お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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再び旧大津陸軍墓地の調査発表の機会がくる2008/02/02

 「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」の小田康徳先生から連絡をいただきました。内容は、3月23日(日)の会の研究会で旧大津陸軍墓地の研究発表をしないかというお話でした。
 仕事で多忙はいつものことですから、タイミングは問わないにしても、だいたい2ヶ月程度の期間は、準備にはちょうどいいかも知れません。
 ということで、お受けすることにしました。
 調査結果も一定の形にしないと努力が無になります。
 小冊子でもつくるつもりで、3月に備えたいと思います。

 しばらく、この問題は休眠状態でしたから、思い出すまでに時間がかかるかも知れません。

信じられないことに「中村定吉」の名前が出てきた2007/12/01

●中村節男はだれの縁者か

旧大津陸軍墓地のMブロック。
そこに「中村節男」と「中村男」という
二つの墓碑が並んで建っている。

「中村節男」の墓石に左側面に
中村定吉之長男」という文字がある。
私は、刻まれているとすれば、
中村無一」という
第九連隊長の名前だと思っていた。
Mブロックには、連隊長か副連隊長クラスの
縁戚しか埋葬されていないからだ。
だが、墓碑には
「中村定吉」とはっきり刻まれている。

●地権者の墓碑??

たまたま、この地に住んでいた
だれかのものかと思い、
用地買収した元の地権者の
名前まで探してみた。
だが、「中村」という文字はない。

●アジア歴史センターで

半ばあきらめながら、こんどは
アジア歴史資料センターのサイトで検索を試みる。
「中村」で検索して、
そのあと「定吉」で絞り込むという方法。
22件も登場。
少し期待がもてた。
だが、「中村」と「定吉」がバラバラ
(長谷方定吉と中村一男とか)になっていたり、
年代がかけ離れていたり・・・。

●中村少尉

そのなかで「中村少尉結婚願の件
というのが出てきた。
明治32年とある。
開けると「中村定吉」の文字。
少尉クラスで見事に当たるとは思えなかったが、
画像を開いて驚いた。

大当たりなのだ。

●中村無一連隊長の長女の婿

結論は、中村無一連隊長の長女の婿
それが「中村定吉」だったのである。
となると、「節男」は、
無一の孫ということになる。
だが、結婚願いが明治32年。
節男の没年が明治35年である。
3歳にならない・・・夭折である。
これも悲しい墓碑なのだ。

肆第一九九三号 第四師団 中村歩兵少尉結婚願之件 御指令案 願之通 十月十九日 結婚願 長﨑県肥前国長﨑市外浦町 士族武官 中村無一長女 ハワチヨ 明治十五年十二月一日生 明治三十二年十一月十六年十一个月 定吉儀 今般熟談ノ上右ニ記載ノ者ト結婚致度依テ別紙身元証書家計保護金証書相添差出候間御許可被下度此段奉願候也 明治三十二年十月十日 陸軍歩兵少尉中村定吉 陸軍大臣子爵桂太郎 前書之趣篤ト取調候処不都合无之ニ付御許可相成度候也 第四師団長陸軍中将男爵小川又次 家計保護金証書 一金六百円也 右今般結婚奉願候ニ付御許可ノ上家計保護金トシテ可差出候也 明治三十二年十月十日 陸軍

「中村節男」の墓碑に刻まれた「中村定吉之長男」の文字2007/12/01

「中村定吉之長男」の文字(中村節男の墓より)@旧大津陸軍墓地
11月24日の「旧大津陸軍墓地を見て考え語り合う会」のあと、
AブロックとMブロックの墓碑の写真を整理していた。

Mブロックは、将校の縁戚者の墓地。
そこに「中村節男之墓」がある。
その左側面に
中村定吉之長男」と
刻まれていた。
私はてっきり「中村無一」という
第九連隊長の名前があるのだと思っていた。

中村定吉とは何者なんだろうか。

『霊土』の碑@旧大津陸軍墓地2007/11/30

霊土の碑@旧大津陸軍墓地
 1976年以前には存在しなかった小さな碑が、現在、旧大津陸軍墓地にある。それが、「天 霊土」と刻まれた碑である。由来は、どこにも書いていない。ごく小さなものであるだけに、何度も、足を運んだ私も気がつかなかった。ある日、気がついて、ともかく写真を撮った。11月24日の会のあと、西大津駅の喫茶店に入って、お話しをするうちに、やっとその意味がわかった。

●237柱の墓地の移葬

 1976年まで、上段・中段・下段と分かれていた旧大津陸軍墓地に、重大な事態が生まれる。それは、バイパスを墓地内を通過させること、そして、そのために、墓地を移設するという話である。事の良し悪しは問わないが、その結果、下段の墓地全体を破壊することとなった。奉賛会の人たちは反対したが、押し切れらたのだ。

●骨は溶けるが革靴は残る

 下段は、兵卒の墓碑が237柱並んでいた。全体の3分の1以上になる。移すために、掘り返すことになった。それらの兵士の墓は、土葬であった。しかも、座った状態で棺にいられれて葬られていた。「骨は溶けてなくなっていたが、革靴などはそのまま残っていた」「多くの砂が棺のなかに入っていた」「なんともいえない臭いがした」などの話である。その生々しい話に私は息をのんだ。

●遺品を新しい墓地に埋める

それらの遺品は、丁寧に新しい墓地にそれぞれ埋めなおす作業が行われた。奉賛会の人たちの「(バイパスの)車が平気で遺骸の上をまたぐことは許さない」という強い主張で、棺のなかの砂はすべて新しい墓地にもっていくことになった。現在、お地蔵さんのある場所に移した。

●霊土の意味

それでもなお、砂は収まりきれないほど多かった。そこで、さらに別の場所に盛って、「霊土」と名づけて、供養することになったのである。

●鬼火   最後に火をかける

墓石や遺品、そして、棺の最後の一粒の砂を運び去ったあとで、それまで、237柱の墓碑があった土地に火をかけた。火は、赤々と燃え上がったが、そのなかに、青い火が方々に見えた。闇に浮かぶ、赤い火と、それに混じる青い火の光景は、忘れられないという。

「旧大津陸軍墓地を考える会」(準備中)の今後について2007/11/27

 11月24日に約30名の方が参加していただいて、「旧大津陸軍墓地を見て考え語り合う集い」をしました。いろんな思いで参加されたと思いますし、十分語り合う時間がなかったことが残念でした。
 さて今後のことについて書きたいと思います。
 24日に語り合った大切な結論は、いろんな立場があるにしても、旧大津陸軍墓地が大切な場所だということです。
 奉賛会の方々は「英霊が眠る場所」として、献身的に清掃と保全にあたっていらっしゃいます。その無償の行為は、今後の担い手という問題をもちながらも、継続されていくことでしょう。私も、ときに参加するつもりです。
 私がつくろうとしている会は、墓地としての保全ということとともに、墓地の成り立ちやとそこに眠る人たちの生き方の意味を、客観的事実を明らかにしながら、考えようというものです。具体的には、墓地の成り立ちについての資料を探し足して保全すること、墓碑が読み取れる間に、その文言を残す作業などが大切な中身になると思います。
 それは、奉賛会のみなさんの活動と重なりながらも、ちがった仕事になると思うのです。
   せっかく24日に集まっていただきましたが、墓地について調べた結果をお話するのがせいぜいで、会をつくるというお話は、ほとんど出来ませんでした。いまはじめた作業も、いつまでも一人で続けるという訳にはいかないと思います。
 ですから、会そのものを立ち上がるということを主題にして、活動をはじめたいと思います。
 できれば、24日に参加していただいた人に案内して、暖かい(笑)室内の会場で感想会を開きながら、お話ができたらと考えています。
 私が調べて先日発表した文章は、より正確にして、「旧真田山陸軍墓地とその保全を考える会」に送ります。そういえば、私もこの会の会員にしていただきましたので。
 同時に、大津の興味を持っていただける人たちに、見ていただけるように、パンフレットにできないものかと考えています。24日の文は、少し難解な書き方でした。その点を反省して、写真などを入れて、作ってみたいと思います。

将校の墓碑から見えてくるものはなにか@旧大津陸軍墓地2007/11/27

●将校の墓碑から見えてくるもの

 旧陸軍墓地には、20基の将校の墓碑があります。
将校の経歴を調べながら、
この人の墓碑がここにあるのには、
それなりの深い理由がある

と思うようになりました。
 墓碑は直接には語りませんが、
経歴のなかから浮かびあがるものがあるのです。

●井戸順行中佐の場合

たとえば、
第五代第九連隊長の井戸順行の場合は、
家族が建立した碑ではありません。
碑から読み取れることは、
彼氏には子どもがなく、
その功績や生き方を語り継ぐ人がないということ、
そして、同僚からの信望。
「滋賀県山上の地の石で建てる」という文書は、
この地への井戸順行のかかわりとして
興味深いものがあります。

●草場彦輔少将の場合

 草場彦輔の場合は、
もっとも輝かしい経歴を
つんだところが第九連隊であったこと、
それゆえ、滋賀県大津市の膳所に
居住していたのだと思われます。
 何代か前の第九連隊長、
たとえば、山口素臣の場合は、
第五師団長などへ登っていきますから、
ここに墓碑をおく必要はないのです。
 草場は、自分の故郷を離れたこの地に、
遺言で墓碑を建てるように言い残しています。
そして、妻もこの地に眠っています。
故郷(福岡県)を離れた軍人が、
「軍こそわが故郷」と
いっているように思えるのです。
 電話帳で、草場という名前を調べてみても、
大津市には見当たりません。
愛着をもつこの地でしたが、
眠る人たちの思いを語る係累は
もはやどこにもいないのでしょうか。

青森営所厩造作の義伺(明治10年12月)2007/11/26

伍第四号 一第八百六十四号 仙第六号 青森営工兵官々舎内厩造作之義ニ付伺 今般青森営業所将校官舎新築落成相成度長官々舎ニ厩差之支ル付現実建造此旨陸軍少佐井戸順行別紙達指揮相成此段相伺候也 明治十一年十二月二十一日陸軍中佐堀尾 陸軍卿山縣有朋殿追而厩建築方等去ル十月十四日付ニ御相伺費コトモ相成度迄ノ本文自費ヲ此段新居度都合ヲ此段御添候也 伺之趣当分内聞届事 十一年十月十二今叔御新築之上長官々舎之内順行居住之官舎江自費ヲ以テ厩制作致度之儀ニ付願 今般殊典ヲ以テ青森営所将校官舎御新築落成之上既ニ官舎御引

明治11年 「大日記6鎮台 1月木乾 陸軍省第1局」

C04027982500

●東京鎮台から仙台鎮台へ

 井戸順行の経歴を碑文で追うと、明治5年に、東京鎮台第十五番大隊長。そして中佐。明治9年に、仙台鎮台第五連隊第一大隊長兼青森営所司令官に任じられている。上の文章は、青森営所司令官としてのものであろう。

正院へ井戸少佐犯罪処分伺( 明治9年11月14日 )2007/11/26

土千七百四十九号 井戸少佐犯罪処分之儀ニ付 陸軍少佐井戸順行犯罪処分之儀別紙疑律案並待罪書相添此段相伺候也 九年十一月十四日 陸軍卿山縣有朋 太政大臣三條實美殿 伺之通 明治九年十一月二十日

「大日記 送達の部 11月土 陸軍省第1局」

C04026834700

乃木井戸両少佐処分申渡の申進(明治9年12月1日)2007/11/26

裁五百五十二号 陸軍少将乃木希典外一名処分申渡之儀ニ付申進 小倉営所歩兵第十四聯隊長 陸軍少将乃木希典 青森営所歩兵第五聯隊 第一大隊長 陸軍少将井戸順行 右待罪書之趣判断伺済ニ付当所於而処分可申渡之儀肩書之所ヘ在勤之者ニ付其所管ニ於而可相達候様御達相成度依而罰文並謹慎心得書申添此段申進候也裁判長黒川通軌代理 明治九年十二月一日裁判評事池内重華 陸軍卿山県有朋殿

「大日記 学校教導団裁判所 12月金 陸軍省第1局」

C04026676100

 ちなみに乃木希典は後に旅順攻撃で有名な大将である。

非職井戸少佐より府下滞在願(明治7年12月)2007/11/26

●井戸順行少佐からの願書

第四千二百四十九号黒第五千六百六十二号 順行儀十一月二十八日 東京鎮台付被差免当地滞在致度候間此段奉願候也 七年十二月十四日 非職陸軍少佐井戸順行 陸軍卿山縣有朋殿

明治7年 「大日記 諸局 12月水 伺届弁諸達書 陸軍第一局」

C04025580700

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)