
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
日清戦争の戦没者=林甚蔵の墓碑を見つける@旧高島町 ― 2010/09/27
日清戦争期に、高島郡(現高島市)出身者で戦病死したのは、記録によれば、17名となっています。
当時の出身地で分ければつぎのようになります。
私は、それぞれの戦病死場所と日付、墓碑の所在を捜してきました。
17名のうち7名の墓碑は、旧大津陸軍墓地(私がEブロックと名付けた墓地)にありました。それが以下の若者たちです。
その他の10名のうち、2010年5月までに見つけたのは、三矢松太郎ただ一人でした。
8月はじめに、棚田で有名な「畑」に出かけてきました。
そして、見つけたのが、畑の共同墓地。その最も目立つ墓碑が「故陸軍歩兵一等卒林甚蔵碑」でした。
安曇川の田中共同墓地で、もう一柱、日清戦争の戦病死者の碑を見つけましたが、時系列的には、林甚蔵が先なので、田中共同墓地の紹介の前に、ブログに記すことにしました。
当時の出身地で分ければつぎのようになります。
高島郡出身者で日清戦争期に亡くなった兵
①剣熊村
②海津村
③西庄村 1名 井花長太郎(蛭口)
④百瀬村
⑤川上村
⑥今津村
⑦三谷村
⑧饗庭村 2名 富田梅吉(饗庭)、内田検次郎(旭)
⑨新儀村 1名 大塚長次郎(太田)
⑩本庄村
⑪青柳村
⑫安曇村 3名 日置卯市(三尾里)、山崎松蔵(田中)、福井乙吉(常盤木)
⑬広瀬村
⑭水尾村 1名 吉田伊之助(宮野)
⑮大溝町 5名 三矢松太郎(永田)、中村林造(勝野)、仁賀宗太郎(勝野)、島村幸太郎(勝野)、中江幸四郎(音羽)
⑯高島村 2名 奥村粂蔵(拝戸)、林甚蔵(畑)
⑰朽木村 2名 森岩五郎(栃生)、金子兼助(宮前坊)
私は、それぞれの戦病死場所と日付、墓碑の所在を捜してきました。
17名のうち7名の墓碑は、旧大津陸軍墓地(私がEブロックと名付けた墓地)にありました。それが以下の若者たちです。
旧大津陸軍墓地 Eブロックに眠る高島郡兵卒名
●陸軍歩兵二等卒 中村 林蔵
●陸軍歩兵二等卒 福井 乙吉
●陸軍歩兵上等兵 内田検次郎
●陸軍歩兵二等卒 奥村久米蔵
●陸軍歩兵一等卒 井花長太郎
●陸軍歩兵一等卒 日置 卯市
●陸軍輜重輸卒 富田 楳吉
*記述は、大津市が作成した名簿のままにしています。
その他の10名のうち、2010年5月までに見つけたのは、三矢松太郎ただ一人でした。
8月はじめに、棚田で有名な「畑」に出かけてきました。
そして、見つけたのが、畑の共同墓地。その最も目立つ墓碑が「故陸軍歩兵一等卒林甚蔵碑」でした。
安曇川の田中共同墓地で、もう一柱、日清戦争の戦病死者の碑を見つけましたが、時系列的には、林甚蔵が先なので、田中共同墓地の紹介の前に、ブログに記すことにしました。
戦争の傷跡をおって ~田中共同墓地を訪問~ ― 2010/09/27
八代孝憲さんに、田中共同墓地(安曇川町)の案内をしていただきました。
ご高齢であることをまったく意識させないお元気さでした。ご住職でもあるでしょうけれど、深い知識と見識には敬意をいだきました。町の要職を務められたとはあとで知ったことですが、なるほどと思いました。
防虫スプレーを持参していただいたことに感謝します。その心遣いそのままのお人柄でした。
さて、私が墓地を巡るようになったのは、2007年8月からです。
小関越の途中にある墓地が最初でした。それまで、そこにあっても、近づくことも、調べることもせずに過ごしてきました。もちろん、一般的な墓地への怖れもあったのだと思います。
私がそのとき初めて抱いた気持ちは、不思議なものでした。
墓碑と生きている私たちは、空間は共有していますが、時間を共有していない・・・難しい表現ですが、墓地には凍った時間があると思ったのです。墓碑はなにかを訴えている・・・たぶん、忘れないでほしいと。しかし、それを強要しているわけではなく、静かにそこに存在し、朽ちていきながら、いくさへの警告を発しているのだと思いました。
顔を上げたとき、多数の戦死者の墓碑が目に映りました。そして、見て見ぬふりをやめて、向き合う決心をしました。同時に、幼時に遊びまわった忠魂碑や旧陸軍墓地の記憶がよみがえり、いまはどうなったのかと探求を始めたのです。
私がブログにアップし始めた頃、最初の出会いがありました。
「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」の方々です。コメントをいただいて、訪問させていただきました。
素人ながら調査をやり、その結果を載せることにどれだけの意味があるのか、疑問に感じながらやってきました。しかし、墓碑についての問い合わせを受け、いままで見つからなかった縁者の墓碑が見つかったと感謝の連絡をいただいたときには、ムダではなかったと安堵しました。
そして、今回の八代さんとの出会いです。
田中共同墓地は、高島市で最も大きな墓地に一つだと思いました。その成り立ちだけでなく、戦死者の墓碑が置かれている場所なども興味ぶかく、今後も何度も足を運び、八代さんのお世話になると思います。いつまでもお元気で、お相手いただきたく思います。
八代さん以外に、何名かの方から連絡を頂いています。春からのブランクが大きくて、失礼な対応となりました。重ねてお詫びし、コメントかえしをしたいと思います。
私への連絡方法は、コメントでも結構ですし、右の欄外に掲載しているメールアドレスでもかまいません。
mr.bin猫i.softbank.jp(猫を@に変えてください)でもいいです。
よろしくお願いします。
ご高齢であることをまったく意識させないお元気さでした。ご住職でもあるでしょうけれど、深い知識と見識には敬意をいだきました。町の要職を務められたとはあとで知ったことですが、なるほどと思いました。
防虫スプレーを持参していただいたことに感謝します。その心遣いそのままのお人柄でした。
さて、私が墓地を巡るようになったのは、2007年8月からです。
小関越の途中にある墓地が最初でした。それまで、そこにあっても、近づくことも、調べることもせずに過ごしてきました。もちろん、一般的な墓地への怖れもあったのだと思います。
私がそのとき初めて抱いた気持ちは、不思議なものでした。
墓碑と生きている私たちは、空間は共有していますが、時間を共有していない・・・難しい表現ですが、墓地には凍った時間があると思ったのです。墓碑はなにかを訴えている・・・たぶん、忘れないでほしいと。しかし、それを強要しているわけではなく、静かにそこに存在し、朽ちていきながら、いくさへの警告を発しているのだと思いました。
顔を上げたとき、多数の戦死者の墓碑が目に映りました。そして、見て見ぬふりをやめて、向き合う決心をしました。同時に、幼時に遊びまわった忠魂碑や旧陸軍墓地の記憶がよみがえり、いまはどうなったのかと探求を始めたのです。
私がブログにアップし始めた頃、最初の出会いがありました。
「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」の方々です。コメントをいただいて、訪問させていただきました。
素人ながら調査をやり、その結果を載せることにどれだけの意味があるのか、疑問に感じながらやってきました。しかし、墓碑についての問い合わせを受け、いままで見つからなかった縁者の墓碑が見つかったと感謝の連絡をいただいたときには、ムダではなかったと安堵しました。
そして、今回の八代さんとの出会いです。
田中共同墓地は、高島市で最も大きな墓地に一つだと思いました。その成り立ちだけでなく、戦死者の墓碑が置かれている場所なども興味ぶかく、今後も何度も足を運び、八代さんのお世話になると思います。いつまでもお元気で、お相手いただきたく思います。
八代さん以外に、何名かの方から連絡を頂いています。春からのブランクが大きくて、失礼な対応となりました。重ねてお詫びし、コメントかえしをしたいと思います。
私への連絡方法は、コメントでも結構ですし、右の欄外に掲載しているメールアドレスでもかまいません。
mr.bin猫i.softbank.jp(猫を@に変えてください)でもいいです。
よろしくお願いします。
カタイとか、神経質といわれたワンコのQooですが、元気にすることはできます(笑) ― 2010/09/27
家族がQooを獣医さんに連れて行き、
そこで、いろいろアドバイスをもらうのですが、
私には不可解なことが多いのです。
たとえば、
「この犬はカタイですね」
触った感じがそうなのか?
ヤワラカイってどんな感じなのか
わからないので、私は??
家族はなるほどと言っています。
(ついていけない私です)
幼犬はもっとコロコロ、フサフサ感が
あるのかも知れません。
「神経質ですね」
一目見て、そう言われたらしいのです。
なんでわかるんでしょうね。
やせているから?
ワンコをめぐって話題がつきません。
Qooが予防注射をした日、
カミさんの元気がありません。
Qooを見たら、Qooも元気がありません。
いっしょに落ち込んでいます・・・。
そこで思い出しました。
柴犬は賢いだけでなく、飼い主にもっとも忠実。
飼い主が病気で食欲がないときは、
いっしょになってモノを食べないとか。
Qooを譲ってくれた U先生 が
電話でそう言っていました。
なるほど、なるほど。
突然の親切を思いつきました。
カミさんに「デザートを買ってくる」と言いました。
希望はなに?
少し高めのアイスクリームでしたが、
服を着替えて、買い物へ。
カミさんは気持ちが切り替わったように元気に、
当然のように・・・Qooも元気に。
やっぱりなんだと思いました。
U先生は、えらいです。
今度は、逆を試したらいいですね。
Qooを元気に、すると・・・。
そこで、いろいろアドバイスをもらうのですが、
私には不可解なことが多いのです。
たとえば、
「この犬はカタイですね」
触った感じがそうなのか?
ヤワラカイってどんな感じなのか
わからないので、私は??
家族はなるほどと言っています。
(ついていけない私です)
幼犬はもっとコロコロ、フサフサ感が
あるのかも知れません。
「神経質ですね」
一目見て、そう言われたらしいのです。
なんでわかるんでしょうね。
やせているから?
ワンコをめぐって話題がつきません。
Qooが予防注射をした日、
カミさんの元気がありません。
Qooを見たら、Qooも元気がありません。
いっしょに落ち込んでいます・・・。
そこで思い出しました。
柴犬は賢いだけでなく、飼い主にもっとも忠実。
飼い主が病気で食欲がないときは、
いっしょになってモノを食べないとか。
Qooを譲ってくれた U先生 が
電話でそう言っていました。
なるほど、なるほど。
突然の親切を思いつきました。
カミさんに「デザートを買ってくる」と言いました。
希望はなに?
少し高めのアイスクリームでしたが、
服を着替えて、買い物へ。
カミさんは気持ちが切り替わったように元気に、
当然のように・・・Qooも元気に。
やっぱりなんだと思いました。
U先生は、えらいです。
今度は、逆を試したらいいですね。
Qooを元気に、すると・・・。
チーの目 ― 2010/09/27
「陸軍輜重輸卒山崎松蔵碑」 ~日清戦争期の戦病死者の墓碑はどこに建てられるか~ ― 2010/09/27
2008年8月以降、墓地を見つけると、カメラ片手に戦死者の墓碑を捜します。しかし、戦死者の墓碑は一般の墓碑とは形も大きさも違うので、見つけることは容易でした。最初のうちは、見つけて記録することに夢中で、墓地のなかでの位置などについて、考えることができませんでした。
いくつかの墓地をめぐるうちに、同じパターンがあることに気がつきます。
地域社会にとって最初の戦死者---たいていは日清や日露の戦病死者です---の墓碑は特別な位置に置かれていて、しかも他を圧する大きさだということでした。
特別な位置といいましたが、具体的には墓地の入り口です。
たとえば、旧志賀町の木戸共同墓地の「故陸軍伍長山村秀吉之墓」や南小松の「陸軍歩兵二等卒林力松碑」などがそうです。旧高島郡高島町の中野墓地の「陸軍歩兵一等卒中村林蔵碑」もそうですね。
安曇川の田中共同墓地もそうでした。
墓地の入り口を示す鳥居から入ってすぐ右には、日露戦争の墓碑、左には、日清戦争の墓碑=「陸軍輜重輸卒山崎松蔵碑」(写真)がありました。高島郡の日清戦争の戦病死者17名中、私自身が場所を特定できた9人目の墓碑です。
地域最初の戦死者の墓碑の位置や大きさは、近代戦争が、地域社会に与えた衝撃をそのまま表している気がします。同時に、不条理な死への悲しみを癒すと共に、軍人としての死を称え、促進する明治政府の意図もあったことでしょう。
実際、「輜重輸卒(しちょうゆそつ)」は兵として扱われず、いわば牛馬のような悲惨な扱いを受けていました。ですから、碑のりっぱさとはそぐわず、村の誇りとして建てられたにせよ、官製のそらぞらしさを感じるのです。
田中墓地を案内していただいてはじめてわかったことがあります。
それは、日清戦争の墓碑(山崎松蔵碑)は、建立当時はこの墓地にはなかったというのです。
私は、そうなんだと関心するとともに、反省しました。これまでは、墓碑が移動していることを念頭に置くことはありませんでした。昔もそこにあったものとして、墓地の有りようを考えていたからです。
いわれてみれば、三井寺山中にある西南戦争の碑も、当初は、観音堂の近くにあったわけです。
では、「山崎松蔵碑」は、どこにあったのか。
八代さんに、丁寧に、その場所まで案内していただきました。
私にとっては、意外な場所でもありました。
いくつかの墓地をめぐるうちに、同じパターンがあることに気がつきます。
地域社会にとって最初の戦死者---たいていは日清や日露の戦病死者です---の墓碑は特別な位置に置かれていて、しかも他を圧する大きさだということでした。
特別な位置といいましたが、具体的には墓地の入り口です。
たとえば、旧志賀町の木戸共同墓地の「故陸軍伍長山村秀吉之墓」や南小松の「陸軍歩兵二等卒林力松碑」などがそうです。旧高島郡高島町の中野墓地の「陸軍歩兵一等卒中村林蔵碑」もそうですね。
安曇川の田中共同墓地もそうでした。
墓地の入り口を示す鳥居から入ってすぐ右には、日露戦争の墓碑、左には、日清戦争の墓碑=「陸軍輜重輸卒山崎松蔵碑」(写真)がありました。高島郡の日清戦争の戦病死者17名中、私自身が場所を特定できた9人目の墓碑です。
地域最初の戦死者の墓碑の位置や大きさは、近代戦争が、地域社会に与えた衝撃をそのまま表している気がします。同時に、不条理な死への悲しみを癒すと共に、軍人としての死を称え、促進する明治政府の意図もあったことでしょう。
実際、「輜重輸卒(しちょうゆそつ)」は兵として扱われず、いわば牛馬のような悲惨な扱いを受けていました。ですから、碑のりっぱさとはそぐわず、村の誇りとして建てられたにせよ、官製のそらぞらしさを感じるのです。
田中墓地を案内していただいてはじめてわかったことがあります。
それは、日清戦争の墓碑(山崎松蔵碑)は、建立当時はこの墓地にはなかったというのです。
私は、そうなんだと関心するとともに、反省しました。これまでは、墓碑が移動していることを念頭に置くことはありませんでした。昔もそこにあったものとして、墓地の有りようを考えていたからです。
いわれてみれば、三井寺山中にある西南戦争の碑も、当初は、観音堂の近くにあったわけです。
では、「山崎松蔵碑」は、どこにあったのか。
八代さんに、丁寧に、その場所まで案内していただきました。
私にとっては、意外な場所でもありました。

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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