お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
昭和初期の若者の墓碑 -21歳で入営26歳で戦死- ― 2009/07/23
戦死者の墓碑の碑文も多様です。
戦死年月日だけを記した簡単なものから、係累からはじまり軍隊歴を記載しているものまで。思いはあっても、費用は冷厳なものかも知れません。
上の写真は、高島市。空に向かって屹立したりっぱな墓碑です。側面には、軍隊歴。
「昭和8(1931)年12月1日満州独立守備隊ニ入営満州事変従軍満州線守備ニ當ル」(数字はアラビア数字に変えてます)とあります。
「満州事変」(柳条湖事件)は、この3ヶ月ほど前の9月18日に起こっています。関東軍と中華民国が交戦。 この若者は、「事変」開始とともに、入営を促され、そのままこの戦争に参加したのです。
その後の記述を見ると、昭和9(1934)年と11(1936)年に褒章されています。
「昭和12(1937)年9月15日充員招集ニ應ジ歩兵第十九聯隊第一機関銃隊ニ編入」
私は想像するしかないのですが、満州独立守備隊は満州にいる若者を招集したものなのかも知れません。この若者は満州から高島郡(現高島市)に戻り、25歳で再度、招集されたと思われます。なぜなら、歩兵第十九聯隊(敦賀聯隊)は高島郡を管区としていたからです。
「仝年9月24日支那事変ノ為渡支人見部隊ニ属シ仝月28日呉松上陸仝年9月29日ヨリ翌年10月5日ニ到ル其間拾数回各地ノ戦闘ニ参加」
「人見部隊」とは連隊長の名前を冠した部隊名。第十九聯隊のことです。
再招集され入営した2週間後には中国での戦闘に投入され、それから一週間としないうちに(10月5日に)戦死したのです。
「昭和13(1938)年10月5日江西省瑞昌○王一塘ノ大激戦ニ戦死 享年26歳」
墓碑を飾る褒章歴が戦死という事実の前に、一気に色あせていきます。
命にかえるものはないのです。
戦死年月日だけを記した簡単なものから、係累からはじまり軍隊歴を記載しているものまで。思いはあっても、費用は冷厳なものかも知れません。
上の写真は、高島市。空に向かって屹立したりっぱな墓碑です。側面には、軍隊歴。
「昭和8(1931)年12月1日満州独立守備隊ニ入営満州事変従軍満州線守備ニ當ル」(数字はアラビア数字に変えてます)とあります。
「満州事変」(柳条湖事件)は、この3ヶ月ほど前の9月18日に起こっています。関東軍と中華民国が交戦。 この若者は、「事変」開始とともに、入営を促され、そのままこの戦争に参加したのです。
その後の記述を見ると、昭和9(1934)年と11(1936)年に褒章されています。
「昭和12(1937)年9月15日充員招集ニ應ジ歩兵第十九聯隊第一機関銃隊ニ編入」
私は想像するしかないのですが、満州独立守備隊は満州にいる若者を招集したものなのかも知れません。この若者は満州から高島郡(現高島市)に戻り、25歳で再度、招集されたと思われます。なぜなら、歩兵第十九聯隊(敦賀聯隊)は高島郡を管区としていたからです。
「仝年9月24日支那事変ノ為渡支人見部隊ニ属シ仝月28日呉松上陸仝年9月29日ヨリ翌年10月5日ニ到ル其間拾数回各地ノ戦闘ニ参加」
「人見部隊」とは連隊長の名前を冠した部隊名。第十九聯隊のことです。
再招集され入営した2週間後には中国での戦闘に投入され、それから一週間としないうちに(10月5日に)戦死したのです。
「昭和13(1938)年10月5日江西省瑞昌○王一塘ノ大激戦ニ戦死 享年26歳」
墓碑を飾る褒章歴が戦死という事実の前に、一気に色あせていきます。
命にかえるものはないのです。
暗い闇・・・白い壁に緑のカエル ― 2009/07/23
朽木人には、ゴキブリは「かわいい虫」に見えるのか? ― 2009/07/23
朽木村に生まれて、大津市に仕事で移り、
退職後、ふたたび生まれ故郷の朽木村へ
もどったMさん。
朽木で出会って話をしても、
大津人の私たちともよく通じるはずです。
一仕事終えた夜、Mさんが手みやげを
もって、宿泊した「やまね館」を訪ねてきました。
話も佳境に入った頃、黒い虫が
広く空けた窓から乱入。
騒いでいたら、ゴキブリ話となりました。
Mさんは、言いました。
「朽木にはゴキブリはおらん。
一晩中、おきてにらんでいても
一匹も見つけられんはず。
ワシは、そもそもゴキブリを
見たことがなかった。
大津に住むようになって、
夜、虫に出会った。
なんかかわいい虫やなぁと
見たり、触ったりしていた。
あるとき友人が来て、
『それ!ゴキブリや!』と
言われてはじめて知ったんや」
これを聞いていた私たち(3人)は、
顔を見合わせました。
きっと同じことを考えていたと思います。
ほんとうに朽木にゴキブリはいないのか?
どうすればゴキブリはかわいく見えるのか?
退職後、ふたたび生まれ故郷の朽木村へ
もどったMさん。
朽木で出会って話をしても、
大津人の私たちともよく通じるはずです。
一仕事終えた夜、Mさんが手みやげを
もって、宿泊した「やまね館」を訪ねてきました。
話も佳境に入った頃、黒い虫が
広く空けた窓から乱入。
騒いでいたら、ゴキブリ話となりました。
Mさんは、言いました。
「朽木にはゴキブリはおらん。
一晩中、おきてにらんでいても
一匹も見つけられんはず。
ワシは、そもそもゴキブリを
見たことがなかった。
大津に住むようになって、
夜、虫に出会った。
なんかかわいい虫やなぁと
見たり、触ったりしていた。
あるとき友人が来て、
『それ!ゴキブリや!』と
言われてはじめて知ったんや」
これを聞いていた私たち(3人)は、
顔を見合わせました。
きっと同じことを考えていたと思います。
ほんとうに朽木にゴキブリはいないのか?
どうすればゴキブリはかわいく見えるのか?
「へしこ」だっけ? ― 2009/07/23
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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