お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その19 ~金百貮拾圓ヲ賜フ~2011/09/12

中村家に保存されている中村林蔵の資料(1)
 日清戦争へ出征して生きては戻らなかった兵卒たちの「その後」の物語です。中村林蔵は、第九聯隊に所属した陸軍歩兵二等卒でした。遼東半島に上陸した直後に病死したことは、見てきたとおりです。
 明治28(1895)年4月に下関講和条約が締結され、5月には批准されました。大陸に渡っていた日本軍は、続々、凱旋帰国しました。7月のことです。このために、仮設の凱旋門が宇品港から市内に入る道に設けられました。その後、その地には凱旋碑が建てられることにもなりました。
 中村林蔵は、5月1日に亡くなっていましたから、凱旋帰国できません。また、所属した第九聯隊全体が新たな任務をあたえられため、11月末まで大陸にとどまりました。
 凱旋帰国は、年の瀬ぎりぎりとなりました。それでも、生きて戻れた兵卒は幸せです。
 ところが、聯隊は、一週間後の明治29(1896)年1月日に、再び出征することになります。台湾征服戦争への従軍でした。

 さて、「死後の物語」です。
  中村林蔵が亡くなった同じ月の末に、台湾で反乱がおこります。台湾の側から見れば、独立戦争。日本の側から見れば征服戦争がはじまります。その最中、10月28日に、近衛師団長北白川能久が戦病死しました。皇族で最初の戦没者でした。11月11日に国葬が行われました。
 同年12月15日に、靖国神社に日清戦争の戦没者、1,496名が合祀され、16日から18日まで臨時大祭。これを最初として、日清戦争の合祀者は、1万4800人に及びました。
 明治30年の末に、中村林蔵の父・中村利平のもとに、上の写真の書類とともに、金百貮拾圓が送られてきました。「戦役ノ功ニ依リ受賞スベキ処、死歿セシニ付キ特○ヲ以テ」賜ったものでした。
 そして、そのお金をもって、中村林蔵碑が建てられ、村挙げて、除幕式が営まれたそうです。
 中村林蔵の死の様子は、これまでの私の推察であたっていたのでしょうか。「戦役ノ功」の内容とは、どのようなものなのでしょうか。
 中村林蔵碑の碑文をていねいに、読み直す必要があります。

霊山招魂社2011/09/12

霊山招魂社
霊山招魂社とはなにか?
Wikipediaをそのまま引用すれば、つぎのようになります。
 1868年6月29日(慶応4年5月10日)、明治天皇から維新を目前にして倒れた志士たち(天誅組など)の御霊を奉祀するために、京都・東山の霊山の佳域社を創建せよとの詔・御沙汰が発せられた。それに感激した京都の公家や山口・高知・福井・鳥取・熊本などの諸藩が相計らい京都の霊山の山頂にそれぞれの祠宇を建立したのが神社創建のはじまりであり、招魂社である。靖国神社より古い歴史を持つ。
 「靖国神社よりも古い歴史をもつ」という一文にひかれて、霊山墓地にやってきました。個人墓碑にも関心はありますが、”招魂社とはどういうものか”、見てみたいと思いました。
 それぞれについて詳しく調べることは後にして、現物を見て回りました。
 上の写真の右。階段の手前にあるのが山口藩招魂社の碑です。色は茶色っぽいものです。

山口藩招魂社@霊山墓地2011/09/12

「霊山招魂社」の碑のとなりに、「山口藩招魂社」の碑がありました。
「霊山招魂社」のとなりに、「山口藩招魂社」がありました。二つの碑のそれぞれ後ろにある祠がそうなんでしょうね。私はもっと立派なものだと思っていました。
これは、二つの招魂社の碑の間にある細長い案内碑です。ピントがあっていなくて、読みにくくなっています。

霊山には、いくつ招魂社があるのか2011/09/12

入り口の案内板とは別に墓地内にある案内表示
 霊山墓地の入り口に案内板があります。それを見ると、京都招魂社、山口招魂社、高知招魂社、熊本招魂社、岐阜招魂場、福岡招魂社、鳥取招魂社および茨城招魂社があるのがわかります。
 碑の名称と一致しない場合があります。たとえば、案内板では、京都招魂社ですが、現地では「霊山招魂社」という碑が建っているなどです。
 また、なぜ、岐阜だけが、招魂社ではなくて、招魂場なんでしょうか。

水戸藩招魂社@霊山墓地2011/09/12

水戸藩招魂社の説明版
 墓地の入り口の案内板では「茨城県招魂社」。実際に行ってみると、「水戸藩招魂社」。あえて名称を変えて表示する理由が、よくわかりませんけれど。
水戸藩招魂社@霊山墓地
 靖国神社は、当初は招魂社という名称でした。それが靖国神社と改められたとか。靖国神社のようなものを思い描いていたので、小さな祠が招魂社ということに驚きを隠せませんでした。そもそも、小さな山の斜面にそのようなものが数カ所造れるはずはないのですけれど。

岐阜県招魂場@霊山墓地2011/09/12

岐阜県招魂場@霊山墓地
 岐阜県招魂場---これは墓地の入り口の案内板(300円で販売されているパンフも同じ)の名称と一致しています。
岐阜県招魂場の碑
 入り口の両側にあるものはなにでしょうか。砲弾を模したような記がします。しかし、細すぎる気がします。私は、砲弾の実物を実見したことはほとんどありません。ですから、確かなことがいえません。
 招魂場は、招魂社とちがって、祠がありません。背後に回って確認しました。この場所の中心となる大きな板碑。背面と側面は撮影しました。しかし、・・・正面を撮るのを忘れていました。そういうミスもありますね。側面には明治三年の日付がありました。

舊土佐藩招魂社@霊山墓地2011/09/12

舊土佐藩招魂社@霊山墓地
この碑には「舊土佐藩招魂社」と刻まれています。
実は、招魂社の”本体”を撮り損ねています。それが、小さな祠だという意識がなかったからです。
 この碑には「舊」がついています。当初からのものではなく、比較的新しい碑だと思われます。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)