お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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中島唱子 写真:荒木経惟 『脂肪』(新潮文庫)2009/06/01

中島唱子 写真:荒木経惟 『脂肪』(新潮文庫)
中島唱子さんは女優。
しかし、申し訳ないけれど、私は知りませんでした。
(中島さん、すみません)

『脂肪』・・・?
女優さんの本として魅力的なタイトルではありません。
表紙を見る限り、料理本のようでもありません。
まったく、どういう本なのかがイメージできませんでした。

だけど、私は、迷わず、手に取りました。
それは、「写真 荒木経惟」とあったからです。

荒木経惟=アラーキーという人に特別の関心をもったのは、
(先日、ブログで紹介した瀬戸内寂聴さんと荒木さんの本)
『寂聴×アラーキー 新世紀へのフォトーク』のおかげ。
もちろん、有名な方ですから、名前は知っていました。
写真もいくつか知っていたし、書かれた本も読んでいました。
だから「人並みはずれた人」だとは思っていたのです。

しかし、私の見方が狭いんでしょうね。
外見にも左右されてしまうんでしょうね。

「アトムヘアーにサングラスをしているエロイ人」
(すみません)の範囲を超えていなかったのです。

だけど、なんかちがうって気がついたのです。
すこし説明がいりますね。

中島唱子さんの『脂肪』はダイエットの本なんです。
しかし、他のダイエット本とは出発点がちがうのです。

食欲は、愛情に飢えた私の、不安や恐怖や孤独を紛らわせてくれる一瞬の幸福感。一種の精神安定剤のようなものだった。そんなさみしい人生だったように思う。体をいじめ、裏切った代償として、結局、心身ともに重い贅肉を背負ってしまった。

彼女は「こころのダイエットが必要」というところにたどりつくのです。つまり、「生きる歓びそのものを実感するまでは、内面を削ぎ落としていくダイエットも必要」だと。

「この脂肪の下には、どんな私が眠っているのだろう」二十代の終わりを目前にして、私は、未知の自分を探そうと決心した。そのためには、いままでの自分のすべてを透視するほどのこころのダイエットが必要かもしれない。太ってしまったルーツは、この、こころのなかにあるに違いない。

そして、肉体のダイエットに挑みながら、自分を見つめるため文章を書き始めるのです。

では、なぜ写真なのか、なぜ荒木経惟なのか。

たった一冊の写真集が、アラキワールドへと私を引きずり込むきっかけとなった。
「センチメンタルな旅・冬の旅」。最愛の妻・陽子さんとの新婚旅行と、死出の旅の両極をまとめたこの作品集は、いいようのない感動で私を包んだ。アラキさんの写真には、詩があり、風土があり、エロスがあり、人間らしさがあった。まさに、こころのレントゲン写真師だ。

私は、ただ「肥満」を見せるのだから、つらい。ふれてもらいたくない最大の羞恥をさらけ出す以外に、アラキさんの前に立つ方法はない。
 脂肪を削ぎ落とす過程を是非、アラキさんに収めてもらいたかった。私にとって、脂肪は、蓄積して背負ってきた哀歌そのもの。アラキさんになら、それをさらけ出せるような気がした。

そして、

私はアラキさんに、肉体とともに、こころも生きざまも、あらいのままにさらけだした。それは、すべてを許した恋人にしかできないことだった。

自分の人生を見つめ、それをつくりかえる決意でダイエットに取り組む女性がいるということを初めて知りました。そして、その文章は、生い立ちから、このときまでをあからさまに語ったものでした。
 それに感動するばするほど、その女性に信頼され、ゆだねられる写真家を尊敬しないわけにはゆかないのでした。

回り道して2009/06/01

ガクアジサイ
自分がつくづく情けないって思いました。

ニーチェは、そういうときが一番いいんだと言いました。
気がつかないより、気がついたときのほうが
人間として成長しているって意味ですね。

右足の故障が治らない、軟骨は再生しないって
いわれて、落ち込んだんです。
世の中故障をもっている人は多いのにね。
50代になれば、どこか故障してもおかしくないのに。

去年の3月に、縄文杉エコツアーにいった勢いで、
これから、カミさんと山をあるきたいなと思ってたんです。

もう無理はできないのか・・・。

5月末の夕暮れ時、7時になってもまだ明るい。
カミさんが私を散歩に誘いました。
「たずねたい家があるので、つきあって」
っていうのです。

歩き始めると、どうもコースが違います。
「この道いいでしょ、ほらガクアジサイ」
カミさんは、にこにこ笑って、
私を気にせず、ドンドン先に進みます。

大きく迂回して、目的地にたどり着きました。
「なんでこんな回り道なんだろう?」
と私はポカンとしています。

かみさんは、楽しそうに笑っています。
歩けるじゃないっていうみたいに。

Sviatoslav Richter : J.S.Bach Concertos BWV 1054 & 10582009/06/01

Sviatoslav Richter  :  J.S.Bach Concertos BWV 1054 & 1058
スビャトスラフ・リヒテルの晩年の録音の一つ。
バッハのピアノ協奏曲集です。

グールドのような切れ味やリズム感はありません。
速い楽章はなんかもたつくような気配もあります。
でも、遅い楽章はとてもいいです。

ピアノだけじゃなくて、
通奏低音のチェンバロ?ハープシコード?
も聞こえますね。
ふ~ん。

遠藤周作 『海と毒薬』(1958)2009/06/02

遠藤周作 『海と毒薬』(1958)
『海と毒薬』。
F大学を舞台にした捕虜生体解剖事件を扱っています。
私は、映画の方を先に知りました。
そのモノクロの画面に強い衝撃を受けました。
救いのない気分で見終わったのです。

そして、今日、原作をはじめて読みました。

知っている方、知らない方、いろいろだと思います。
1945年に、B29が特攻機によって撃墜され、
九州の竹田市で脱出した米兵が捕虜となります。
この捕虜を生体解剖の犠牲とする事件が起きました。
それが、九州大学生体解剖事件。
戦後、戦犯事件として、GHQで裁かれています。

『海と毒薬』は、創作ですが、この事件をベースにしています。

事件そのものが提起する問題、そして、
遠藤周作氏がこの小説で提起した問題は、
重なりながら、同一ではないと思います。

そこを注目して読みました。

それにしても、題名はとても暗示的です。
感想をすぐ書ける気分では、ありません。

私は、遠藤周作(1923-96)という人について、
あらためて関心をもちました。
ネスカフェのコマーシャルによく出ていたおしゃれな人。
狐狸庵先生。クリスチャン。『沈黙』の作者。
その程度の知識だったからです。

それに、心のどこかにマイナスイメージがあるのですが、
それがどうしてなのか、思い出せません。

・・・ところで、満州で幼年時代を過ごした人なんですねぇ。

初めて聞くNさんの戦争体験2009/06/02

捕虜時代の怪我(本文にある)で中指の先がもげているNさんの手
20年以上おつきあいのあるNさん。
80歳を超えたんですね。でもお元気。

今日の夕方、私の事務所で出会いました。

私は、バザーのことを思い出しました。

「ねえ、Nさん、Nさんたちのバザーに出すために、
冷凍庫を掃除し、消毒し、磨いておいたのに、
新インフルエンザで中止になって残念でしたね。」

それはどうもと、すまなそうに帽子を取るNさん。

「あれは、騒ぎすぎや」
「そうですね。大津で罹った人はとうに退院ですね。」

すると話は別の方向に。

「熱が39度になると髪の毛がぬけるんや。
 マラリアになったときがそうやった」
「え、そうなんですか。どこでマラリヤに?」

話は、一気に昭和20年に飛びました。

Nさんは海軍通信兵。横須賀の海軍通信学校卒でした。
そこではかなり、ビンタをくらったそうです。
卒業して、そこから実戦配備となります。
「大きい船はいやや、小さい船にしてくれ」
といったそうです。
「新兵のくせに、生意気や!!」
と上官からひどく怒られたとか。

「なんで、小さい船が良かったんです?」と私。
「大きい船は、上下関係(階級制度)がきつかった。
小さい船は、家族的。実際、なぐられたことは一回もなかった。」
「そんなことがよくわかったものですねえ。」

マラリヤにかかったのは、現在のベトナムにいたときです。
当時は、仏領インドシナという呼び名でした。
「かかってから、どうしたんです?」
「39度になってふらふらのときに、日本へ送り返された」
船で、広島か、どこかの海軍病院に送られたそうです。
しかし、日本に着く頃には、元気になってしまい、
すぐに「かえれ!」と戦地に逆戻り。

乗っていたのは、103哨戒艇。
ボルネオから原油を積んで、マニラに向かう
船団に配属されました。
途中で、マニラにむかうことをあきらめ、
台湾に行くことになりました。
ボルネオからインドシナ半島にそって、北上。
ハノイとサイゴンの中間あたりで、
グラマン戦闘機の一団に遭遇しました。

哨戒艇には、125人ぐらいが乗っていました。
対空機関銃を積んでいましたから、その要員の
分だけ、人数が多かったそうです。
昭和20(1945)年1月12日の早朝。
朝食準備の時間。上甲板から「なにか見えるぞ~」の声。
「あれは、飛行機ちゃうか。どこのかなぁ」。
敵機と判明したので、機銃兵は上甲板へ急ぎ、
通信兵であるNさんは、「弾を運べ!!」といわれ、
船倉の弾薬庫に向かわされました。
たちまち、猛烈な音が響きます。
通信兵は、弾薬を上へ上へと運びます。
ところが、いっこうに受けとる気配がありません。
「おい、あがって見てこい!」となって出れば、
立って動いているものがいません。

「どうしたんですか?」
「上甲板は木甲板。厚い木で濡れているから、
グラマンの弾が跳ねよる。それで、みんな
腿をやられて、うずくまっていた。」

上官が叫びました。「退艦!退艦!」
ベトナムの海岸線から3キロほどの沿岸。
岸へいって、交渉して、漁船をチャーター。
それに病人、けが人を乗せました。

「元気なひとはどうしたんですか?」
「元気なものは、『お~い、飛び込め!!』」
「泳いで岸へ逃げたわけですね」

そのうち、艦は、爆発音がして、真っ二つに裂け、
海底に沈んでいきました。

漁船で逃れたものと、泳いで逃れたものは、
海流のために、別々の海岸へ。
そこで隊列を整え、サイゴンまで戻りました。

「そこで終戦ですか?」
「そう、イギリス軍が来た」
「捕虜になって、沖仲仕のようなことをやらされた。
 そのときに、荷物で指を落とす大けがをした。
 それを見ていたインド兵が、ポケットから消毒薬と
 包帯をとりだして、応急措置をしてくれ、車を
 呼んで、旧日本軍の病院に送ってくれた。
 その様子をみて、『これは負けるはずや』と思った」

Nさんが差し出す、右手中指はそのときの傷がはっきり
残っています。

「続きはまた来週」と笑って分かれました。

私もそれを楽しみに待つことにしました。
しかし、20年来の知り合いなのに、こんな話をしたのは
はじめてのことです。

・・・そのことに驚く私でもありました。

村上春樹 『1Q84』・・・2009/06/03

村上春樹 『1Q84』BOOK2
村上春樹『1Q84』。
BOOK1は読み終え、
BOOK2の真ん中まで来ました。
ようやくです。

緊張を強いられて、
なかなか読み進むことが
できませんでした。

この点は、これまでの他の長編と
少しちがうかも。

内容は、おぞましくもありますけど、
まぎれもない春樹ワールドですね。

モーツァルトの『魔笛』や
コッポラの『地獄の黙示録』が、
あたまをよぎります。

ふ~うぅという状態。

”宇宙からの侵入者との総力戦”?!2009/06/03

3日付けの京都新聞に掲載された斉藤美奈子さんの文章を読んでいました。「オピニオン・解説」というページで、タイトルは、『危機煽る社会の危うさ』

新型インフルエンザ問題です。

・・・新型インフルエンザをめぐるこの半月あまりは、宇宙からの侵入者に人々が総力戦で立ち向かうSF映画を見るようだった。
 警戒線を突破し、ある日、わが国に投下されたインフル爆弾。

・・・なるほど。

そして、「事態がマスクという目に見えるものに収斂していったのはなぜたったのか」と問いかけ、興味深い指摘をしています。
 それは省略。
 その上で、その反応が「他の感染症に比べ、バランスを欠く対応だったのも事実である」として、結核を挙げています。
 新型インフルは感染者は世界で1万数千人。死者は100人以上。結核は、毎年世界で900万人以上が新たに発症。毎年160万人以上が死亡。日本では、毎年2万5千人発祥し、死亡者は毎年2000人以上。
 「新型インフルよりは結核の心配をするほうがじつは現実的、かもしれないのだ。」

・・・・・なるほど。

・・・SF映画のような右にならへ現象が起きる背景には、日本人のグッズ信仰(モノを買って安心する)、横並び志向(人とちがった行動をとりたくない)、加えて企業や学校の保身が大きく作用したように思われる。つまり、対応の悪さを後で批判されたくない。・・・
 ・・・危機意識を過剰に煽る社会も、煽られた危機をすぐモノに転換する社会も、それはそれで危うい。

 マスクが店頭から消えるほどの過熱ぶりは、1970年代のトイレットペーパ騒ぎを思い出しました。
 新型インフルは収束に向かっていますが、それが提起する社会的な問題は、これだけではありません。
 ネットでの、風評被害や、感染者へのいじめなどの問題もそうですね。

「傘がない」20092009/06/03

ナメクジは傘がなくても悠々なのに
いまは梅雨。
ナメクジは傘がなくても悠々と暮らしています。
でも、人間界は、傘をめぐって騒動が起こっているらしい・・・。


カミさんから、いつも怒られています。
「傘をどこかに、おいてこないで!」
私は、いいわけできずに、ベソをかきます。
「高い傘にしたら?そうしたら忘れないんじゃない?」
と追い打ちをかけるカミさん。
「それは甘い!」と自分を棚に上げて言う私。
「値段で忘れないなんてことはない。
 安い傘でいい。  
 とにかく気をつけるから・・・」
とふたたび自信のない私にもどります。

今日の午後、にわか雨がふりました。
・・・傘がない。

ところで、井上陽水の「傘がない」。
さっぱり意味がわからなかった十代の私。
傘がないよりは、自殺する若者が増えているほうが、
よっぽど問題じゃないかと思ったのでした。
彼女ができたとき、傘がないと確かに困る。
ついでに時計・・・世界のなににもまして。

ときは2009年。オバマさんが表舞台へ。
プラハで「核のない世界」演説をしました。
パチパチパチと拍手がわいたのに、
「困った」といったのは、日本国の政府でした。

傘がない!
「核の傘がないと安全が守れない」のだと。

ねえ、核兵器さえなくなれば、
傘もいらないんじゃないの。
あなたの理屈でいくと、
いつまでもなくならないよ。

DAN BRAWN : THE DA VINCI CODE2009/06/04

DAN BRAWN : THE DA VINCI CODE
去年の秋頃、ある本が謎の失踪を遂げました。
DAN BRAWN の《THE DA VINCI CODE》

フランス語や地名、宗教用語は、
適当に飛ばしながらでも、
読み続けさせる面白さがありました。

とくに、Silas。
映画でも、目を奪うような奇異な人物。
原作は、さらに深くつっこんだ描き方でした。

事件は、Chapter 15で発生しました。
そこは、Silasの描写で始まっていて、
ゾクゾクしながら読みました。

その夜、続きを読もうとしたとき、・・・ない。

遅くまで布団にもぐりこんで、
読んでいたのが悪かったのでしょうか。
「カタをもんでね」って言われていたのに、
「あとでね~」とこの本に熱中したことが悪かったんでしょうか。

心をいれかえ、カタをもむことにしましたが、
いつも適当なところで寝てしまいます。
ですから、半年経っても、
カミの怒りは解けなかったのだと思います。

突然、この本が出てきました。
まったく同じ場所で、同じページが開かれています。

この本の続きを読むべきでしょうか、
それとも、あきらめて、
カミ・・・さんのカタをもむべきでしょうか。

村上春樹『1Q84』(4月~9月)2009/06/04

村上春樹『1Q84』(4月~9月)
村上春樹『1Q84』を読み終わる。
BOOK1とBOOK2。

サブタイトルを見ると、4月から9月。
1Q84年は、まだ終わっていないのである。
単純に考えると、あと2冊分の
物語がありそうである。

実際、そんな気がする。

ブログで検索すると、ヒットする数は多い。
「あらすじ」などと書いてあるものもある。
他人の楽しみを奪うのは、よくないことだと思う。

私は夢中で読み、楽しませてもらった。
鏡の中の世界を。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)