル・カニンガム。
 ステキな音楽は、フィリップ・グラス。

 ヴァージニア・ウルフが頭にインプットされた最初のときでした。

 もう一度観たいと思っていましたが、「眠かった」というカミさんを誘うわけにもゆかず、DVDでいいかなと思って数年経ちますね。
 中古で見つけて買いました。
 メイキングなどが入った特典DISCがうれしくて、そちらから観ることにしました。
 今、見終わって、こうして日記を書いているのです。
 ・・・「はまるかも」状態です。

 実は、夏の初めに、ヴァージニア・ウルフの小説(翻訳で2冊)を買っていたのです。有吉佐和子『処女連祷』に登場したこともあって、村上春樹の後に、読もうかと思っていたのです。買ったそのときに、何ページか読めばちがっていたのですけれど、棚においてしまい、つい読みそびれていたのです。
 そうそう、斉藤美奈子さんの本をパラパラと読んだときに、天童荒太『永遠の仔』や村上春樹『海辺のカフカ』をボロクソにけなしていた箇所に出会いました。私も思わないではない内容でしたけれど、そこまで言うかという思いと同時に、流れに掉さす勇気に感心しました。
 今になって思えば、中古で105円でしたから、解毒剤風に買えばよかったかも知れません。

『覇王別姫』2009/09/06

TVでしたが、まともに京劇を見たのは初めてのこと。
主役は、勝者の劉邦ではなく、敗者の項羽と虞美人。
虞を演じる役者の見せ場が多い劇でした。
カミさんは、女性だと信じていた様子。

様式化された演技と結末の見えたストーリー。
違和感を感じさせるほど派手な衣装と化粧。
にもかかわらず、感情移入してしまいました。

それは、描かれた項羽の人間性によるのだと思いました。
自己の力を頼み、、怒りに理性を忘れる姿。
間違いを悟る素直さと
連勝連勝のあと、最初の敗戦で最後を迎える悲劇性。
虞美人への率直な思い。
それに応える虞の賢明さと決意。

日露戦争で亡くなった輜重輸卒の墓碑@北小松2009/09/07

日露戦争で亡くなった輜重兵卒の墓碑@北小松
 北小松の墓地の「戦没者慰霊碑」には、70名を超える戦死者の名前を刻んだプレートがあります。同地にある最も古そうな墓碑は、どなたのものか、そのプレートを手がかりに、特定しようかと思いました。
 「陸軍輜重輸卒」の下は、「松井」と読める気がします。
銅版には、「松井」姓の方は、8名いらっしゃいますが、はたして、どなたなのでしょうか。
 最後の一文字は、「碑」らしく思えます。



 左側面には、「明治四十年二月建立」の文字が、かろうじて読み取れます。

「日米合同演習反対 10/3 あいば野集会」2009/09/07

 あいば野平和運動連絡会の事務局長のHさんから、文書をいただきましたので、紹介します。

 滋賀県の高島市にある「あいば野演習場」で、10月上旬から下旬にかけて、アメリカ陸軍第42歩兵師団第1-69歩兵大隊と陸上自衛隊第7普通科連隊(福知山)が参加する「日米合同演習」が実施されるそうです。
 あいば野での日米合同演習は、今回が10回目になります。
 抗議集会は、10月3日(土)午後2時から4時まで。集合場所は、高島市今津町の「住吉公園」。

 あいば野平和運動連絡会から、高島市に「あいば野演習場における日米合同演習に反対する請願書」が出されます。その文面も紹介しておきます。

あいば野演習場における日米合同演習に反対する請願書

高島市議会議長 渡邉近治 様

請願の趣旨
 陸上自衛隊幕僚監部はさる7月17日、「米陸軍と中部方面隊の日米共同実働訓練を、10月上旬から下旬に、滋賀県あいば野演習場および今津駐屯地で実施する」旨、発表しました。
 しかし、この演習は、自衛隊の海外派兵に向けて、「実戦経験豊かな」米軍から、自衛隊が「人殺し」の訓練を受けるものです。
 いま、海賊対策を名目にソマリア沖などへの自衛隊の派兵が行われていますが、このような「個別の派兵法では間にあわない」として『海外派兵恒久法』の制定が画策されています。
 また日常の演習内容も、専守防衛のための訓練から、海外で戦争するための訓練に変化し、あいば野においても、海外派兵の中核部隊として創設された「中央即応隊」との共同訓練が昨年9月全国ではじめて実施され、増設された「市街地訓練所(都市型戦闘訓練施設)」では、中部方面隊管内から年間数千人が来演し、「人殺し」の訓練を受けています。今回の日米合同演習は、これら日常訓練の集大成として行われるもので、自衛隊海外派兵を先取りする憲法違反の危険な演習です。
 今回参加する部隊は、自衛隊は第3師団第7普通科連隊(京都府福知山市)、米陸軍は第42歩兵師団第1-69歩兵大隊(ニューヨーク州兵)で、あいば野における日米合同演習は、昨年12月に続いて、1986年以来10回目になります。
 今後もあいば野に米軍が来ることが続けば、在沖縄海兵隊の「本土移転訓練」が年1回程度実施されている王城寺原演習場(宮城県)や日出生台演習場(大分県)などのように、あいば野に米軍専用の宿泊施設や食堂が建設される恐れがあり、米軍基地周辺で日常化している「米軍犯罪」が高島市内でおこる可能性も生まれ、高島市の発展にとって大きな障害になります。
 ついては、上記の趣旨をふまえて、貴議会が下記事項を決議し、関係省庁へ意見書を提出されるよう請願します。

 請願事項  あいば野演習場における日米合同演習に反対すること

異土での「戦死」と向き合うとき2009/09/08

戦死者の墓碑に刻まれたカタカナの文字は無念さを語る気がします
 9月初旬の太陽は、夏の力強さを残していて、モノの輪郭を鮮明に浮き立たせています。そんななか、わずかな時間を見つけては、墓地を歩いてきました。
 隣のテニスコートから、時折声がきこえるぐらい墓地は静かに思えます。実際には、大きな道路に面していましたから、車の騒音は絶えず響いていたのでしょうけれど、私にはほとんで感じられませんでした。
 墓地を半分ぐらい巡ったときに、一人の方とすれちがい、挨拶を交わしたぐらいで、人影はありません。
 南小松の墓地でもそうでしたが、戦死者の墓碑のいくつかが、新しいものに代わっています。8月のお盆を機会に、更新されているのかもしれません。墓石も安価ではありえないでしょうに、戦死者への敬慕がいまなお遺族のなかに残り、生きているのを感じます。

 戦死者の墓碑をひとつも見逃すまいとできるだけゆっくりと歩きます。そうして、2年間が過ぎましたが、いつも感じること、それは、カタカナのもつ違和感です。日本の地名には、カタカナは稀です。高島市の「マキノ町」はその一つではあるのですけれど。



 ですから、上の写真のような碑文が次々を並んでいるのを見ると、遺族の思い、そそして、故郷を遠く離れた異国で亡くなった若者の無念さを強く意識するのです。



 恒常的な海外派兵法ができれば、70年近い時を隔てて、ふたたび、このような墓碑と遺族の悲しみを生みだすことになります。
 戦前は、忠義の死、お国のための死として、社会的に認知され、強制されていたものが、いまは、存在しません。
 派兵されていく若者は、自分の死とどう向き合えばいいのか、そんな迷いや恐れをいだいているように思えるのです。

戦争の傷跡~「忠霊碑」を求めて歩く~2009/09/08

大津南部の小学校の校庭に忠魂碑はありました
 ある学区の支所に「忠魂碑が近くにあると聞いたのですが、どこか教えてください」と訪ねていきました。受付の女性の方は二人とも、すぐに返事ができませんでした。そこで、支所の壁に貼ってある学区内の史跡の写真コーナーまで足を運びましたが、そこにはありませんでした。
 「もしかして、小学校の近くにあるあれかな?」と言いながら、支所長らしい男性のところへ行って、聞いた様子でした。男性の方は出てこられて、「それは、近くの公園の隅にあります。その門を左に曲がった先です」と簡単な地図を書いて、渡していただけました。
 支所から歩いて、3分程度の距離でしたし、よく知っている地域でしたので、すぐ見当がつきました。「なぜ、気がつかなかったのだろう」と自問しながら、歩きました。
 小学校は道路より一段高い岡の上に立てられています。公園も同じ高さでしたから、見上げる形になりました。
 しかし、公園の入り口は閉鎖されていました。
 それは小学校に通じているからだと思います。不審者の侵入を押さえるために。
 私の昼休み時間はもうなくなりかけていました。
 ですから、あらためて小学校に申し入れたりする余裕はなく、まもなく午後の授業時間ですから、とても無理なことです。
 目的のモノは、30メートルから50メートルの距離。
 望遠レンズにすればよかったと後悔しました。
 写真を撮ることがあきらめきれずに、柵の外から撮りました。
 わかりますでしょうか?
 心のなかで、子ども達を盗撮する変質者みたいだと苦笑しましたが、冗談に終わらない恐れもありそうですね。

 遠くから見ると、2つ建造物があります。1つは青銅製らしき尖った塔(写真の真ん中)、もうひとつは階段をもつ礼拝施設(右にありますが木がじゃまして写っていません)に見えます。それらは関係するものなのでしょうね。
 青銅の尖った建築物には、なにか文字が書いてあります。
 急な土手の上にフェンスがあり、そのフェンスにしがみついて、撮りました。こうなるともう危ない人と間違われる危険水域。
 別の機会に、申し入れて撮らせてもらうことにします。

小学校に屹立する軍人勅諭 ~今の風景~2009/09/08

小学校に屹立する軍人勅諭 ~今の風景~
 前の日記の続きです。
 私が近づけなかった「忠魂碑」(はたしてこういう名前なのかどうかも確認できませんでした)には、なにが刻まれているのか、とても興味のあるところでした。
 カメラで撮った後、拡大して見て驚きました。
 そこには、次のように書いてありました。(上の写真をクリックしてください)

『1.軍人は禮儀を正しくすへし』

 これは、私が頭の知識としてのみ知っていた「軍人勅諭」の一文にちがありません。「軍人勅諭」は5箇条あります。ということは、砲弾形の塔の側面は五角柱で、その一面一面に、「軍人勅諭」の条文が刻まれているということになります。



 私が衝撃をうけたのは、それが、当たり前のように、小学校に残り、子ども達の目の前に存在しているという事実です。もちろん、その条文を子ども達が暗唱するなどということはないでしょう。しかし、そういう精神を幼い頃からたたき込むことを目的とした建造物の周りで子どもたちが遊ぶ姿は、戦前の風景を見ているようでした。

軍人勅諭 明治15年陸軍省 達乙第2号 (1月4日)

 本日別紙之通 勅諭有之候条右写相添此旨相達候事(東京鎮台士官学校戸山学校教導団ヘハ「勅諭本書ハ追テ可相渡候事」ノ但書ヲ加フ参謀本部監軍本部近衛局ヘ通牒尤近衛局ヘハ但書ノ趣意ヲ加フ)
 我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬(み)つから大伴物部の兵(つわもの)ともを率ゐ中国(なかつくに)のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座(たかみくら)に即(つ)かせられて天下(あめのした)しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ此間世の様の移り換るに随ひて兵制の沿革も亦屡(しばしば)なりき古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御制(おんおきて)にて時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと大凡兵権を臣下に委ね給ふことはなかりき中世(なかつよ)に至りて文武の制度皆唐国風(からくにぶり)に傚(なら)はせ給ひ六衛府を置き左右馬寮を建て防人(さきもり)なと設けられしかは兵制は整ひたれとも打続ける昇平に狃(な)れて朝廷の政務も漸(ようやく)文弱に流れけれは兵農おのつから二に分れ古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に変り遂に武士となり兵馬の権は一向(ひたすら)に其武士ともの棟梁たる者に帰し世の乱と共に政治の大権も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ世の様の移り換りて斯なれるは人力もて挽回(ひきかえ)すへきにあらすとはいひなから且は我国体に戻(もと)り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき降りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政(まつりごと)衰へ剩(あまつさえ)外国の事とも起りて其侮(あなどり)をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇いたく宸襟(しんきん)を悩し給ひしこそ忝(かたじけな)くも又惶(かしこ)けれ然るに朕幼(いとけな)くして天津日嗣を受けし初征夷大将軍其政権を返上し大名小名其版籍を奉還し年を経すして海内一統の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼ありて朕を輔翼せる功績(いさを)なり。歴世祖宗の專蒼生を憐み給ひし御遺沢(ゆゐたく)なりといへとも併(しかしながら)我臣民の其心に順逆の理を弁(わきま)へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更(あら)め我国の光を耀さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の様に建定めぬ夫兵馬の大権は朕か統(す)ふる所なれは其司(つかさ)々をこそ臣下には任すなれ其の大綱は朕親(みずから)之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨(このむね)を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱(ここう)と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親(したしみ)は特(こと)に深かるへき朕か国家を保護して上天(しょうてん)の恵に応し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を尽すと尽さゝるとに由るそかし我国の稜威(みいず)振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維揚りて其栄を耀さは朕汝等と其誉(ほまれ)を偕にすへし汝等皆其職を守り朕と一心(ひとちこころ)になりて力を国家の保護(ほうご)に尽さは我国の蒼生は永く太平の福(さいはひ)を受け我国の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭(をしえさと)すへき事こそあれいてや之を左に述へむ

1.軍人は忠節を尽すを本分とすへし

 凡(おおよそ)生を我国に稟(う)くるもの誰かは国に報ゆるの心なかるへき況(ま)して軍人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報国の心堅固ならさるは如何程技芸に熟し学術に長するも猶偶人にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし抑(そもそも)国家を保護し国権を維持(ゆゐぢ)するは兵力に在れは兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覺悟せよ其操を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ

1.軍人は礼儀を正しくすへし

 凡(おおよそ)軍人には上元帥より下一卒に至るまて其間に官職の階級ありて統属するのみならす同列同級とても停年に新旧あれは新任の者は旧任のものに服従すへきものそ下級のものは上官の命を承(うけたまわは)ること実は直(ただち)に朕か命を承る義なりと心得よ己か隷属する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より旧きものに対しては総へて敬礼を尽すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊(いささか)も軽侮驕傲の振舞あるへからす公務の為に威厳を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇に取扱ひ慈愛を専一と心掛け上下一致して王事に勤労せよ若軍人たるものにして礼儀を紊(みだ)り上を敬はす下を恵ますして一致の和諧(くわかい)を失ひたらむには啻(ただ)に軍隊の蠧(と)毒たるのみかは国家の為にもゆるし難き罪人なるへし

1.軍人は武勇を尚(とうと)ふへし

 夫(それ)武勇は我国にては古よりいとも貴へる所なれは我国の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし況して軍人は戦に臨み敵に当るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血気にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらんものは常に能く義理を弁へ能く坦力を練り思慮を殫(つく)して事を謀るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼れす己か武職を尽さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接(はじは)るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼(さいろう)なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ

1.軍人は信義を重んすへし

 凡(おおよそ)信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難かるへし信とは己か言(こと)を践行(ふみおこな)ひ義とは己か分を尽すをいふなりされは信義を尽さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審(つまびらか)に思考すへし朧気なる事を仮初(かりそめ)に諾ひてよしなき関係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷(きはま)りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし始に能々事の順逆を弁へ理非を考へ其言は所詮践むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に践迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世(のちのよ)まて遺せること其例尠からぬものを深く警(いまし)めてやはあるへき

1.軍人は質素を旨とすへし

 凡(おおよそ)質素を旨とせされは文弱に流れ軽薄に趨(はし)り驕奢華靡の風を好み遂には貪汚(たんを)に陷りて志も無下に賤しくなり節操も武勇も其甲斐なく世人(よのひと)に爪はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の伝染病の如く蔓延し士風も兵気も頓に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼れて曩(さき)に免黜条例を施行し略此事を誡め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故(ことさら)に又之を訓ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡(をしう)を等閒(なおざり)にな思ひそ

 右の5ヶ条は軍人たらんもの暫も忽(ゆるがせ)にすへからすさて之を行はんには一の誠心(まごころ)こそ大切なれ抑此5ヶ条は我軍人の精神にして一の誠心は又5ヶ条の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの装飾(かざり)にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし況してや此5ヶ条は天地の公道人倫の常經(じょうけい)なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵(したが)ひて此道を守り行ひ国に報ゆるの務を尽さは日本国の蒼生挙(こぞ)りて之を悦ひなん朕一人(いちにん)の懌(よろこび)のみならんや

明治15年1月4日

御名

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)