お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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『福井縣英勲録』(福井県:昭和40年)2010/12/14

『福井縣英勲録』
 仕事に忙殺され身動きがとれませんから、現場に見に行くことができません。せいぜいできたことは、県庁の県民資料室を覗くくらいです。そこで、福井県が出している興味深い資料を見つけました。

 『福井縣英勲録』

 昭和40年・・・1965年に出版されています。福井県で戦没(戦病死)した2万人の名簿と戦績がまとめられていました。執念が感じられる調査によって完成されたものです。全体で5巻ぐらいでした。第1巻しか目を通す時間がなくて残念でした。
 名前から推して、戦前のものだと思いましたが、ちがいました。
 巻末に並ぶ戦没者名簿。その数に圧倒されました。一人一人の生き様、死に様を追うことはとても個人にできる量ではありません。武器をもち人を殺すために出征し、自ら命を落とした多数の若者・・・酷い時代でした。

見落としていた再建の記録@神田神社の忠魂碑2010/12/14

見落としていた再建の記録@神田神社の忠魂碑
 Yahooのワイワイマップに「忠魂碑巡礼」というのがあります。投稿OKのマップで、作成者は”越前屋平太”さん。・・・なんかミクシで見かけたような方ですけど。
 大津市の忠魂碑も2柱、写真が投稿されていました。天皇神社と神田神社。後者の記事を見ていて、私が、碑に刻まれていた再建の記録を見落としていることに気がつきました。場所は碑の背面下部。
 え!?あったけなぁとあわてる私。
しっかり見たつもりでしたのに。そこで、自分が撮影した写真を見直し、うなりました。
 う~ん、ある!
大正十一年四月建立
元帥陸軍大将子爵川村景明書
 につづいて、下部に次のように刻まれていました。
昭和二十八年三月再建
しっかり、観察しなければ、ダメでした。

 米軍が進駐した1945年から、1953(昭和28)年3月まで、いったいどこに隠されていたのでしょうか。
神田神社の忠魂碑

特異な形の台座@(西南戦争)紀念碑(大津)2010/12/14

碑が砲身形、台座が砲座形、枠が星形の「紀念碑」
 大津市に西南戦争の戦没者の巨大な「紀念碑」があります。碑本体だけで、6メートルの高さです。
 なぜ、大津市に?
 それは、西南戦争が戦われた場所は九州でしたが、官軍がかり出した将兵は全国に及んでいるからです。戦死者数からいえば、近衛兵につづいて多数になるのが、大阪鎮台の兵卒でした。大津市に営所が於かれていた大阪鎮台第九聯隊からは、241名の戦死者が出ています。その強烈な衝撃のもとに、「紀念碑」が三井寺山内に建立されました。そして、慰霊祭が営まれました。
 その「紀念碑」は、ロシア皇太子の一行が大津市に来たときに、ロシア側の参加者が見学に訪れています。そこを警備していた一人が津田三蔵巡査でした。津田は、その直後、ロシア皇太子に斬りつけ、大津事件を引き起こします。
 そういう因縁の碑でもあります。
 以上がまえおき。

 滋賀県の文化財保護課を訪れたとき、この碑のことが話題となりました。私は、あらためてこの碑への関心をかきたてられました。
 まず、この碑が最初に置かれた場所と現在の場所が違うという問題。当初の場所は、見晴らしの良い三井寺の観音堂の上だということです。これは、記録を読んでもそうなっています。たしか写真もあった気がします。しかし、これは移設されます。
 移設場所は山の中。御幸山というのは、後から付けた名前だそうです。「天覧」、つまり天皇自身が視察したというのがその理由。いまの場所は、山中を切り開き、50メートル四方ぐらいの広場をつくり、その山手の奥に20メートル四方で、高さ3メートルぐらいの盛り土をした土台が造られています。
広場から土台の上に登るのに、階段がつけてあります。
階段を上れば、枠に囲まれた台座があり、台石が二段おかれた上に6メートルの「紀念碑」。巨石を運ぶだけですまない、大変な工事だと思います。
 なぜ、いつ、移設されたのか。
 これがよくわからないそうです。
 しかも、台座の形が当初の位置と合わないといいます。これは初耳でした。現在ある台座が本来あったはずの場所にはまらないという意味だと思います。ということは、もとは碑だけであって、あとの建造物は移設後のものということになるのです。
 現在見ることができる台座の形は、特異です。
 碑は二段の台石に載っています。それは普通の形。しかし、碑を取り巻くように、亀の甲羅のような造形物が存在しています。それは碑と一体となって、砲座を表しているとのことです。碑が砲身で、亀の甲羅が砲座ってことでしょうか。
 しかも、特異なのは砲座のような造形だけではありません。それらを囲む枠も奇妙な形をしています。文化財保護課の方に指摘されてはじめて気がついたのですが、ちょうど五稜郭のような星形の枠組なのです。紙の上でトレースしてみると形がわかるといいます。
 碑は四角錐で見慣れた形をしていますが、台座や枠組みは今見ても斬新で、個性的な気がします。
 しかし、この碑の周辺は荒れています。星形の枠も崩れていっています。残念ながら、公式には、忠魂碑の類は文化財保護の対象にはなっていません。保存費用は公からは出ないのです。
 市民運動に期待する・・・ということになるのです。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)