お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「東鶏冠」と刻まれた碑文@故陸軍歩兵伍長山村秀吉之墓 ― 2009/06/29
旅順要塞をめぐるたたかいは、日露戦争のなかでも、
凄惨さが際だっています。
この包囲戦に向かったのは、乃木大将率いる第三軍でした。
第三軍には、現役兵の第一師団、第九師団、第一一師団
そして、あとから、第七師団が加わります。
後備歩兵も、第一師団と第四師団が参加しています。
大津市に基地をおいた後備第九聯隊は、後備歩兵第四旅団
の一員として、参加しています。
1904(明治37)年8月19日に乃木軍の第一次総攻撃。
10万発もの砲撃が要塞に加えられます。
激烈な砲撃のあと、要塞の粉砕を信じて、同21日、
歩兵部隊による突撃が行われました。
後備歩兵第九聯隊は「東鶏冠北堡塁」へ向かったのです。
それは、旅順要塞のなかでも屈指の強固な陣地でした。
その結果はどうだったのか。
第一次突撃の結果、日本兵の死者は、約5000人。
負傷はは、1万人に達しました(後備第九聯隊はほぼ壊滅)。
日本軍は、近代的な要塞のなんたるかを
身をもって教えられる結果となったのです。
結局、旅順要塞の包囲戦は、1905年1月まで続きます。
旧志賀町木戸共同墓地の入り口に、堂々たる
墓碑が置かれています。
「故陸軍歩兵伍長山村秀吉之墓」
その側面には、戦歴が書かれていて、
日清戦争にも従軍し、日露戦争で戦死とあります。
戦死の日付は、明治37年8月21日、
つまり、最初の総攻撃の日付でした。
私が「東鶏冠」という地名を知ったのは、このような墓碑からです。
しかし、現地はどうでしょうか。
「東鶏冠山日俄戦争遺址」(日露戦争戦跡)として、
観光地になっていました。知られた地名だったのです。
ネットで検索すると、記念碑をはじめ、砲弾跡、
記念館などがあり、日本人の方が撮影した写真も
見ることができました。
凄惨さが際だっています。
この包囲戦に向かったのは、乃木大将率いる第三軍でした。
第三軍には、現役兵の第一師団、第九師団、第一一師団
そして、あとから、第七師団が加わります。
後備歩兵も、第一師団と第四師団が参加しています。
大津市に基地をおいた後備第九聯隊は、後備歩兵第四旅団
の一員として、参加しています。
1904(明治37)年8月19日に乃木軍の第一次総攻撃。
10万発もの砲撃が要塞に加えられます。
激烈な砲撃のあと、要塞の粉砕を信じて、同21日、
歩兵部隊による突撃が行われました。
後備歩兵第九聯隊は「東鶏冠北堡塁」へ向かったのです。
それは、旅順要塞のなかでも屈指の強固な陣地でした。
その結果はどうだったのか。
第一次突撃の結果、日本兵の死者は、約5000人。
負傷はは、1万人に達しました(後備第九聯隊はほぼ壊滅)。
日本軍は、近代的な要塞のなんたるかを
身をもって教えられる結果となったのです。
結局、旅順要塞の包囲戦は、1905年1月まで続きます。
旧志賀町木戸共同墓地の入り口に、堂々たる
墓碑が置かれています。
「故陸軍歩兵伍長山村秀吉之墓」
その側面には、戦歴が書かれていて、
日清戦争にも従軍し、日露戦争で戦死とあります。
戦死の日付は、明治37年8月21日、
つまり、最初の総攻撃の日付でした。
私が「東鶏冠」という地名を知ったのは、このような墓碑からです。
しかし、現地はどうでしょうか。
「東鶏冠山日俄戦争遺址」(日露戦争戦跡)として、
観光地になっていました。知られた地名だったのです。
ネットで検索すると、記念碑をはじめ、砲弾跡、
記念館などがあり、日本人の方が撮影した写真も
見ることができました。
木戸共同墓地で戦死者の墓碑と向かい合う ― 2009/06/29
清林パークの駐車場から降りて、徒歩3分。
「志賀清林埋骨地」の奥手に、木戸共同墓地があります。
入り口の右手のりっぱな墓碑が、先に紹介した
「故陸軍伍長山村秀吉之墓」(下の写真)でした。
その横の道は、共同墓地のなかに続いています。
墓地に入ると、すぐ左手に、戦没者の墓碑が並んでいます。
戦死者の墓碑は、見間違うことがありません。
ひときわ大きく、たいていは先に向かって尖った四角錐。
整然とした配列などは、どの共同墓地でも共通しています。
そして、なによりも、目立ちます。
いまでも、そうかも知れませんが、
この墓地を訪れる人々は、
まずこれらの墓碑に礼をしてから、
自分達の祖先の墓碑に向かった
のではないかと思えます。
ともかく、戦没者は個人的な存在ではなく、
その集落や共同墓地にとっては、
特別な存在であることを示しています。
私は、その一つ一つと向かい合い、碑文を読み取り、
その若者たちの生きた姿を想像してみるのです。
「志賀清林埋骨地」の奥手に、木戸共同墓地があります。
入り口の右手のりっぱな墓碑が、先に紹介した
「故陸軍伍長山村秀吉之墓」(下の写真)でした。
その横の道は、共同墓地のなかに続いています。
墓地に入ると、すぐ左手に、戦没者の墓碑が並んでいます。
戦死者の墓碑は、見間違うことがありません。
ひときわ大きく、たいていは先に向かって尖った四角錐。
整然とした配列などは、どの共同墓地でも共通しています。
そして、なによりも、目立ちます。
いまでも、そうかも知れませんが、
この墓地を訪れる人々は、
まずこれらの墓碑に礼をしてから、
自分達の祖先の墓碑に向かった
のではないかと思えます。
ともかく、戦没者は個人的な存在ではなく、
その集落や共同墓地にとっては、
特別な存在であることを示しています。
私は、その一つ一つと向かい合い、碑文を読み取り、
その若者たちの生きた姿を想像してみるのです。
騒音の消えた街・・・・ ― 2009/06/29
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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