お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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墓碑に「死」が訪れるとき、未来に生きるとき2009/07/04

戦死者の墓碑に早すぎる死が訪れるとき
上の写真は、ある民間墓地の隅を写したものです。
奥のとんがった墓碑は、戦死者の墓碑。
「陸軍兵長」の文字がかろうじて見えます。
もはや縁戚も途絶え、ここに移されてきたのでしょう。
他の碑文は、他の墓石の陰となってしまい、
読み取ることができません。

戦死者のメッセージを伝える使命は、石の命が
尽きるまえに、絶たれようとしています。

記憶は永遠ではありません。
それをもつ人間の肉体がなくなれば、消えてゆきます。
墓碑は、人の死を硬い石に刻んで、後世に残すものです。
しかし、石とても永遠ではありません。

明治4年ごろを日本の近代的な軍隊の創立と
するならば、その頃からの墓碑をまとめて、
見ることができるのは、大坂の玉造にある
「旧真田山陸軍墓地」です。

鮮やかに文字が残っている立派な墓碑とともに、
墓石が崩れ去り、碑文の文字が薄れ、
もはや土くれ・岩くれとなった墓碑を
いくつも見ることできます。



それは、墓碑の墓場、記憶の墓場でもあったのです。

NPO「旧真田山墓地とその保存を考える会」が
研究と保存のための活動をしていますが、
この事態は容易には変えることはできません。
陸軍墓地は、国の財産。
市に予算の持ち出しをさせて、
管理をさせているにすぎません。
戦後も、公園や道路建設によって、削られ、
個人碑は捨てられ、一つの記念碑に
代えられる例がいくつもあります。

墓碑や記念碑は、文字を失えば、
記憶の媒体であることをやめてしまいます

それは、墓碑や記念碑の死

民間墓地の戦死者の墓碑は、別の理由で
文字を残したまま失われていきます。
つまり、無縁仏になり、無縁塚に捨てられるのです。
民間墓地は経営体があり、新陳代謝することで
維持・管理されることは避けられません。

そういう例をいくつも見てきました。
個人の力では、無縁塚を解体して、
墓碑文を読み取ることなどできません。
積まれてた状態で、なんとか読み取ろうと
するのがせいぜいなのです。

それは、仕方のないことなのでしょうか。
日本国憲法で、二度と侵略しませんという
確約をすることで、アジアの人々などを
多数死亡させた罪を少しでも贖う内容を
もっています。
それすらも実質上は破られています。
いまや憲法はぼろぼろにされています。
しかし、武器の携行が強行されても、
戦闘は許さない強い歯止めとして機能しています。

ですから、
「2009年○○月○○日 ソマリア海域にて戦死」とか
「2008年○○月○○日 イランのサマーワ近郊にて戦死」
などという墓碑を刻む事態は、避けることができています。
それも、いつまでのことでしょうか。

私は思います。
いま、これらの戦死者の墓碑を思い出せ、
二度と刻んではならない文字ではなかったのか。

これらの墓碑が伝えようとしているメッセージは、
まだ生きている。
その使命を終えていない。
むしろ、いまこそ、そのメッセージを生かすときだ

・・・と。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)