お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「木戸公神道碑」 その12011/09/07

「木戸公神道碑」
 京都霊山墓地で「神道碑」という碑に、はじめて出会った。
 神道碑とは、墓所の墓道に建てる頌徳碑のことである。勅令で、以下の8つの碑が建てられた。
○毛利公神道碑(毛利敬親) 明治29年
○木戸公神道碑(木戸孝允) 明治39年
○大久保公神道碑(大久保利通) 明治43年
○三条公神道碑(三条実美) 大正14年
○大原公神道碑(大原重徳) 大正14年
○広沢公神道碑(広沢真臣) 大正14年
○島津公神道碑(島津久光) 大正15年
○岩倉公神道碑(岩倉具視) 大正15年

「木戸公神道碑」 とその周辺2011/09/07

「木戸公神道碑」
 明治天皇の勅命でつくられた神道碑。木戸孝允のそれは二番目のものである。
 周囲に夏草が生え、荒れた感じがある。その廃墟のなかで、屹立する神道碑は、異様さと威厳の両方を感じさせる。
 この「木戸公神道碑」と斜面の頂上あたりにある木戸自身と妻の墓碑は、他の画一的に造られた小さな勤王の志士たちの墓碑群を圧倒している。そのことに、強い印象を受けた。

木戸孝允の墓碑2011/09/07

木戸孝允の墓碑
 霊山墓地で現在一番有名な墓碑が坂本竜馬の墓碑であったとしても、主役は違う。この墓地の主役は、木戸孝允である。
 墓地のには、坂本竜馬、高杉晋作、大村益次郎などの維新の英傑の名前が彫られた石碑は存在する。しかし、それらは、すべて小さく細く、画一的であり、木戸のそれに比べれば、墓碑というよりは(失礼な言い方で申し訳ないが)道場の壁に張られた名札のようにさえ感じる。

坂本龍馬の墓碑とその周囲2011/09/08

坂本龍馬の墓碑の周囲
 霊山墓地の一番人気は、まちがいなく坂本龍馬(竜馬)の墓碑である。私が訪問したのは平日である。それでも、この墓碑をめあてに、多くの若い世代が訪れている。
 坂本龍馬(左)と中岡慎太郎(右)の墓碑は、あまりに小さく、細くたよりなげである。その大きさは、周囲の墓碑よりも、小さく感じる。ただ、墓碑は桂小五郎が揮毫している。
 この墓碑に手をあわせる若い女性が絶えない。しかし、他の墓碑に興味を覚えることができない様子である。一通り回って立ち去るカップルやグループと何度もすれ違う。

No easy walk to freedom2011/09/08

 市長選挙をめぐって、記者の取材を受ける。その日に記者の書いた記事を見ていなかったことに気づく。内容は会話のなかで確認できたのでよかったが、失礼なことをしたと思う。
 それで終了後に、記者の記事を取り出して読む。視線の先にとまった別の市の記事が気になる。それは草津市長選挙の記事。「36年ぶりとなる30人が立候補し、3分の1近い9人が新人」とある。「固い地盤を持たずに支持を訴える都市型選挙の様相」とある。それは一般的な傾向にあるのだと思う。
 興味深かったのは、今年4月のいっせい地方選挙での投票率の部分。「草津市の投票率は42.93%に対して、20代はほぼ半分の21.93%」にとどまったこと。やはり、「政治」は遠いのだ。
 草津市議選では、若い候補者も出ていて、「若者が政治に参画するチャンスを」と訴えているという。しかし、その訴えは、若者自身にアピールするというよりは、投票率から考えると、上の世代のほうに効果が大きい気がする。もちろん、そんな現状でいいとは思えない。
 大津市議会に当選した20代~30代の市議会議員は、超党派で、若い世代の政治参加を促す施策を議論しているときく。
 いま矛盾の焦点のひとつが若い世代の雇用にあることは確かである。だが、私は、投票率の報道を見て考え込んでしまう。
 一般市民は6割近く選挙にいかない。若者は8割が行かない。苦しみの活路は、どこにあるのか。それを政治に見いだせないとすれば、なにに見いだせばいいのだろうか・・・。一般参政権への遠い道のりと犠牲が報われるためには、なにが必要なのだろうか。

原発NO!!の文字に2011/09/08

 パレードの音を聞いて、若者や売り子達が飛び出し、昼休みを繁華街ですごす労働者から飛び入りの参加がある---そんな光景は見たことがない。商店街は空き店舗が目立ち、客足はなく、市役所は住宅街とは無縁の場所にある。大工場は閉鎖や移転し、まったく中心がどこかわかない街となっている。
 比較的繁盛してそうなショッピングセンターを起点に、原発なくせの声をあげながら進むパレード。めざす先は、電力会社。その横を車がせわしく走り抜けていく。

昔の人は言う。
お天道様がみていると。
だから、悪い行いはできないし、
良い行いはきっと報われるはずである。

青空は澄み、お天道様からの
ビューは最高。

恋も革命(維新)もつらぬいた木戸松子(幾松)の墓碑2011/09/08

木戸松子(幾松)の墓碑@霊山墓地
 京都の「霊山墓地」の続きである。
 幕末から維新にかけての時代は、華やいで見える。登場人物が若く、また女性との恋にも事欠かない。とくに、坂本龍馬とお龍、木戸孝允と幾松などはそうである。「革命か、恋か」ではなく、「革命も、恋も」という時代である。
 木戸の墓碑の隣に、木戸松子(幾松)の墓碑が置かれている。木戸の生涯の危機をなんどもいっしょに乗り越えてきた松子に最もふさわしい場所といえる。
 幾松(松子)が桂小五郎(木戸孝允)に出会ったのは、まだ18歳か19歳の頃である。10歳の違いだから、木戸は28歳か29歳之頃である。
 恋いも革命も実り、木戸が参議になったとき、二人は正式に婚姻をはたす。身分差をこえた、日本ではじめての正式婚姻だという。

 墓碑銘は「贈正二位木戸孝允妻岡部氏松子墓」である。じっと目をこらしていて、窮屈な印象をぬぐえなかった。「松子」にたどり着くまでには、官位があり、夫の名前があり、養子家の氏名がある。それは、木戸孝允も同じである。こういうものを目にすると興ざめしてくる。
 坂本龍馬の碑文は、木戸孝允が揮毫したと聞く。碑文には、位もなにもない。ただの坂本龍馬である。少しあとの時代になると「陸軍歩兵一等卒」などという階級名がつけられていく。私は俗世のしがらみを墓碑銘にまで背負わせることはないと思う。幾松が命を賭けて守ったのは、ただの小五郎ではないのか。

立ち並ぶ志士の墓碑@霊山墓地2011/09/08

立ち並ぶ志士の墓碑@霊山墓地
 「霊山墓地」に並ぶ維新の志士たちのか細い墓碑。
「戒名」・「法名」もなければ(ここは神社だから、ないのは当然)、
階級名もない。名前だけが並んでいる。
なかには苗字のない墓碑もある。
平民出身なのだろう。

よく観察すると、「墓」と刻まれているとは限らないのだ。
あるものは、「招魂碑」、
あるものは「」。

compliance2011/09/09

第三者委員会の中間報告が出た。

九州電力の「やらせメール」。
賛成意見286通中141通に及ぶ。
世論をねつ造し、調査を妨害する。

今回の危機をつくった東京電力。
津波による全電力喪失の危険の指摘を
無視し続けて、チェルノヴイリを
超える事故を引き起こした。

complianceをカタカナになおして、
コンプライアンス。
後者が日本語として流通している。
法令や規則を守ること。

経済界の要をなす団体に
それが突きつけられている。

どこかおかしい社会ではないのか。

「藩」という帰属意識2011/09/09

長州という文字が並ぶ
 引き続き「霊山墓地」
 志士の墓碑を正面から撮影したときは、一人ひとりの志士の名前しか見えず、それぞれの運命が気になっていた。側面から見ると別の属性が見えてくる。上の写真の箇所では、「長州」という文字がずらりと刻まれている。
 たしかに、霊山墓地の基礎をつくったのが長州の木戸孝允である。また長州が明治維新の中心的役割を演じた藩であった。
 また、そこは、「山口藩招魂社」の横手でもある。

 墓地の案内には、名前だけが書かれている。藩についての言及はないが、この墓地が築かれ、墓碑が建設された時点においてすら、「藩」がもつ意味は軽くなかったのだ。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)