
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
峠三吉 『詩集 にんげんをかえせ』 ― 2009/07/10

峠三吉(1917-1953)は、
「にんげんをかえせ」
という原爆詩で知られています。
この詩しか知らなかったのです、私は。
たまたま、自宅で寝転んだとき、
その視線の先に、この本を見つけました。
カミさんの本でしょうね。
「にんげんをかえせ」の詩。
それは、力強いのですけれど、
あまりに直接的で、気軽に読めないと
敬遠していたのです。
いろいろ詩があるんだと思って、
ページをくりました。・・・そして、
イメージが少し変わりました。
たとえば、つぎの詩。
「にんげんをかえせ」
という原爆詩で知られています。
この詩しか知らなかったのです、私は。
たまたま、自宅で寝転んだとき、
その視線の先に、この本を見つけました。
カミさんの本でしょうね。
「にんげんをかえせ」の詩。
それは、力強いのですけれど、
あまりに直接的で、気軽に読めないと
敬遠していたのです。
いろいろ詩があるんだと思って、
ページをくりました。・・・そして、
イメージが少し変わりました。
たとえば、つぎの詩。
クリスマスの帰りみちに
焼け跡の町に夜の雨は優しく霧をながす
クリスマスの調べは神話のように心にともる
少女と私は焼跡の電車道を黙って歩く
戦後最初のクリスマスは焼け焦げた臭いの中にひそやかで
神は戦争の悲しみの奥でお菓子のように美しい
少女とわたしは泥濘の上を軽わざ師のように渡る
渡っていく原爆の廃墟は闇の中で無数にささやく
神と戦争について様々な不協和音をささやく
少女とわたしは然し黙って鉄を踏み材木をまたぐ
通過して来たクリスマスの雰囲気は霧雨よりも優しく
生き残った青春は風にゆらぐ樹木のように重い
この重さに耐えて少女とわたしは歩く
神があってもなくっても少女とわたしは歩きつづける
閉店そして張り紙 ― 2009/07/10
雨粒がつくる花模様 ― 2009/07/10
生垣のアジサイ ― 2009/07/10
岡本太郎 『青春ピカソ』 ― 2009/07/10

岡本太郎は、岡本一平と岡本かの子の
子として生まれました。
それだけでも、尋常のことではありません。
私が岡本太郎を知った1970年ごろには、
考えもしなかったのですけれど、
やぱり、プレッシャーであったことが
よくわかるし、それを乗り越えるのは
大きな課題だったのですね。
そのことを、つまり生きる道を見出す
プロセスを、「ピカソ発見」で読むことができました。
これだけでも興味ぶかったのですが、
全編、ピカソづくし。
「ピカソへの挑戦」
「ピカソ芸術の本質」
「ピカソの作品」
「青春ピカソ」
「ピカソとの対話」
ピカソの存在がいかに大きく、
それを乗り越えることを自分に課した
岡本太郎の意欲と偉大さ、情熱が
よくわかる本です。
1953年の作品!!
子として生まれました。
それだけでも、尋常のことではありません。
私が岡本太郎を知った1970年ごろには、
考えもしなかったのですけれど、
やぱり、プレッシャーであったことが
よくわかるし、それを乗り越えるのは
大きな課題だったのですね。
そのことを、つまり生きる道を見出す
プロセスを、「ピカソ発見」で読むことができました。
これだけでも興味ぶかったのですが、
全編、ピカソづくし。
「ピカソへの挑戦」
「ピカソ芸術の本質」
「ピカソの作品」
「青春ピカソ」
「ピカソとの対話」
ピカソの存在がいかに大きく、
それを乗り越えることを自分に課した
岡本太郎の意欲と偉大さ、情熱が
よくわかる本です。
1953年の作品!!

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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