お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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遠藤周作 『海と毒薬』(1958)2009/06/02

遠藤周作 『海と毒薬』(1958)
『海と毒薬』。
F大学を舞台にした捕虜生体解剖事件を扱っています。
私は、映画の方を先に知りました。
そのモノクロの画面に強い衝撃を受けました。
救いのない気分で見終わったのです。

そして、今日、原作をはじめて読みました。

知っている方、知らない方、いろいろだと思います。
1945年に、B29が特攻機によって撃墜され、
九州の竹田市で脱出した米兵が捕虜となります。
この捕虜を生体解剖の犠牲とする事件が起きました。
それが、九州大学生体解剖事件。
戦後、戦犯事件として、GHQで裁かれています。

『海と毒薬』は、創作ですが、この事件をベースにしています。

事件そのものが提起する問題、そして、
遠藤周作氏がこの小説で提起した問題は、
重なりながら、同一ではないと思います。

そこを注目して読みました。

それにしても、題名はとても暗示的です。
感想をすぐ書ける気分では、ありません。

私は、遠藤周作(1923-96)という人について、
あらためて関心をもちました。
ネスカフェのコマーシャルによく出ていたおしゃれな人。
狐狸庵先生。クリスチャン。『沈黙』の作者。
その程度の知識だったからです。

それに、心のどこかにマイナスイメージがあるのですが、
それがどうしてなのか、思い出せません。

・・・ところで、満州で幼年時代を過ごした人なんですねぇ。

初めて聞くNさんの戦争体験2009/06/02

捕虜時代の怪我(本文にある)で中指の先がもげているNさんの手
20年以上おつきあいのあるNさん。
80歳を超えたんですね。でもお元気。

今日の夕方、私の事務所で出会いました。

私は、バザーのことを思い出しました。

「ねえ、Nさん、Nさんたちのバザーに出すために、
冷凍庫を掃除し、消毒し、磨いておいたのに、
新インフルエンザで中止になって残念でしたね。」

それはどうもと、すまなそうに帽子を取るNさん。

「あれは、騒ぎすぎや」
「そうですね。大津で罹った人はとうに退院ですね。」

すると話は別の方向に。

「熱が39度になると髪の毛がぬけるんや。
 マラリアになったときがそうやった」
「え、そうなんですか。どこでマラリヤに?」

話は、一気に昭和20年に飛びました。

Nさんは海軍通信兵。横須賀の海軍通信学校卒でした。
そこではかなり、ビンタをくらったそうです。
卒業して、そこから実戦配備となります。
「大きい船はいやや、小さい船にしてくれ」
といったそうです。
「新兵のくせに、生意気や!!」
と上官からひどく怒られたとか。

「なんで、小さい船が良かったんです?」と私。
「大きい船は、上下関係(階級制度)がきつかった。
小さい船は、家族的。実際、なぐられたことは一回もなかった。」
「そんなことがよくわかったものですねえ。」

マラリヤにかかったのは、現在のベトナムにいたときです。
当時は、仏領インドシナという呼び名でした。
「かかってから、どうしたんです?」
「39度になってふらふらのときに、日本へ送り返された」
船で、広島か、どこかの海軍病院に送られたそうです。
しかし、日本に着く頃には、元気になってしまい、
すぐに「かえれ!」と戦地に逆戻り。

乗っていたのは、103哨戒艇。
ボルネオから原油を積んで、マニラに向かう
船団に配属されました。
途中で、マニラにむかうことをあきらめ、
台湾に行くことになりました。
ボルネオからインドシナ半島にそって、北上。
ハノイとサイゴンの中間あたりで、
グラマン戦闘機の一団に遭遇しました。

哨戒艇には、125人ぐらいが乗っていました。
対空機関銃を積んでいましたから、その要員の
分だけ、人数が多かったそうです。
昭和20(1945)年1月12日の早朝。
朝食準備の時間。上甲板から「なにか見えるぞ~」の声。
「あれは、飛行機ちゃうか。どこのかなぁ」。
敵機と判明したので、機銃兵は上甲板へ急ぎ、
通信兵であるNさんは、「弾を運べ!!」といわれ、
船倉の弾薬庫に向かわされました。
たちまち、猛烈な音が響きます。
通信兵は、弾薬を上へ上へと運びます。
ところが、いっこうに受けとる気配がありません。
「おい、あがって見てこい!」となって出れば、
立って動いているものがいません。

「どうしたんですか?」
「上甲板は木甲板。厚い木で濡れているから、
グラマンの弾が跳ねよる。それで、みんな
腿をやられて、うずくまっていた。」

上官が叫びました。「退艦!退艦!」
ベトナムの海岸線から3キロほどの沿岸。
岸へいって、交渉して、漁船をチャーター。
それに病人、けが人を乗せました。

「元気なひとはどうしたんですか?」
「元気なものは、『お~い、飛び込め!!』」
「泳いで岸へ逃げたわけですね」

そのうち、艦は、爆発音がして、真っ二つに裂け、
海底に沈んでいきました。

漁船で逃れたものと、泳いで逃れたものは、
海流のために、別々の海岸へ。
そこで隊列を整え、サイゴンまで戻りました。

「そこで終戦ですか?」
「そう、イギリス軍が来た」
「捕虜になって、沖仲仕のようなことをやらされた。
 そのときに、荷物で指を落とす大けがをした。
 それを見ていたインド兵が、ポケットから消毒薬と
 包帯をとりだして、応急措置をしてくれ、車を
 呼んで、旧日本軍の病院に送ってくれた。
 その様子をみて、『これは負けるはずや』と思った」

Nさんが差し出す、右手中指はそのときの傷がはっきり
残っています。

「続きはまた来週」と笑って分かれました。

私もそれを楽しみに待つことにしました。
しかし、20年来の知り合いなのに、こんな話をしたのは
はじめてのことです。

・・・そのことに驚く私でもありました。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)