
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
共同墓地のなかで、戦死者の墓碑はどこに置かれているのか ― 2009/10/24
農村部では、区や部落単位で共同墓地が存在します。その共同墓地には、戦死者の墓碑もいっしょに建てられています。ほとんどの場合、遺骨が還らないので、墓というよりは、記念碑に近いものです。
戦病死者の墓碑の建て方には、一定の共通したルールがあるように思えます。
日清戦争や日露戦争の墓碑は、集落が経験するはじめての対外戦争での戦死者ということもあって、特別な位置に立てられています。たとえば、墓地の入り口(大津の石山、旧志賀町の木戸、南小松、高島の中野など)に建てられます。だれもが必ず通り、目にする場所に置かれています。

その後、第一次世界大戦やシベリア出兵、日中戦争などで戦死者は加速度的に増えていきます。そのあたりまでは、大きめの墓碑として建てられていきます。

しかし、戦線は拡大する一方で、太平洋戦争での犠牲者はそれまでの規模をはるかに上回りました。本来置かれるべきスペースが不足するという問題が生まれたのでしょうね。入り口付近に、一つの台座に複数並んでおかれているのをよく目にしますが、そういうことから、造られたのではないかと思えます。
だれが決めたルールかわかりませんが、どの墓地もその配列になっているようです。
戦病死者の墓碑の建て方には、一定の共通したルールがあるように思えます。
日清戦争や日露戦争の墓碑は、集落が経験するはじめての対外戦争での戦死者ということもあって、特別な位置に立てられています。たとえば、墓地の入り口(大津の石山、旧志賀町の木戸、南小松、高島の中野など)に建てられます。だれもが必ず通り、目にする場所に置かれています。

その後、第一次世界大戦やシベリア出兵、日中戦争などで戦死者は加速度的に増えていきます。そのあたりまでは、大きめの墓碑として建てられていきます。

しかし、戦線は拡大する一方で、太平洋戦争での犠牲者はそれまでの規模をはるかに上回りました。本来置かれるべきスペースが不足するという問題が生まれたのでしょうね。入り口付近に、一つの台座に複数並んでおかれているのをよく目にしますが、そういうことから、造られたのではないかと思えます。
だれが決めたルールかわかりませんが、どの墓地もその配列になっているようです。
北比良の「戦没者慰霊碑」 ― 2009/10/24
「忠魂碑」は天皇のために命を捧げた将兵を記念するという意味の碑です。したがって、天皇の名で起こされた戦争とそれを戦った臣民への賛美が込められています。戦前は、そういう目的で建設され、碑の前で、行事が行われていたと聞いています。
戦後になって撤去されたものも多数あるし、地域の記念碑をあつめた本のなかからも削除されていきます。
一方、「戦没者慰霊碑」は、「忠」(天皇への忠誠)という要素はなく、戦争に参加し、命を落とした将兵を弔うために建てられています。
旧志賀町では、「忠魂碑」は、木戸の共同墓地に一つ、和邇中の天皇神社に一つあります。国民学校前に横長の形をした「忠魂碑」があったはずですが、まだ見つけていません。
「戦没者慰霊碑」の類は、北小松に「戦没者慰霊碑」と南小松に「慰霊塔」があります。
新たに紹介するのは、北比良の共同墓地に隣接しておかれている「戦没者慰霊碑」です。
背面には、建立年月が刻まれています。「昭和51年3月」。西暦では、1976年のことですね。
戦後になって撤去されたものも多数あるし、地域の記念碑をあつめた本のなかからも削除されていきます。
一方、「戦没者慰霊碑」は、「忠」(天皇への忠誠)という要素はなく、戦争に参加し、命を落とした将兵を弔うために建てられています。
旧志賀町では、「忠魂碑」は、木戸の共同墓地に一つ、和邇中の天皇神社に一つあります。国民学校前に横長の形をした「忠魂碑」があったはずですが、まだ見つけていません。
「戦没者慰霊碑」の類は、北小松に「戦没者慰霊碑」と南小松に「慰霊塔」があります。
新たに紹介するのは、北比良の共同墓地に隣接しておかれている「戦没者慰霊碑」です。
背面には、建立年月が刻まれています。「昭和51年3月」。西暦では、1976年のことですね。
鍛え抜かれた木肌 ― 2009/10/24

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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