お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
葉の形の多様さ、ブログの多様さ ― 2008/09/11
私のブログには、決まったテーマがありません。
最近、リンクしたゆうみさんのブログ『私の研究日記』には
明確なテーマがあって、内容が深まっていく、また
広がっていく楽しみがあります。
サイトは、自分独自の世界を作ることができますし、
情報量でも、その体系性でも、ブログやSNSとは
比べ物にならない水準をもつことができます。
ていぞうさんの『西南役余話』なんかはそうです。
たんねんに足で情報を集めて、3年間継続中。
私もサイトをもっていますが、粘りに感心します。
でも、相互のやりとりという点では不足があって、
メールだけでなく、掲示板を取り付けたり、
してありますね。
ミクシのようなSNSは、相手の反応や書き込みが
すぐにわかるようになっていて、刺激的。
しかし、足跡が残ったり、書き込める情報が少なかったり、
コミュニティも名ばかりのものになりがちだったり、
浅い気がします。
ですから、SNSで知り合ってオフ会ができれば、
楽しいかも知れませんね。
ブログは、掲示板みたいなものですけれど、
スパムが多くなって、コメントやトラックバックを
やむをえず受け付けない設定の方も
多くなりました。
いい日記だなぁと思って
コメント書こうとしたとき、拒否にあって、
がっかりしたことがもありました。
機能の問題というより、ネット世界の
問題なのでしょうね。
リアルの世界とはちがい、顔が見えないことで
政治的なエントリーには炎上などもおこります。
ブログはどこまでいっても初心者気分。
使い方は多様でマイペースと思っていますが、
リアル世界が忙しくなるにつれて、
(知人の方々から「なにしてるんだ、こんなときに」と)
お馬鹿な日記がつけられなくなるのが残念です。
写真は葉っぱ。
「見ればわかる!」っていわれそうですが、
形の多様さに感心しながら、今日も湖岸を
歩きました。
さあ、仕事仕事。
最近、リンクしたゆうみさんのブログ『私の研究日記』には
明確なテーマがあって、内容が深まっていく、また
広がっていく楽しみがあります。
サイトは、自分独自の世界を作ることができますし、
情報量でも、その体系性でも、ブログやSNSとは
比べ物にならない水準をもつことができます。
ていぞうさんの『西南役余話』なんかはそうです。
たんねんに足で情報を集めて、3年間継続中。
私もサイトをもっていますが、粘りに感心します。
でも、相互のやりとりという点では不足があって、
メールだけでなく、掲示板を取り付けたり、
してありますね。
ミクシのようなSNSは、相手の反応や書き込みが
すぐにわかるようになっていて、刺激的。
しかし、足跡が残ったり、書き込める情報が少なかったり、
コミュニティも名ばかりのものになりがちだったり、
浅い気がします。
ですから、SNSで知り合ってオフ会ができれば、
楽しいかも知れませんね。
ブログは、掲示板みたいなものですけれど、
スパムが多くなって、コメントやトラックバックを
やむをえず受け付けない設定の方も
多くなりました。
いい日記だなぁと思って
コメント書こうとしたとき、拒否にあって、
がっかりしたことがもありました。
機能の問題というより、ネット世界の
問題なのでしょうね。
リアルの世界とはちがい、顔が見えないことで
政治的なエントリーには炎上などもおこります。
ブログはどこまでいっても初心者気分。
使い方は多様でマイペースと思っていますが、
リアル世界が忙しくなるにつれて、
(知人の方々から「なにしてるんだ、こんなときに」と)
お馬鹿な日記がつけられなくなるのが残念です。
写真は葉っぱ。
「見ればわかる!」っていわれそうですが、
形の多様さに感心しながら、今日も湖岸を
歩きました。
さあ、仕事仕事。
そこに戦場があったということ、ないということ ― 2008/09/11
私のいいたことがうまくいえるか心配ですが、
書いてみます。
数年前に、サイパンで戦跡めぐりをしました。
(上の写真は、日本刑務所跡)
戦場の傷跡をのこした場所は、
私に強い印象を与えました。
おそらこのツアーに参加した人すべてが
そうだと思います。
家族で沖縄にいったとき、
まだ未整備の南風原陸軍病院跡をさがしあてて、
見学しました。
看板はあったものの荒れ果てた様子に
いっそうリアルな思いがしました。
それからしばらく時間が経過していました。
そして今年、
鹿児島の城山と<熊本の田原坂を訪れました。
(上の写真は、鹿児島市にある西南戦争銃弾痕)
そのとき、しばらく忘れていたことですが、
サイパンや沖縄と同じ感情を抱きました。
(上の写真は田原坂三の坂:谷村計介戦死の碑)
ここで、戦さがあったということ、
日常的な空間に、戦争の過去が
並存することの重さみたいなものです。
日清戦争、日露戦争、シベリア出兵と第一次世界大戦。
そして、15年戦争(1930~45)の
それらの戦場は、国内にはありません。
(もちろん、沖縄を除いて。)
そのことはなにを意味しているのだろうか、
自分たちに、どういう影響を及ぼしているんだろうか
などと考えるようになりました。
空襲や原爆の被害者として、自分を認知しても、
加害者の立場になったという自覚が薄れるのでは
ないかと思ったのです。
多数の外国人が指摘していることでしょうけれど、
日本のアニメを論じたスーザン・ネイピアが
『日本のアニメ』のなかで、 『はだしのゲン』なんかを評価するときに、
控え目ですが、その言及があり、はっとしたものです。
そうそう、小田実の『難死の思想』を読んで
強く思ったのかもしれません。
国外に出ていった若い兵士の方々はいまは高齢。
戦地のことを語ることなく亡くなった方も多数。
実際の戦地を見るためには、国外に行かなければ
ならないのです。
われわれのもとにあるのは、墓碑。
それは、西南戦争の戦地のように、
日常的な空間にともに存在するのではなく、
特別の空間、つまり、墓地にしかありません。
それを見るという意思がなければ、
視野から遠のき・・・Out of sight, out of memory。
書いてみます。
数年前に、サイパンで戦跡めぐりをしました。
(上の写真は、日本刑務所跡)
戦場の傷跡をのこした場所は、
私に強い印象を与えました。
おそらこのツアーに参加した人すべてが
そうだと思います。
家族で沖縄にいったとき、
まだ未整備の南風原陸軍病院跡をさがしあてて、
見学しました。
看板はあったものの荒れ果てた様子に
いっそうリアルな思いがしました。
それからしばらく時間が経過していました。
そして今年、
鹿児島の城山と<熊本の田原坂を訪れました。
(上の写真は、鹿児島市にある西南戦争銃弾痕)
そのとき、しばらく忘れていたことですが、
サイパンや沖縄と同じ感情を抱きました。
(上の写真は田原坂三の坂:谷村計介戦死の碑)
ここで、戦さがあったということ、
日常的な空間に、戦争の過去が
並存することの重さみたいなものです。
日清戦争、日露戦争、シベリア出兵と第一次世界大戦。
そして、15年戦争(1930~45)の
それらの戦場は、国内にはありません。
(もちろん、沖縄を除いて。)
そのことはなにを意味しているのだろうか、
自分たちに、どういう影響を及ぼしているんだろうか
などと考えるようになりました。
空襲や原爆の被害者として、自分を認知しても、
加害者の立場になったという自覚が薄れるのでは
ないかと思ったのです。
多数の外国人が指摘していることでしょうけれど、
日本のアニメを論じたスーザン・ネイピアが
『日本のアニメ』のなかで、 『はだしのゲン』なんかを評価するときに、
控え目ですが、その言及があり、はっとしたものです。
そうそう、小田実の『難死の思想』を読んで
強く思ったのかもしれません。
国外に出ていった若い兵士の方々はいまは高齢。
戦地のことを語ることなく亡くなった方も多数。
実際の戦地を見るためには、国外に行かなければ
ならないのです。
われわれのもとにあるのは、墓碑。
それは、西南戦争の戦地のように、
日常的な空間にともに存在するのではなく、
特別の空間、つまり、墓地にしかありません。
それを見るという意思がなければ、
視野から遠のき・・・Out of sight, out of memory。
ギュンター・グラス 『ブリキの太鼓』 ― 2008/09/11
1980年代のどこかで、
原作にも作家にも、知識がないまま
映画『ブリキの太鼓』(1979)を見た。
ギュンター・グラスという作家
の名前をそのとき初めて知る。
不思議な映画であったけれど、
ドイツ・東欧の関係史をかじっていたので
映画の筋とは違う興味でも、見ることができた。
それだけに印象的で、繰り返し見た。
つい2~3年ほど前に、
なつかしてくて、DVDを買ったけれど、
東欧への問題意識は薄れていて、
棚においているだけになっている。
今日たまたま、ブックオフで
翻訳本を見つけ、買ってきた。
さっそく読み始める。
なるほど映画のナレーションのとおり
もったいぶった文体である。
それに、主人公のオスカルが
入院先で回顧するという設定を
はじめて知る。
気がつくと日付が変わっている。
小説より映画が先だったので、
俳優たちの顔がちらつく。
原作にも作家にも、知識がないまま
映画『ブリキの太鼓』(1979)を見た。
ギュンター・グラスという作家
の名前をそのとき初めて知る。
不思議な映画であったけれど、
ドイツ・東欧の関係史をかじっていたので
映画の筋とは違う興味でも、見ることができた。
それだけに印象的で、繰り返し見た。
つい2~3年ほど前に、
なつかしてくて、DVDを買ったけれど、
東欧への問題意識は薄れていて、
棚においているだけになっている。
今日たまたま、ブックオフで
翻訳本を見つけ、買ってきた。
さっそく読み始める。
なるほど映画のナレーションのとおり
もったいぶった文体である。
それに、主人公のオスカルが
入院先で回顧するという設定を
はじめて知る。
気がつくと日付が変わっている。
小説より映画が先だったので、
俳優たちの顔がちらつく。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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