お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
高島村の日露戦争戦病死者が1名抜けている理由 ― 2010/12/20
高島郡高島村の『戦時事績』と『高島郡誌』は、戦病死者が一致していません。編まれた順番からいえば、『戦時事績』が先で、あとで『高島郡誌』が世に出ます。前者は一般に閲覧するようにはなっていなかったでしょうから、不一致点があっても、問題になることはなかったでしょう。
では、どう違っているのか。
『高島郡誌』では、高島村では、以下の4名が日露戦争で戦病死(戦死3名、戦病死1名)したことになっています。また、これら4名の墓碑は、やつしろさんによって、存在が確認されています。
『高島郡高島村 戦時事績』では、戦死が3名病死が2名ということになっています。『高島郡誌』に掲載されていない病死者は、だれか?
大塚久左衛門です。
日露戦争の過程との関係ですが、戦争は、明治37(1904)年2月8日に、旅順港への日本の駆逐艦の奇襲攻撃によって、始まります。陸戦では、6月6日に、大連に乃木の第三軍が上陸します。八田や西の所属する陸軍歩兵後備第九聯隊はここに配属されていました。旅順の総攻撃は、8月19日。1万5,000の死傷者を出して失敗に終わります。八田金蔵と西歳徳は、この攻撃のなかで戦死します。旅順を攻略した第三軍は、第一、第二、第四軍と合流します。明治38(1905)年2月21日から3月9日まで奉天の戦い。西川元治郎が戦死。 これらの結果をうけて、アメリカ政府の仲介で、日本とロシアの平和交渉が明治38(1905)年8月10日からポーツマスで始まり、9月5日に条約締結となります。
大塚久左衛門は、輜重兵第22補助隊に所属した補充兵でした。明治38(1905)年9月26日に召集され、除隊。10月1日に自宅で亡くなります。
短い記事からは、召集されたのが9月26日なのか、除隊したのが9月26日なのかよくわかりません。いずれにしても、ポーツマス条約以降に除隊し、帰宅してまもなく病死したことがわかります。
高島村では、明治38年4月22日に、大塚と西の葬儀、翌日23日に八田の葬儀、5月14日には西川の葬儀を済ませます。遺骨が到着したことを受けてのことだったんでしょう。
大塚の場合は、病死した2日後の10月3日に葬儀が行われました。『高島郡誌』は、こういう死に方を日露戦争の戦病死とは認めなかったのでしょう。
では、どう違っているのか。
『高島郡誌』では、高島村では、以下の4名が日露戦争で戦病死(戦死3名、戦病死1名)したことになっています。また、これら4名の墓碑は、やつしろさんによって、存在が確認されています。
●大塚 徳松 高島村大字鹿ヶ瀬『戦時事績』では、これら4名について、もう少し詳しく知ることができました。たとえば、大塚徳松は、後備歩兵第九聯隊所属の伍長であったこと。西歳徳は、後備役の一等卒で、盤龍山東砲台で戦死したこと。八田金蔵は、上等兵。歩兵第九聯隊の予備役で、東鶏冠山北砲台で戦死したこと。西川元治郎は、八田と同じ歩兵第九聯隊の予備役だったこと、などです。
明治37年10月15日 大坂予備病院
●八田 金蔵 高島村大字高島
明治37年8月22日 旅順
●西川 元治郎 高島村大字高島
明治38年3月7日 小貴興堡
●西 歳徳 高島村大字鹿ヶ瀬
明治37年8月22日 東鶏冠山北砲台
『高島郡高島村 戦時事績』では、戦死が3名病死が2名ということになっています。『高島郡誌』に掲載されていない病死者は、だれか?
大塚久左衛門です。
日露戦争の過程との関係ですが、戦争は、明治37(1904)年2月8日に、旅順港への日本の駆逐艦の奇襲攻撃によって、始まります。陸戦では、6月6日に、大連に乃木の第三軍が上陸します。八田や西の所属する陸軍歩兵後備第九聯隊はここに配属されていました。旅順の総攻撃は、8月19日。1万5,000の死傷者を出して失敗に終わります。八田金蔵と西歳徳は、この攻撃のなかで戦死します。旅順を攻略した第三軍は、第一、第二、第四軍と合流します。明治38(1905)年2月21日から3月9日まで奉天の戦い。西川元治郎が戦死。 これらの結果をうけて、アメリカ政府の仲介で、日本とロシアの平和交渉が明治38(1905)年8月10日からポーツマスで始まり、9月5日に条約締結となります。
大塚久左衛門は、輜重兵第22補助隊に所属した補充兵でした。明治38(1905)年9月26日に召集され、除隊。10月1日に自宅で亡くなります。
短い記事からは、召集されたのが9月26日なのか、除隊したのが9月26日なのかよくわかりません。いずれにしても、ポーツマス条約以降に除隊し、帰宅してまもなく病死したことがわかります。
高島村では、明治38年4月22日に、大塚と西の葬儀、翌日23日に八田の葬儀、5月14日には西川の葬儀を済ませます。遺骨が到着したことを受けてのことだったんでしょう。
大塚の場合は、病死した2日後の10月3日に葬儀が行われました。『高島郡誌』は、こういう死に方を日露戦争の戦病死とは認めなかったのでしょう。
コメント
_ やつしろ ― 2010年12月21日 01時42分36秒
_ BIN★→やつしろさん ― 2010年12月21日 09時27分57秒
墓碑があったんですね。
明治38年に亡くなられた大塚久左衛門の墓碑にまちがいないと思われますけれど、なぜ、昭和19年なんでしょうか。それまでは、建てられなかったのか、それとも、建て直されたのでしょうか。
明治38年に亡くなられた大塚久左衛門の墓碑にまちがいないと思われますけれど、なぜ、昭和19年なんでしょうか。それまでは、建てられなかったのか、それとも、建て直されたのでしょうか。
_ やつしろ ― 2010年12月21日 10時13分30秒
大塚久左衛門さんの場合、除隊されてから亡くなったのですから、一般と同じ。
土葬にされ、木の墓標が建ち、それが腐ってしまうと、又元の墓地に還ってしまったのでしょう。
その頃、黒谷墓地は、戦没者以外の石碑は認められなかったのです。
それから、40年後、戦争が激しくなり、昭和19年、戦意を鼓舞するため、日露戦争の戦士の石碑を建てることを、「お上」が認めたのでしょう。
それも、碑ではなく、墓として・・・。
土葬にされ、木の墓標が建ち、それが腐ってしまうと、又元の墓地に還ってしまったのでしょう。
その頃、黒谷墓地は、戦没者以外の石碑は認められなかったのです。
それから、40年後、戦争が激しくなり、昭和19年、戦意を鼓舞するため、日露戦争の戦士の石碑を建てることを、「お上」が認めたのでしょう。
それも、碑ではなく、墓として・・・。
_ BIN★→やつしろさん ― 2010年12月21日 11時47分44秒
なるほど。
この記事を書く前は、9月26日の除隊という日付を意識していませんでした。書きながら、戦争は終わっているじゃないかと気がついたのです。
それにしても、除隊して帰宅後、すぐ亡くなるというのは不自然な気がしました。でも、これ以上追及する手立てもないし、そこまで立ち入ることはやりすぎですから。
この記事を書く前は、9月26日の除隊という日付を意識していませんでした。書きながら、戦争は終わっているじゃないかと気がついたのです。
それにしても、除隊して帰宅後、すぐ亡くなるというのは不自然な気がしました。でも、これ以上追及する手立てもないし、そこまで立ち入ることはやりすぎですから。
_ やつしろ ― 2011年06月24日 10時28分03秒
明日(6月25日)、旧高島村のお寺にお話に行きます。大塚徳松、西歳徳、大塚久左衛門が所属したお寺です。西歳徳はこのお寺の住職であったそうで、境内にはそれはそれは立派な碑(歳徳碑)が建っています。白い花崗岩ではなく、緑っぽい水成岩に彫られています。本人は一等卒ですが、当時の最高峰、大谷喜久蔵中将の書です。大谷は明治42年8月から大正5年まで中将でしたのでその頃建てられたのでしょう。西と同じ日(8月22日)に戦死した八田金蔵は別のお寺所属ですので、一日後にお葬式(村葬)が行われたのです。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
「輜重兵一等兵勲八等 大塚久左衛門之墓」です。
但し、「昭和十九年之建」です。