お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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大石村の12名の戦死者2009/08/09

大石村の戦死者(忠霊塔のプレート)
大石村は、昭和26(1951)年に大津市に合併。
大石学区となった。私は、村の時代を知らない。
現在の人口は、4,300人ぐらい。
そのうち、住宅開発でできた団地が
三分の二ぐらいを占めている。
村の時代は、きっと、2千人程度だったのだろう。
(後日、国勢調査を調べて見ることにする)

その村にある「忠霊塔」
黒い金属のプレートがはめ込まれ、
村出身の戦没者の名前が刻まれている。

日清戦争時が2名。
あとは、1939年から1945年まで
戦死された土地は、
中国、ビルマ、南洋群島、フィリピン、
御前崎沖そして沖縄。

階級についての記述はなく、
年代が西暦で刻まれていることに、
私は、注目した。

後の戦争に比べて小数であった
日清戦争の死者が、この地に生まれ、
それをはるかにしのいだ日露戦争の
戦死者が出なかったのは
なぜだろう・・・などど思いながら、
しばらく、この場所にたたずんでいた。

テニアン島で戦死した若者(28歳)の墓碑2009/07/28

テニアンの戦いの戦死者の墓碑
私が戦死者の墓碑を探し歩ける範囲は、
大津市と高島市にほぼ限定されています。

その狭い範囲の中でさえ、
幕末の勤王派弾圧犠牲者の墓碑、
徴兵軍に先立つ士族軍の墓碑、
西南戦争の戦死者、
日清戦争、台湾征服戦争、日露戦争、
第一次世界大戦とシベリア出兵、
日中戦争、太平洋戦争・・・
近代の日本が行った内戦から
中国やラオス、インド、フィリピンなど
への侵略戦争まで
すべての戦争の戦死者の
墓碑を見ることができます。
(細かい戦闘まではよくわかりませんが)

近代日本が、いかに
日本中あまねく、
犠牲者を出してきたのかが、
わかるのです。

上の墓碑には、
「昭和十九年八月二日内南洋
テニアン島ニ於テ戦死」
と刻まれています。

マリアナ沖海戦(1944年6月)で
日本が制海権を失ったあと、
米軍は、つぎつぎと日本軍が
占領している島を攻略します。

サイパンは、7月8日に陥落。
そして、テニアン島へ。
テニアンの戦いは、7月24日から始まり、
8月2日に組織的戦闘は終結します。

この28歳の若者は、
終結の当日に亡くなっているわけです。
(もしくはそうなっているのです)

ルソン島で戦死した「陸軍戦車兵伍長」の墓碑2009/07/25

ルソン島で戦死した「陸軍戦車兵伍長」の墓碑
戦死者の墓碑を訪ねる旅。
旧高島町でも集落ごとに墓地がある。

この町の最北部。宿鴨。
わずかな土地に、りっぱな墓碑が並ぶ。

ある墓碑に「陸軍戦車兵」という文字を見つける。
25歳で亡くなった伍長の墓碑である。

「昭和十九年一月二十日入営
大東亜戦争ニ従軍シ同年六月五日
比島ルソン島スエバヒスカヤ州
バンバン方面ノ戦斗ニ於テ戦死ス」

旧日本軍は機動戦車部隊を
重視していなかったはず。
装備は米軍に劣り、しかも
まともに戦車が上陸できなかったはず。


記録によれば、
フィリピンに派遣されたのは、戦車第二師団。
この師団に配属されたのは、戦車第六連隊、
同第七連隊、同第十連隊。

この師団は、ルソン島の戦いで全滅している。

高島市には、饗場野演習場があり、
そこに自衛隊の戦車大隊が駐屯している。
そこに旧日本軍の戦車第十連隊の碑が
あったような気がする。

一つの墓碑に二人の戦死者 ~横を向く墓碑~2009/07/11

一つの墓碑に二人の戦死者 ~横を向く墓碑~
墓地をめぐると、本来は正面と思われる面が
側面になっているのに気づきます。
陸軍の階級名つきの名前。
それが正面だったはず。
ところが、法名が正面に変えられているのです。
すべての戦死者の墓碑がそうではありません。
私は途中からずらされたと思っているだけで、
最初から、こういう形だったのかも知れません。

上の墓碑は、正面が戒名。
左側面が階級名と氏名になっています。
一つの墓に二人の名前・・・・。



そして、背面には、死亡年月日と場所。

六 昭和二十年七月十五日 於比島戦死
辰 昭和十八年十二月十五日 於満州戦死

まともに宣戦布告されることなく、
はじまり続いた日中戦争。
真珠湾攻撃で開始された太平洋戦争。
兄弟は、この二つの戦争にそれぞれ参加し、
遠く離れた異土でなくなったのです。

二人の魂は、この一つの墓碑のなかで
再会を果たすことができたのでしょうか。

Sole Survivor Policy ~『プライベート・ライアン』と日本と~2009/07/11

三名の兄弟の名前が一つの墓碑に刻まれていました
『プライベート・ライアン』という映画は、
Sole Survivor Policy を題材にして創られています。

出征する兵士、もちろん、第二次世界大戦は男性中心。
兄弟全てが出征する場合もありました。
そして、同じ任務につき、同じ船に乗船する。
船は撃沈され、全員が命を落とす。

巡洋艦ジュノーに乗り込んでいたサリバン5兄弟が
まさにそうでした。

Sole Survivor Policy は、
簡単にいえば、兄弟全員を戦死させる事態を
回避する政策ということになります。

映画『プライベート・ライアン』には、
ナイランド兄弟という、モデルがあります。
この兄弟は4人。
そううち3名が戦死(戦後に1名収容所で生存が確認)
したという事実に直面して、上の政策が発動され、
一人が戦場から連れ戻されるのです。

では、日本ではどうだったのでしょうか。

上の写真は、墓碑の一部です。

一つの墓碑に
三名の兄弟の名前と階級、そして、
死亡年月日と場所が刻まれています。

3人は、それぞれ、陸軍兵長
陸軍伍長、陸軍上等兵となり、
別々の日に、別々の戦場で戦死。

兄弟の笑い声は二度と家族のもとには、
帰ってこなかったのです。

むごい現実です。

「昭和十九年九月二十四日 ソロモン島ニテ戦死 四十三才」2009/07/07

ソロモン諸島の戦いの戦死者。年齢を見て絶句しました。
上の陸軍兵長の墓碑も、水車谷にありました。
戦死した場所は、「ソロモン島」と刻まれています。

ソロモン島・・・ソロモン諸島のことでしょうね。

・ブカ島
・ブーゲンビル島
・ショートランド島
・チョイセル島
・ベララベラ島
・コロンバンガラ島
・レンドバ島
・ニュージョージア島
・サンタイザベル島
・フロリダ島
・サボ島
・マライタ島
・ツラギ島
・ガダルカナル島
・サンクリストバル島
・レンネル島
などを含んでいます。

戦死されたのは、
「昭和十九年九月二十四日」

上陸する米軍との戦いのはじめの段階で
戦死されたのです。

年齢を見て驚きました。四十三才!
奥さんも、子どももいだでしょうに・・・。
無念の気持ちを抱いて、逝かれたことが、
想像できます。

ガダルカナル島で戦死(19444)した陸軍上等兵の墓碑2009/07/07

ガダルカナル島の戦いの戦死した陸軍上等兵の墓碑
太平洋戦争で、勝敗をめぐり大きな転換点となったのが、
ミッドウェー海戦とガタルカナル島の戦いと言われています。

ガタルカナル島に米軍が上陸したのは、
昭和19(1944)年8月7日でした。
それから、終戦まで、そして終戦をすぎても、
投降しなかった日本兵もいたのです。

私が最初に思い浮かべるのは、
この島が別名「餓島」と呼ばれるように、
戦死者をはるかに上回る餓死者を出した悲惨な
戦いであったということです。

Wikipediaによれば、参加した日本の兵力は、
36,204名。
うち戦死者が、10,600名。
餓死・戦病死者が、15,000名。

戦いの悲惨さが、この数字からもわかります。

上の陸軍上等兵の墓碑も、水車谷にありました。

「昭和十九年九月十九日ガダルカナル島にて戦死」

碑文にひらがなが使われています。
新しく建て直された墓碑のようですね。

マリアナ海戦で戦死した42歳の海軍一等兵曹の墓碑2009/07/07

マリアナ海戦で戦死した42歳の海軍一等兵曹の墓碑
マリアナ沖海戦は、日本の空母機動艦隊が、
アメリカのそれに決戦を挑んだ戦いでした。
結果は、日本海軍が壊滅的な敗北。

航空母艦3沈没
油槽船2沈没
航空母艦1中破
航空母艦3小破
戦艦1小破
重巡洋艦1小破
艦載機378機
(以上 Wikipediaによる)

海上の航空勢力を一気に失いました。

行われたのは、昭和19(1944)年。
6月19日から20日のことでした。

上の写真は、海軍一等軍曹の墓碑。
水車谷の墓地にあります。

「昭和十九年六月十九日午後三時
 中部太平洋上ニテ戦死 四十二歳」

年齢が、42歳!

第一次ソロモン海戦(1942.8)の戦死者(海軍飛行兵曹長)の墓碑2009/07/07

(第一次)ソロモン海戦の戦死者(海軍飛行兵曹長)の墓碑
上の墓碑には、「故海軍飛行兵曹長」と刻まれています。

「昭和十七年八月九日
 ソロモン海戦東部ニューギニア
 に於いて戦死 享年二十二才」

日付から考えて、第一次ソロモン海戦での戦死者だと思われます。
第一次ソロモン海戦は、昭和17(1942)年。
8月8日から9日に、日本軍と米、英、豪の連合軍との海戦。

日本軍は、海戦に勝利しながら、ガタルカナル上陸を許し、
戦術的勝利、戦略的敗北の例となっています。

アッツ島の戦い(1943.5)の戦死者の墓碑2009/07/07

アッツ島の戦い(1943.5)の戦死者の墓碑
墓碑文を読みながら、ハッと立ち止まることがあります。

「北海アッツ島ニ於テ
 昭和十八年五月二十九日玉砕ス」

「アッツ島」といわれて、すぐイメージできる世代と
そうでない世代があるはず。
私は、まだイメージできる世代です。
そして、「玉砕」という言葉も。

さて、アッツ島の戦いは、1943年。
アメリカ軍上陸の5月12日から
最後の突進の29日までの17日間。

戦死者は、2,638人。
そのうちの一人の方の墓碑ということになります。
ちなみに、捕虜は27名。

「戦死」と書かれずに、「玉砕」と書かれているのは、
戦死の状況が把握できないからだと思われます。
それを伝える人間もいなくなって。

この玉砕話は、戦争画の主題にもなりました。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)