お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
石山忠魂碑をめぐって ~設計者は武田五一なのか~ ― 2009/09/13
忠魂碑を探すために、先日、石山支所を訪れました。
「この学区で、忠魂碑があると聞きました。場所が知りたいのですが」と。
職員の方は、とっさの対応に困った様子で、顔を見合わせるばかりでした。視線が集中した支所長さんが「あ、ちょっと待ってください」と別室に消え、もって来たのが『大津の碑』という本。
この本に載っていないのは、すでに知っていました。
「隣の部屋に集まっている老人の方に聞いても『知らない』ということなんで」と解決の糸口さえ見つけられませんでした。
私がこの碑の存在を知ったのは、ネットからでした。
忠魂碑を「百度」で検索し、ヒットしたHAZELのサイトで、石山に忠魂碑があって、その設計者が武田五一だと書かれていました。
忠魂碑の設計者については、関心の外だったのですが、たまたま武田五一が、岐阜の名和昆虫博物館の設計者であることを知って、興味がわいたのです。
私の両親は、岐阜出身でした。母の実家には、幼いときに、長期にわたって預けられていました。岐阜公園は、祖父母によく連れていってもらった場所です。そこに、名和昆虫博物館がありました。
女学校時代の母の友人の一人が、名和さんでした。下の名前は覚えていませんが、この博物館の創設者の娘さんでした。このためでしょう、何度行っても、気軽に無料で入れていただけました。
気まぐれで調べた武田五一という方のプロフィールから、私の懐かしい古い記憶が蘇えったわけです。
石山忠魂碑を、見つけてみたいものです。
この碑について、情報をお持ちの方、連絡をお待ちしています。
「この学区で、忠魂碑があると聞きました。場所が知りたいのですが」と。
職員の方は、とっさの対応に困った様子で、顔を見合わせるばかりでした。視線が集中した支所長さんが「あ、ちょっと待ってください」と別室に消え、もって来たのが『大津の碑』という本。
この本に載っていないのは、すでに知っていました。
「隣の部屋に集まっている老人の方に聞いても『知らない』ということなんで」と解決の糸口さえ見つけられませんでした。
私がこの碑の存在を知ったのは、ネットからでした。
忠魂碑を「百度」で検索し、ヒットしたHAZELのサイトで、石山に忠魂碑があって、その設計者が武田五一だと書かれていました。
忠魂碑の設計者については、関心の外だったのですが、たまたま武田五一が、岐阜の名和昆虫博物館の設計者であることを知って、興味がわいたのです。
私の両親は、岐阜出身でした。母の実家には、幼いときに、長期にわたって預けられていました。岐阜公園は、祖父母によく連れていってもらった場所です。そこに、名和昆虫博物館がありました。
女学校時代の母の友人の一人が、名和さんでした。下の名前は覚えていませんが、この博物館の創設者の娘さんでした。このためでしょう、何度行っても、気軽に無料で入れていただけました。
気まぐれで調べた武田五一という方のプロフィールから、私の懐かしい古い記憶が蘇えったわけです。
石山忠魂碑を、見つけてみたいものです。
この碑について、情報をお持ちの方、連絡をお待ちしています。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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