
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
森村誠一『《悪魔の飽食》ノート』(1982)とNさんの話 ― 2009/06/24

森村誠一の『悪魔の飽食』(『続・悪魔の飽食』)は、
捕虜をマルタとよび、悪魔の人体実験を繰り返していた
旧日本軍の細菌兵器部隊・七三一部隊を暴きました。
1981年7月から74回にわたり
「しんぶん赤旗」紙上に連載。
その後、単行本として出版され、
また文庫本としても読むことができます。
衝撃的な内容であるため高い評価をえましたが、
それゆえに、論争の的、攻撃の的ともなりました。
写真をめぐる不手際もありましたが、
核心の真実性は、揺るぎませんでした。
『《悪魔の飽食》ノート』(晩聲社)は、
上記のドキュメントをめぐる論文、対談などを
集めたものです。
私は、たまたまブックオフで見つけました。
そして、しばらく書棚においていたのです・・・。
今日の日記にNさんの戦争体験を書きました。
→64年前の記憶で描かれる「103号哨戒艇」(USS Finch AM-9)
そのときに、Nさんは同年代の老人の話を
私にしてくれました。
たぶん、戦争のことを覚えているもんは
すくなくなってしもうたやろなぁ。
わしらの世代が最後かも知れん。
・・・そうですね、でもみなさん、
なかなか語ろうとされませんね。
そりゃそうやろ。口止めされていたこともあるが、
怖いんや。追求されないか、罪に問われんかと。
・・・・。
散髪屋であったヤツがいうとった。
「(中国にいったとき)なんでもやった。
女は犯したし、年寄りや子どもも殺した。
『そうせい!』と言われたんやけど・・・。
度胸をつけさせるためやろなぁ。
そうやなんと、とても人は殺せん。
・・・それにしても、(中国人は)よう返してくれた。
わしらを責めんと、よう無事に返してくれたなぁ。
そういって泣いとった。
私は、このことをずっと家に帰って考えていました。
そして同じ根の犯罪を描いた『悪魔の飽食』と
『《悪魔の飽食》ノート』を思い出したのです。
この本にも同じような気持ちが書かれています。
捕虜をマルタとよび、悪魔の人体実験を繰り返していた
旧日本軍の細菌兵器部隊・七三一部隊を暴きました。
1981年7月から74回にわたり
「しんぶん赤旗」紙上に連載。
その後、単行本として出版され、
また文庫本としても読むことができます。
衝撃的な内容であるため高い評価をえましたが、
それゆえに、論争の的、攻撃の的ともなりました。
写真をめぐる不手際もありましたが、
核心の真実性は、揺るぎませんでした。
『《悪魔の飽食》ノート』(晩聲社)は、
上記のドキュメントをめぐる論文、対談などを
集めたものです。
私は、たまたまブックオフで見つけました。
そして、しばらく書棚においていたのです・・・。
今日の日記にNさんの戦争体験を書きました。
→64年前の記憶で描かれる「103号哨戒艇」(USS Finch AM-9)
そのときに、Nさんは同年代の老人の話を
私にしてくれました。
たぶん、戦争のことを覚えているもんは
すくなくなってしもうたやろなぁ。
わしらの世代が最後かも知れん。
・・・そうですね、でもみなさん、
なかなか語ろうとされませんね。
そりゃそうやろ。口止めされていたこともあるが、
怖いんや。追求されないか、罪に問われんかと。
・・・・。
散髪屋であったヤツがいうとった。
「(中国にいったとき)なんでもやった。
女は犯したし、年寄りや子どもも殺した。
『そうせい!』と言われたんやけど・・・。
度胸をつけさせるためやろなぁ。
そうやなんと、とても人は殺せん。
・・・それにしても、(中国人は)よう返してくれた。
わしらを責めんと、よう無事に返してくれたなぁ。
そういって泣いとった。
私は、このことをずっと家に帰って考えていました。
そして同じ根の犯罪を描いた『悪魔の飽食』と
『《悪魔の飽食》ノート』を思い出したのです。
この本にも同じような気持ちが書かれています。
われわれが接触した元七三一隊員たちは、こと生体実験に及ぶと一様に口が重くなり、ほとんど語りたがらなかった。語ったとしても、懸命な説得により、ようやくその一端を漏らすだけであった。中には訪問して取材を告げるや、
「わかりました。いつかは罪科を問われると覚悟ばしちょいもした。一緒に警察へ行きまっしょ。刑事さんの居るごたる前で私が殺したマルタのこつ、全部白状します。」
と身を震わせて正座する隊員もいた。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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