
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
ギーゼキング(Walter Gieseking)のドビュッシー前奏曲集 ― 2009/04/17

タイトルは、「ギーゼキングのドビュッシー前奏曲集」
ですが、音楽談義ではありません。
先日、イオンモールで、
中学時代の同級生のK氏に出会いました。
同じ市内に住みながら、
偶然出会っては話をかわす・・・そういう間柄です。
私は出会うたびに、少し照れくさい思いがするのです。
そのことについて書いてみたくなりました。
K氏は、とてもがっちりした体格。
中学時代は、バレーボールのクラブに入っていました。
スターになれるような器用さは、
なかったのでしょうけれど、
その誠実さは印象的に残りました。
私はと言えば、高慢で、
トゲトゲしい少年だったはず。
どこか無理して生きている雰囲気が
あったと思います。
K氏はその時代でも、
私に親しく接してくれました。
中学を卒業して、数年後に再会しました。
それとも高校時代だったのかも知れません。
そのとき、K氏は、手に見慣れない
楽器を持っていました。ハープでした。
私は軽いショックを覚えました。
音楽への愛情がそこまで深いとは知らなかったのです。
私が私がクラシック音楽にとりつかれたのは、
高校二年生以降のことです。
自分で演奏できるはずもなく、聴くばかりでした。
ところが、K氏は自ら習いに行っていたわけです。
K氏に誘われて、自宅を訪問しました。
そこでハープの演奏を聴きました。
そのあと、LPをかけてくれました。
ギーゼキングの演奏するドビュッシーの《前奏曲集》でした。
私のクラッシック熱は、
高校で知り合ったO氏から借りたLPが発端でした。
トスカニーニの指揮するベートーヴェン全集。
そのなかのベートーヴェンの『エロイカ』。
生き方や家庭や学業やなんだかんだで、
迷いに迷っていた私には、すごい衝撃でした。
それで、自分の気持ちを救ってくれて、
励ましてくれることを
音楽の善し悪しの基準にしていたのです。
激しければ激しいほどOK!・・・みたいにです。
ドビュッシーは、そういう価値観とは異質の音楽でした。
音そのものの響きの美しさ、
そこから生まれるイマジネーション・・・しかし、
当時の私には、この音楽が「理解できない」状態でした。
とても親切で人の良いK氏は、
うっとり聞き惚れています。
私の困惑は高まりましたが、K氏は、
ファンの心理そのままに、LPを貸してくれました。
お礼をいって、もちかえったのですが、
当時の私には、ネコに小判。
そういう経過があって、K氏に出会うと、
なんとなく、照れくさい思いがするのです。
ですが、音楽談義ではありません。
先日、イオンモールで、
中学時代の同級生のK氏に出会いました。
同じ市内に住みながら、
偶然出会っては話をかわす・・・そういう間柄です。
私は出会うたびに、少し照れくさい思いがするのです。
そのことについて書いてみたくなりました。
K氏は、とてもがっちりした体格。
中学時代は、バレーボールのクラブに入っていました。
スターになれるような器用さは、
なかったのでしょうけれど、
その誠実さは印象的に残りました。
私はと言えば、高慢で、
トゲトゲしい少年だったはず。
どこか無理して生きている雰囲気が
あったと思います。
K氏はその時代でも、
私に親しく接してくれました。
中学を卒業して、数年後に再会しました。
それとも高校時代だったのかも知れません。
そのとき、K氏は、手に見慣れない
楽器を持っていました。ハープでした。
私は軽いショックを覚えました。
音楽への愛情がそこまで深いとは知らなかったのです。
私が私がクラシック音楽にとりつかれたのは、
高校二年生以降のことです。
自分で演奏できるはずもなく、聴くばかりでした。
ところが、K氏は自ら習いに行っていたわけです。
K氏に誘われて、自宅を訪問しました。
そこでハープの演奏を聴きました。
そのあと、LPをかけてくれました。
ギーゼキングの演奏するドビュッシーの《前奏曲集》でした。
私のクラッシック熱は、
高校で知り合ったO氏から借りたLPが発端でした。
トスカニーニの指揮するベートーヴェン全集。
そのなかのベートーヴェンの『エロイカ』。
生き方や家庭や学業やなんだかんだで、
迷いに迷っていた私には、すごい衝撃でした。
それで、自分の気持ちを救ってくれて、
励ましてくれることを
音楽の善し悪しの基準にしていたのです。
激しければ激しいほどOK!・・・みたいにです。
ドビュッシーは、そういう価値観とは異質の音楽でした。
音そのものの響きの美しさ、
そこから生まれるイマジネーション・・・しかし、
当時の私には、この音楽が「理解できない」状態でした。
とても親切で人の良いK氏は、
うっとり聞き惚れています。
私の困惑は高まりましたが、K氏は、
ファンの心理そのままに、LPを貸してくれました。
お礼をいって、もちかえったのですが、
当時の私には、ネコに小判。
そういう経過があって、K氏に出会うと、
なんとなく、照れくさい思いがするのです。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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