お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
なぜ、大津市では日清戦争の個人墓碑が少なく、高島郡では多いのか ― 2010/12/01
私は2007年の夏まで、戦没者の墓碑に関心を持てませんでした。
しかし、8月の暑い日に、なぜか見て回る気になりました。そして、墓地の入り口でみた4柱の茶色くくすんだ墓碑に目を奪われました。台座のりっぱさと新しさとは対照的な墓碑でした。
それが、日露戦争の墓碑だったのです(上の写真)。碑文を読むうちに、一世紀の時間の隔たりが一瞬で埋まるような気がしました。それが出発でした。
林立する戦死者の墓碑のなかで、日露戦争の墓碑を見つけるのは、容易でした。形と色に共通性があったからです。
近くの墓地を周り、その記録をするうちに、湧いた疑問がありました。”日清戦争の個人墓碑がない”ということでした。
そこで、旧陸軍墓地の存在を思い出したのです。幼いときに、山を走り回って遊んでいたとき、突然、軍人の墓地に飛びこんで、恐怖を覚えた経験がありました。それが、陸軍墓地にちがいないと思いました。
それはどこなんだろう?
そして、ようやく見つけることができました。そして、そこには、日清戦争の墓碑がならぶ一角(上の写真)がありました。
戦前の『滋賀縣史』『大津市志』を読んで、日清戦争の戦死者の数も実名もわかりました。しかし、民間墓地で見つけた日清戦争戦没者の墓碑は1柱(下の写真)だけでした。
そこで、日清戦争では、例外はあっても、個人墓碑は建てられなかったのだと思っていました。
しかし、この10月から11月で、やつしろさんのご協力で、認識を新たにしました。それは、旧高島郡(現高島市)では、日清戦争でも、個人墓碑が民間墓地につぎつぎに建てられていたという事実です。それと同時に、それらは、集落では紀念碑としての役割を果たしていたこと(下の写真:中野共同墓地における「中村林蔵碑」)もわかりました。 同じ人物の墓碑が、軍墓地にも建てられているという事実(下の写真:旧大津陸軍墓地での「中村林蔵之墓」)も知りました。
あらためて考えることになったのは、”なぜ、高島郡では個人墓碑が建てられたのか、逆に、なぜ、大津市では建てられなかったのか”ということです。
単純に考えれば、大津市には陸軍墓地があったということでしょうか。となると、陸軍墓地の存在が、民間墓地における戦死者の扱いにも影響しているわけで、一体に考えなくてはならないということになります。
それは、逆に、高島郡で、日清戦争の記念碑が建てられなかった理由もわかる気がします。その役目を個人墓碑が演じたということではないでしょうか。
「忠魂碑」が各地に建てられるようになると、戦争そのものの碑としての役目は個人墓碑からはなくなり、戦死者個人の墓としての役目を帯びて、建てられるようになってきたとも考えられます。
作業はまだ途中ですが、頭に浮かんだことを書きました。
しかし、8月の暑い日に、なぜか見て回る気になりました。そして、墓地の入り口でみた4柱の茶色くくすんだ墓碑に目を奪われました。台座のりっぱさと新しさとは対照的な墓碑でした。
それが、日露戦争の墓碑だったのです(上の写真)。碑文を読むうちに、一世紀の時間の隔たりが一瞬で埋まるような気がしました。それが出発でした。
林立する戦死者の墓碑のなかで、日露戦争の墓碑を見つけるのは、容易でした。形と色に共通性があったからです。
近くの墓地を周り、その記録をするうちに、湧いた疑問がありました。”日清戦争の個人墓碑がない”ということでした。
そこで、旧陸軍墓地の存在を思い出したのです。幼いときに、山を走り回って遊んでいたとき、突然、軍人の墓地に飛びこんで、恐怖を覚えた経験がありました。それが、陸軍墓地にちがいないと思いました。
それはどこなんだろう?
そして、ようやく見つけることができました。そして、そこには、日清戦争の墓碑がならぶ一角(上の写真)がありました。
戦前の『滋賀縣史』『大津市志』を読んで、日清戦争の戦死者の数も実名もわかりました。しかし、民間墓地で見つけた日清戦争戦没者の墓碑は1柱(下の写真)だけでした。
そこで、日清戦争では、例外はあっても、個人墓碑は建てられなかったのだと思っていました。
しかし、この10月から11月で、やつしろさんのご協力で、認識を新たにしました。それは、旧高島郡(現高島市)では、日清戦争でも、個人墓碑が民間墓地につぎつぎに建てられていたという事実です。それと同時に、それらは、集落では紀念碑としての役割を果たしていたこと(下の写真:中野共同墓地における「中村林蔵碑」)もわかりました。 同じ人物の墓碑が、軍墓地にも建てられているという事実(下の写真:旧大津陸軍墓地での「中村林蔵之墓」)も知りました。
あらためて考えることになったのは、”なぜ、高島郡では個人墓碑が建てられたのか、逆に、なぜ、大津市では建てられなかったのか”ということです。
単純に考えれば、大津市には陸軍墓地があったということでしょうか。となると、陸軍墓地の存在が、民間墓地における戦死者の扱いにも影響しているわけで、一体に考えなくてはならないということになります。
それは、逆に、高島郡で、日清戦争の記念碑が建てられなかった理由もわかる気がします。その役目を個人墓碑が演じたということではないでしょうか。
「忠魂碑」が各地に建てられるようになると、戦争そのものの碑としての役目は個人墓碑からはなくなり、戦死者個人の墓としての役目を帯びて、建てられるようになってきたとも考えられます。
作業はまだ途中ですが、頭に浮かんだことを書きました。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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