お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「まずは出て行きなさい、それから頼みに来なさい!」ぐらいは言わないと・・・。2009/07/29

2009年2月の日米合同演習(あいば野)
 時事ドットコムの「米軍再編、修正応ぜず=民主公約で米司令官」という記事を見つけました。私は民主党に肩入れする立場ではありません。しかし、遠慮のない米軍人の言葉に、ムカッと来たのは事実です。
 他国の領土だという意識がまるでないわかりやすさ。1945年以来の占領と被占領の関係を思い知らせる言葉です。
OK,OK、それならば、
 「まずは出て行きなさい。基地を置きたければ、それなりの礼儀があるでしょう」という文言に変えた方が、国民の思いが伝わりやすいように思えます。
 ただ米軍人の言葉には、どのような政党が政権をとっても、これまで同様に、屈辱に甘んじるはずだという確信があるように、思えます。試されているのは、民主党の側かも知れません。
米軍再編、修正応ぜず=民主公約で米司令官

 在日米軍のライス司令官は28日午後、都内の日本記者クラブで会見した。民主党が衆院選のマニフェスト(政権公約)で在日米軍再編合意の見直しに言及したことに関し、「(日米合意は)全体として良いパッケージになっており、日米双方にメリットがある。個別の要素は変えないというのが米政府の一貫した立場だ」と表明。沖縄県の普天間飛行場の移設問題などで修正に応じる考えはないことを強調した。
 また、同党が米側に提起するとした日米地位協定の改定についても、「数十年にわたって存在してきており、見直す必要はない」と否定的な見解を示した。 (2009/07/28-16:43)

「3・20あいばの集会」にて2009/03/21

「3・20あいばの集会」にて
あいばの演習場に
PAC3が配備されることに
抗議する集会である。

元参議院議員の
小泉親司さんが報告をする。

予定のイスでは不足して、
私は会場の外で聞き耳を立てた。

注意を喚起し続ける人たちが
世の中にいなければならない。
しかし、それだけでは十分ではないのだ。

荒川章二 『軍用地と都市・民衆』(山川出版社)を買う2008/09/26

荒川章二 『軍用地と都市・民衆』(
探していた本を、紀伊国屋のPCで検索していましたが
見つかりませんでした。担当の方に調べなおして
もらいましたが、絶版とか。

せっかく買うつもりできたのに・・・。

ということで、山川章二『軍用地と都市・民衆』を
代わりに(失礼な言い方ですが)買うことにしました。

それは、具体的資料が豊富というだけではなく、
つぎの視点に学ぶことが大きいと思ったからです。

 軍事分野での私の研究は、『軍隊と地域』以来、軍隊という組織が「そこ」(ある地域)に設置され、その場で訓練や活動を展開することの意味を、「戦時」と戦時出動のない「平時」の両方の時期にあらわれるそれぞれの特徴に留意しつつ、軍隊と地域(地域民衆)の心理的な距離や相互に影響しあう関係に注目して考えてきた。軍隊を支える地域の構造(政治行政・経済・社会的)や支えている心性はどのように生まれ、どう定着していったのか、一方でその構造の亀裂や問題性がどうあらわれてきのか、ということである。本書での軍用地への関心も、軍隊の拡大過程を、都市から郡部・農村、さらに空間的拡大として把握し、そこから、軍隊が地域に存在したことの意味を探ることにある。

この本は、ざっと一通り目を通すことができ、
とても参考になることがわかりました。

第9回「日米合同演習」計画発表@あいば野演習場2008/09/15

あいば野演習場入口ゲート@滋賀県高島市
 先の「中央即応集団」のほかに、第9回目の「日米合同演習」をあいば野演習場で行うというニュースが、「あいば野平和連絡会」の文書のなかにありました。
 この知らせも転載させていただきます。

9回目の「日米合同演習」の計画も発表される(11月下旬~12月中旬)

 陸上自衛隊幕僚監部広報部は9月4日、あいば野での9回目の「日米合同実動演習(共同訓練)」を11月下旬から12月中旬まで実施すると発表しました。日本側は第13旅団第17普通科連隊(山口)の1個中隊、米側は第31海兵機動展開部隊(在沖縄の海兵隊)の1個中隊で(各250名)、06年のあいば野や07年の日本原(岡山)の合同演習と同様に、イラクやアフガンでの戦闘を想定した都市型戦闘訓練(市街地訓練)等が実施されるのではないかと思われます。10月頃に詳細発表。

昨日のNHKスペシャル「兵士はどう戦わされてきたか」を、思わず思い浮かべました。

《海外派兵が中心任務の「中央即応集団」があいば野に》2008/09/15

第10戦車大隊の戦車(今津駐屯地創設55周年記念行事にて)
 電話がかかってきました、「あいば野平和連絡会」のHさんから。ファックスもいただきました。それは、「中央即応集団」が9月14日から21日に滋賀県のあいば野演習場にくるという知らせでした。
 「あいば野平和連絡会」のニュースですが、テキストで転載させてもらうことにします。

海外派兵が中心任務の「中央即応集団」があいば野に(9月14~21日

 陸上自衛隊中部方面隊総監部は9月10日、あいば野演習場等における中央即応集団と中部方面隊第10師団の演習を実施する旨発表しました。

 この演習はその目的を「中央即応集団が国際任務の派遣に係る先遣隊としての準備等一連の行動を中部方面隊と連携して実施」と明記しているように海外派兵を前提とした憲法違反の危険な演習です。

 またこの演習は、中央即応集団が500名・車両150台・航空機5機、第10師団が1600名・車両350台・ヘリ6機が参加する大規模なもので、中央即応集団が配置されている首都圏、第10師団配置の倒壊地域、「中継地」の大久保駐屯地(京都府宇治市)、「任務地域」のあいば野演習場を結び、輸送機・ヘリコプター・船舶・トラック・ジープでの部隊移動と物資輸送の訓練、敵地への先遣隊・中央即応集団と戦争集団に見立てた第10師団の業務引継ぎ等の訓練が実施されるものです。

「あいば野平和連絡会」は、抗議行動を予定しているそうです。

上の写真は、自衛隊中部方面隊第10師団第10戦車大隊(今津)の戦車です。

沖縄でくりかえされた暴行事件2008/02/12

かつて米軍キャンプがあった御陵団地(道路から右手)
1995年の3名の米兵による少女暴行事件
のことを鮮明に覚えています。
沖縄の痛みに真剣に向かい合うきっかけの
事件でした。私が、はじめて、
沖縄の地を踏んだのも、このときでした。
それは、この事件への怒りを共有するため、
そして、沖縄の現実に向き合うためでした。

それから、10年以上がたったのです。
しかし、2008年、ふたたび少女暴行事件が
おきました。

この12年はなんだったのでしょうか。

基地があるゆえの痛みは、私にとって
他人事ではありませんでした。
大津市は、1945年に米軍が進駐しました。
市内の中心部に旧日本陸軍の基地が
あり、そこに米軍は占領軍として
やってきました。

もちろん、私は、そのころは生まれていません。
米軍がきたとき、女性はいっせいに隠れたと
いいます。
米軍は、経済の活性化とジャズなどの文化を
もたらしました。
経済の活性化・・・繁華街の賑わい。
米軍相手の接客をする女性が生まれました。
それらの女性は特別な名前で呼ばれました。

わが家のすぐ近所にその職業に女性が住む
家があり、米兵との混血の子どもと私は友人でした。
わたしが物心がつきはじめたことには、
米軍はすでに引き上げていました。

ですから、米兵が父として、その友人に接する
姿を、あるときまでは、見たことがありません。
その日は突然やってきました。
二階でその子と遊んでいると、下から
あがってくる足音がしました。
見ると巨大な黒人兵でした。

私はあまりのことに仰天。それでも、戦争
直後によくあった話でしょうけれど、
チョコレートをもらいました。
1960年代のことなのに。

その子は、周囲からいじめられ、好奇の目で
みられていたと思います。
あるとき事件が起こりました。
銭湯で、その子がなにを思ったのか、
ションベン小僧そのままのことをしたのです。
いまから考えると、抗議だったのかも
知れません。

私の頭髪のなかには、三角の傷があります。
その傷は、その子が投げた石によって
つけられた唯一の傷です。
私はその子をうらむ気持ちが残っていま
せんから、きっと、私が悪いことをしたのだと
思います。

その子は、やがてハワイに行きました。
米兵が迎えにきてくれたのです。
ほんとうによかったと思いましたが、
さびしく感じました。

米軍がいるということ、そしてこういう事件が
ふたたび起きたということにやりきれなさを
感じます。
1995年の怒り、そして、集団自決問題での
教科書の改変への怒り、辺野古でジュゴンを
守るためにがんばる人たち・・・なんども表明される
怒りや行動が報われる日本を!!

●上の写真は、大津市の御陵団地。
 かつて米軍キャンプがあった場所。
 居住者でそれを知る人がなんにんいるだろうか。

米軍キャンプの記憶2007/09/29

米軍キャンプ跡地は公務員住宅に。痕跡はどこにもありません。
米軍キャンプは、私が物心つくときにはもう撤収していたと思います。
しかし、キャンプの建物などは、しばらく残っていました。
この境界線の中に入ったとき、私はドキドキしました。
それは、日本ではなかった・・・・からです。

覚えているのは、ガソリンスタンド。
ここにあったのだと思います。

英語の文字や見慣れない建物(放置状態)があり、
なぜか、来てはいけないところだと感じました。

「来てはいけない」というのは、もしかしたら、なにか言われていたかも
知れません。

28日の夜にある集会があり、そこで70ぐらいの元気な女性に出会いました。開会前だったので、気軽に話しをしていましたが、そこでキャンプの話題が出ました。
「あそこ(米軍キャンプ)には近づくなっていわれてましたから。
 なかはよく知りません。」
「うちの姉は、皇子が丘の上のほうで、米軍のハウスメイドをしてました。」
英語に詳しくなさそうな方から飛び出す「ハウスメイド」という言葉。
やはり、米軍の存在を感じました。

いまは、公務員のための集合住宅となっています。
どこにも、米軍キャンプであったという痕跡もなければ、
その歴史を刻んだ表示もありません。
それは、生きている高齢者の記憶のなかでしか生きていないと
思います。

私には、それでいいとは思えません。

米軍キャンプ跡地2007/09/29

大津市米軍キャンプ跡地
まだ蒸し暑い日中ですけれど、夕方から夜にかけて
肌寒いときもあり、窓を開けて寝ることもなくなりました。

木曜日を休日にしています。
市役所で情報公開の申し込みをしたあと、歴史博物館によりました。
そこで年間会員の手続きをして、文献を買って帰りました。

この歴史博物館は、米軍の将校の社交場の跡地に立っています。
ダンスホールがありました。

後に大津市文化会館になりましたが、それも取り壊され
いまは、歴史博物館。

私が疑問に思うのは、つぎつぎとスクラップ・アンド・ビルドを
繰り返すまちづくり。
日本の都市すべてがそうだとは思いませんが、決していいことでは
ないと思います。

歴史博物館からまっすぐに降りてきて、いつもとは違う道を通りました。
・・・車ではなく、バイクでしたから、細い道をぬけることができるのです。
横に曲がらず、まっすぐ行けば、京阪電車の線路の踏み切りに出ます。

上の写真ですが、踏み切りをわたった左手(緑が多い)が
旧米軍キャンプの跡地です。
真ん中の溝のような川が境界線。
右手が一般の住宅です。

記念行事開催する今津駐屯地との間をピストン運転するバスにて2007/09/23

私は、10年ぶりぐらいに参加しました。
いったいどんな人たちが3000名も来るのかと思いました。

小さな子どもたちをつれた家族連れが、普通に参加していました。
隊員さんの家族みたいですね。
若い女性もけっこう多い。

何人かに一人は、自衛隊に似た迷彩服をきた人がいます。
手には、大きな望遠レンズを装備した高級なデジタル一眼レフ。

体型を見ると、どうも自衛隊の人には見えません。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)