お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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64年前の記憶で描かれる「103号哨戒艇」(USS Finch AM-9)2009/06/24

Nさんが描いた「103哨戒艇」
つい先日、Nさんの戦争体験をきいた記事を載せました。
たとえば→6月2日の記事
Nさんは、私と出会う度に、想い出を語っていきます。

Nさんは、通信兵。二等兵曹。
「電測」が任務。今でいうと、ソナーで海底を探査する任務。

・・・どういう風に任務をしていたのですか?
机の前に、画面をおいてそれを見る任務

・・・画面?
テレビのようなもの。
最新式のもので、誰も使い方を知らへん。わしだけ。

・・・・いまでいうソナーですね。
そう、こっちからは電波を出さない。出すと見つかるから。
だから、相手が電波を出すのをじっと待つ。

・・・ひまですか?
まあ、じっと待つ任務。一年しか学んでないので、
詳しいことはわからん。

・・・乗船していたのは、「103号哨戒艇」でしたね。
そうそう。アメリカの船を改造したもの。


私は、ふと思い出して、「103号哨戒艇」の絵を
描いてもらうことにしたのです。
「103号哨戒艇」は、Nさんの言うとおり元はアメリカ哨戒艇。
撃沈したあと、日本軍の捕獲船となり、
改造されて、「103号哨戒艇」と名前を変えました。

ネットでは(今のところ)写真が見つかりませんでした。
描いてもらう値打ちはあるのです。

前方の甲板と後方の甲板に、それぞれ大砲1問。
その両側に2連装の機関銃があったそうです。
元の米艇の装備よりも強化されているようですね。

AM9については、下に、Wikipediaの記事を載せています。

USS Finch (AM-9) was a Lapwing-class minesweeper acquired by the U.S. Navy for the dangerous task of removing mines from minefields laid in the water to prevent ships from passing.

Finch was named for the finch.

Finch was launched 30 March 1918 by Standard Shipbuilding Co., New York; sponsored by Mrs. F. G. Peabody; and commissioned 10 September 1918, Lieutenant J. C. Lindberg in command.

North Atlantic operations

After training and operations with a submarine bell, Finch sailed from New York 9 August 1919 for Kirkwall, Orkney Islands, Scotland. Here she based for two months of duty removing the vast number of mines laid in the North Sea during World War I. Finch returned to Charleston on 29 November 1920, and on 3 January 1920 sailed for San Pedro, California, where from 1 March to 29 August she was in reduced commission.

Pacific Ocean operations

Modernized, she sailed from San Francisco on 20 August 1921 for duty with the Asiatic Fleet, and for the next 20 years, served in the Philippines in the winter and out of the China base at Chefoo in the summer. Her duties were varied, and included towing and salvage work, as well as participation in the Yangtze River Patrol. She joined in fleet exercises, and as war tension heightened, played a part in protecting American citizens and interests in the Far East.

World War II operations

In 1941, she began work in intensive development exercises with submarine and mine groups in the Philippines, and as war came closer, spent December on patrol in the Taiwan Straits. According to an account given by Yeoman 3C A. Glenn Pratt, a crewmember aboard the Finch, she was assigned, along with the Heron, a sister vessel with a diving bell, to escort two US Navy river gunboats back to Manila Harbor from their station in China since the Japanese had sunk one such vessel, the Panay, in 1937. During the return leg of this mission, the vessels were temporarily surrounded by Japanese naval vessels headed toward the Philippines. The gunboats scouted the Japanese column, then pulled ahead to report the naval activity to Washington, while the Finch and Heron stayed behind, eventually being left by the Japanese as well. The two vessels returned to Manila Bay on 6 December 1941.

As the Japanese began aerial bombardment of bases in the Philippines, the Finch continued her task of sweeping for mines to keep the channel into the harbor open for incoming shipping. Yeoman Pratt reported that machine gunners on board the Finch downed one Japanese aircraft during an air raid, and though the Captain congratulated them, he asked them not to repeat the feat so that they would not become a special target and be able to continue mine sweeping operations. After running out of fuel in March, Finch was anchored in shallow water and her crew taken to shore defense positions.

Sunk by a Japanese bomb

On 9 April 1942, while moored at the eastern point of Corregidor, Finch was damaged by the near miss of a Japanese bomb, her seams opening and fragments of the bomb piercing her hull. The entire crew landed safely, and Finch was abandoned to sink the next day, 10 April 1942. According to [1] the "Finch" was salvaged as IJN Patrol Boat 103 and sank in 1945.


Many of the Finch's crew served during the siege of Corregidor, though the Captain was evacuated to Australia via submarine. The survivors of Corregidor were the first prisoners to arrive at Cabanatuan prison camp. Many were later removed to camps in Japan or Taiwan.

Finch received one battle star for World War II service.

『時計じかけのオレンジ』(A Clockwork Orange)2009/06/24

『時計じかけのオレンジ』(A Clockwork Orange)
『時計じかけのオレンジ』(A Clockwork Orange)
アンソニー・バージェス(Anthony Burgess)の原作を、
スタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick)が監督。

タイトルは、聞いた者、目にする者に「?」を突きつける。
A Clockwork Orange・・・時計のように動くオレンジ。
とりあえず、映画を見たあとでも、「?」は消えない。

みずみずしい果実と無機的な時計。
成り立ちようのない統一物が突きつけられる。
全体主義と個人の自由。
秩序と暴力。

作家や監督が意図したかどうかは別にして、
暴力事件を誘発したことは事実。

道化芝居をおもわせる過剰なポーズ、
激しい嫌悪感を引き起こす暴力。
英語とロシア語が混じる奇妙な言語。

私は、クラクラしながらも、なにかを
読み取ろうとする。

戦争のなかでの狂気として描かれてはいない。
日常生活での狂気と暴力・・・・
説明されない暴力、見る者の意識と媒介されない
そこにあるがままの暴力。

私は、この作品を消化できないでいる・・・。

原作は、1962年発表。映画は、1971年公開。
アンソニー・バージェスは、1993年に76歳で死亡。
スタンリー・キューブリックは、1999年に70歳で死亡。
キュービックは『2001年宇宙の旅』の監督でもある。
・・・この”2001年”には、米ソ対立が色濃く反映。
「2010年」も同様。しかし、世界は大きく変わっている。
世界の主役も、立ち向かうべき中心課題も。

森村誠一『《悪魔の飽食》ノート』(1982)とNさんの話2009/06/24

森村誠一『《悪魔の飽食》ノート』(1982)
森村誠一の『悪魔の飽食』(『続・悪魔の飽食』)は、
捕虜をマルタとよび、悪魔の人体実験を繰り返していた
旧日本軍の細菌兵器部隊・七三一部隊を暴きました。

1981年7月から74回にわたり
「しんぶん赤旗」紙上に連載。
その後、単行本として出版され、
また文庫本としても読むことができます。

衝撃的な内容であるため高い評価をえましたが、
それゆえに、論争の的、攻撃の的ともなりました。
写真をめぐる不手際もありましたが、
核心の真実性は、揺るぎませんでした。

『《悪魔の飽食》ノート』(晩聲社)は、
上記のドキュメントをめぐる論文、対談などを
集めたものです。
私は、たまたまブックオフで見つけました。
そして、しばらく書棚においていたのです・・・。

今日の日記にNさんの戦争体験を書きました。
64年前の記憶で描かれる「103号哨戒艇」(USS Finch AM-9)

そのときに、Nさんは同年代の老人の話を
私にしてくれました。

たぶん、戦争のことを覚えているもんは
すくなくなってしもうたやろなぁ。
わしらの世代が最後かも知れん。


・・・そうですね、でもみなさん、
なかなか語ろうとされませんね。

そりゃそうやろ。口止めされていたこともあるが、
怖いんや。追求されないか、罪に問われんかと。


・・・・。

散髪屋であったヤツがいうとった。
「(中国にいったとき)なんでもやった。
女は犯したし、年寄りや子どもも殺した。
『そうせい!』と言われたんやけど・・・。
度胸をつけさせるためやろなぁ。
そうやなんと、とても人は殺せん。
・・・それにしても、(中国人は)よう返してくれた。
わしらを責めんと、よう無事に返してくれたなぁ。
そういって泣いとった。


私は、このことをずっと家に帰って考えていました。
そして同じ根の犯罪を描いた『悪魔の飽食』と
『《悪魔の飽食》ノート』を思い出したのです。

この本にも同じような気持ちが書かれています。

われわれが接触した元七三一隊員たちは、こと生体実験に及ぶと一様に口が重くなり、ほとんど語りたがらなかった。語ったとしても、懸命な説得により、ようやくその一端を漏らすだけであった。中には訪問して取材を告げるや、
「わかりました。いつかは罪科を問われると覚悟ばしちょいもした。一緒に警察へ行きまっしょ。刑事さんの居るごたる前で私が殺したマルタのこつ、全部白状します。」
と身を震わせて正座する隊員もいた。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)