
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
石川雅之 『もやしもん』 ― 2009/04/19

石川雅之『もやしもん』は2004年以降の作品。
アニメにもなり、TV放映されました。
春休みにマンガ本を大量に収集し始めたK君が
リビングに第3巻を放置していました。
私は、片付けながら、パラパラと拾い読み。
「面白そうだね」というと、第一巻から貸してくれました。
絵的には、好みではないけれど、
内容は・・・とても興味深くていいですね。
東京のさる農大が舞台で、
酵母がテーマっていうのが新鮮でいいです。
あまり「いい!」とかいっていると、
第4巻以降を、買わされる危険があるので、
笑いこらえて、こっそり読んでいます。
アニメにもなり、TV放映されました。
春休みにマンガ本を大量に収集し始めたK君が
リビングに第3巻を放置していました。
私は、片付けながら、パラパラと拾い読み。
「面白そうだね」というと、第一巻から貸してくれました。
絵的には、好みではないけれど、
内容は・・・とても興味深くていいですね。
東京のさる農大が舞台で、
酵母がテーマっていうのが新鮮でいいです。
あまり「いい!」とかいっていると、
第4巻以降を、買わされる危険があるので、
笑いこらえて、こっそり読んでいます。
大津市の戦跡(2) 「歩兵第九聯隊之跡」 ― 2009/04/19
戦争の遺跡には、後年「記念碑」が建てられます。
それは必ずというわけではありません。
発意と資金があってのことですから。
私は、ものものしい石碑よりも、見向きもされない場所に
ひっそり残されている「陸軍地」という石柱にリアリティを感じます。
それはともかく、「陸軍地」という石柱が、
なぜここに存在するのか?
そこに、陸軍歩兵第九聯隊の駐屯地と墓地があったからです。
石柱は、その証拠になるのですが、記念碑も建てられています。
それが、上の写真です。
『歩兵第九聯隊之跡』と刻まれていますね。
これは、どういう軍隊で、
いつから、ここに存在していたのか
---そういう疑問がわいてきます。
その手がかりは、この石碑の裏面に碑文があります。

つぎは、この碑文を読んでみたいと思います。
それは必ずというわけではありません。
発意と資金があってのことですから。
私は、ものものしい石碑よりも、見向きもされない場所に
ひっそり残されている「陸軍地」という石柱にリアリティを感じます。
それはともかく、「陸軍地」という石柱が、
なぜここに存在するのか?
そこに、陸軍歩兵第九聯隊の駐屯地と墓地があったからです。
石柱は、その証拠になるのですが、記念碑も建てられています。
それが、上の写真です。
『歩兵第九聯隊之跡』と刻まれていますね。
これは、どういう軍隊で、
いつから、ここに存在していたのか
---そういう疑問がわいてきます。
その手がかりは、この石碑の裏面に碑文があります。

つぎは、この碑文を読んでみたいと思います。
キーワードは「3」 ― 2009/04/19
大津市の戦跡(3) 「歩兵第九聯隊之跡」碑文 ― 2009/04/19
大津市の中央部で、市役所と商業高校の
敷地の山手に「歴史博物館」があります。
歴史博物館の駐車場は建物の右手。
そこから、見上げて、石垣のすぐ上の位置に
「歩兵第九聯隊之跡」碑があるはずです。
しかし、生け垣に阻まれて見ることのできません。
写真では、左手に、階段があります。
その登り口に碑の案内板があるのです。

この案内板は、ごく簡単なものです。

この階段を上って、少し歩けば、
「歩兵第九聯隊之跡」碑にたどりつくことができます。

まずは、碑文を読んでみることにします。
古めかしいですが、格調のある文章です。
元の文章にはありませんが、注目されるところを
太字やイタリック、下線を引いています。
明治7年とは、西暦で1874年にあたります。
日本陸軍の草分けともいえる聯隊が、
この地に拠点をおいたことがわかります。
この碑と「陸軍地」の境界石以外に、
「第九聯隊」の戦跡といえるものが
大津市内に、はたして残っているのでしょうか。
それを見ていきましょう。
敷地の山手に「歴史博物館」があります。
歴史博物館の駐車場は建物の右手。
そこから、見上げて、石垣のすぐ上の位置に
「歩兵第九聯隊之跡」碑があるはずです。
しかし、生け垣に阻まれて見ることのできません。
写真では、左手に、階段があります。
その登り口に碑の案内板があるのです。

この案内板は、ごく簡単なものです。

この階段を上って、少し歩けば、
「歩兵第九聯隊之跡」碑にたどりつくことができます。

まずは、碑文を読んでみることにします。
碑
歩兵第九聨隊は明治7年此の地に創設せられ、同年十二月十八日、明治天皇より軍旗を親授された。尓来星霜七十年、此処に修武練胆の将兵幾十万を算し、京滋を守る。
西南の役には肥薩に勇戦。日清戦争には遼東に。翌年台湾に出征して武勲を樹てた。
日露戦争には南山、遼陽、黒溝台等各地に勇戦。特に奉天会戦には終始力戦。真に屍山血河の激戦を重ね、将兵の大半を失うに至ったが、克く大敵を撃破し、全軍完勝に多大の貢献をした。また此の戦役に後備歩兵第九聨隊は旅順に苦闘。殆ど全滅の惨に瀕しつつ 要塞攻略に殊功を樹てた。
越えて大正八年シベリアに出征。同十四年第三大隊を当地に残し主力は京都に移駐した。昭和九年より二年間、聨隊は満洲に駐屯し、北安、黒河等に在って、北満を固めた。
昭和十二年支那事変が起り、聨隊は北支進攻の後 中支に転戦。同年十二月南京攻略戦に参加し、続いて翌年五月徐州に戦い十月長駆大別山を越えて武漢に進んだ。
更に大東亜戦争には比島作戦に参加してマニラに進み、バターン半島に転戦の後、主力は十九年秋レイテ島において米軍主力の反攻を受け、敵を水際に迎撃。或は後方陣地に勇戦力闘したが、我第一線は相ついで全滅し、十二月八日最後の突撃を敢行。聨隊長以下全員軍旗と共に玉砕したのである。
また歩兵第九聨隊を母隊とし、動員編成された幾多の部隊は中支、ビルマ、沖縄など各地に戦い、不滅の武勲を樹てた。
今や物換り星移って、在りし日の聨隊を偲ぶ俤も薄れつつあるが、祖国を守る輝かしい伝統と歴史は永久に伝えられなければならない。
茲に聨隊関係一同相図り、県下有志多数の御協力を得て、由緒ある此の地を史蹟として保存し、平和の礎石となられた今は亡き戦友への餞とすると共に、国運の隆昌と世界の平和を祈念して、此の碑を建てるものである。
昭和四十二年四月十八日
歩兵第九聨隊記念碑建設委員会一同
古めかしいですが、格調のある文章です。
元の文章にはありませんが、注目されるところを
太字やイタリック、下線を引いています。
明治7年とは、西暦で1874年にあたります。
日本陸軍の草分けともいえる聯隊が、
この地に拠点をおいたことがわかります。
この碑と「陸軍地」の境界石以外に、
「第九聯隊」の戦跡といえるものが
大津市内に、はたして残っているのでしょうか。
それを見ていきましょう。
なんの花なんでしょうか、花びらが4枚 ― 2009/04/19
大津市の戦跡(4) 軍事基地の痕跡はどこに? ― 2009/04/19
文書による記録では、明治と年号が改まる前に、
新政府軍創設の中心人物、大村益次郎が
大津に数人の部下を連れてやってきて、
ここに軍事基地を設けることを決め、
三井寺の土地を接収したとあります。
しかし、4鎮台制度のときは、
分営地の候補から外れました(小浜→彦根)。
6鎮台制度になるとともに、
大津に陸軍歩兵全13聯隊のなかの、
第九聯隊を駐屯させることが決まったのです。
それが、「碑」に刻まれた明治七年なのです。
まだ基地としての姿をとどめていたときに、
撮影された写真があります。

上が西で、下が東(つまり琵琶湖側)です。
現在、このあたりは、どうなっているでしょうか。
この区画の南にあたる高台に登りました。
モノクロ写真の左手にあたる三井寺観音堂です。
そこから撮影した写真が一番上のものです。
それらしいものを感じることはできません。
ご存知の方はわかるのですが、
兵舎は、大津商業高校となり、
校門の位置が、第九聯隊の建物の門と同じです。
高台ではなく、これらの土地の近くを歩いても、
残念ながら、戦争の痕跡を見ることはできません。
戦跡と呼べるものはすべて破壊され、建て直され
もはや、軍事基地の存在をたどることができるのは、
高齢者の記憶とどこかに眠る文書のみなのでしょうか。
しかし、直接見ることができるものが残っています。
それが、「大津営所付埋葬地」です。
この「大津埋葬地」は、その名称そのままに、
第九聯隊の営所に付属した施設です。
訓練中に亡くなった兵士や将校を葬るための墓地です。
現在の名称は、「旧大津陸軍墓地」
全国的には、陸軍墓地は他の目的に使用するために
縮小されたり、破壊されたりしています。
大津ではどこまで無事に残っているでしょうか?
そして、それは、どこにあるのでしょうか?
新政府軍創設の中心人物、大村益次郎が
大津に数人の部下を連れてやってきて、
ここに軍事基地を設けることを決め、
三井寺の土地を接収したとあります。
しかし、4鎮台制度のときは、
分営地の候補から外れました(小浜→彦根)。
6鎮台制度になるとともに、
大津に陸軍歩兵全13聯隊のなかの、
第九聯隊を駐屯させることが決まったのです。
それが、「碑」に刻まれた明治七年なのです。
まだ基地としての姿をとどめていたときに、
撮影された写真があります。

上が西で、下が東(つまり琵琶湖側)です。
現在、このあたりは、どうなっているでしょうか。
この区画の南にあたる高台に登りました。
モノクロ写真の左手にあたる三井寺観音堂です。
そこから撮影した写真が一番上のものです。
それらしいものを感じることはできません。
ご存知の方はわかるのですが、
兵舎は、大津商業高校となり、
校門の位置が、第九聯隊の建物の門と同じです。
高台ではなく、これらの土地の近くを歩いても、
残念ながら、戦争の痕跡を見ることはできません。
戦跡と呼べるものはすべて破壊され、建て直され
もはや、軍事基地の存在をたどることができるのは、
高齢者の記憶とどこかに眠る文書のみなのでしょうか。
しかし、直接見ることができるものが残っています。
それが、「大津営所付埋葬地」です。
この「大津埋葬地」は、その名称そのままに、
第九聯隊の営所に付属した施設です。
訓練中に亡くなった兵士や将校を葬るための墓地です。
現在の名称は、「旧大津陸軍墓地」
全国的には、陸軍墓地は他の目的に使用するために
縮小されたり、破壊されたりしています。
大津ではどこまで無事に残っているでしょうか?
そして、それは、どこにあるのでしょうか?

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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