お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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杉浦日向子 『合葬』(ちくま文庫)2008/06/01

杉浦日向子 『合葬』(ちくま文庫)
 杉浦日向子さんのマンガには、切なさがにじむような江戸物があると同時に、より痛切な憤りを感じるようなものがありますね。
 彰義隊を扱った『合葬』は、その最たるものです。
 ご本人は、静かな口調でつぎのように書いています。そして、それがすべてを物語るように思います。
 江戸の風俗万般が葬り去られる瞬間の情景が少しでも画面にあらわれていたら、どんなに良いだろうと思います。

 文庫の表紙は、タイトルにあわせるように黒を基調としています。
 読み終わったとき、10代の若者たちの運命を思い、ため息がもれてきます。「江戸=旧弊もしくは封建的遺物、明治=文明開化」という維新政府の図式とは、まったく別の歴史観がここにあります。

家永三郎『日本文化史』第二版(岩波新書)2008/05/30

 故家永三郎さんにどこかで会ったような気がしている。なぜかわからないけれど。それだけ、多く映像でお目にかかったからかも知れない。なによりも、教科書裁判の原告として。
 ずいぶん前に、第一版を読んだことがある。
 そのときは感じなかった違和感が今読むとある。
 その理由は、あまりに見通しのよすぎる論理構成、有無を言わさぬ断定調にあるように思える。そんなに割り切っていいのかと思うのである。

「伝統社会」というキーワード2008/05/30

 杉浦日向子の作品(『百日紅』・『二つ枕』・『どんでもねえ野郎』など)を楽しみながら、いつのまにか江戸人への愛情を共有することになります。しかし、現実には、江戸人はもはや存在しません。どうして、江戸人はいなくなっていったのかと思う先に、別の系列の作品が登場します。それは、明治初期を描いた作品(『東のエデン』)。これらのなかには、作者の惜別の思いを感じるのです。

 杉浦作品のひとつひとつを読み終わるとき、井上勝生『幕末・維新』(岩波新書 シリーズ日本近現代史①)を読んだときの意外な気持ちを思い出すのです。

 1980年代頃から、日本でも江戸時代後期の見方が新しく変わってきた。かつて日本は、欧米の文明に対して、半未開と位置づけられ、日本の側でも、維新政府以後は、そうした評価をすすんで受け容れてきたのであったが、それから、ようやく解き放たれたのである。
 とくに民衆史の研究で、伝統社会が新しく解明されている。・・・江戸期の民衆の訴訟を願いでる活動は、私たちの想像よりはるかに活発だった。・・・江戸時代、幕府や藩の支配には、成熟した柔軟な仕組みがあった。
 欧米列強の圧力があったのは事実だが、それに対抗してではなく、逆にそれを追い風として、明治政府の外交政策が東アジアの隣国に対する侵略へと向かう道筋、そして、日本民衆が伝統社会に依拠して、新政府に対して激しい戦いを展開した事実を中心として、江華島事件の新史料などの近年の成果を紹介しつつ、維新史をあらたに描きなおしたいと思う。
 ここで「伝統社会」という言葉でいわれているものの一端を、杉浦日向子の作品のなかで見たように思うのです。

 それは、内村鑑三『代表的日本人』のなかで、「わが国民の持つ多くに美点」といっていることと重なる気もします。
 青年期に抱いていた、わが国に対する愛着はまったくさめているものの、わが国民の持つ多くの美点に、私は目を閉ざしていることはできません。日本が、今もなお「わが祈り、わが望み、わが力を惜しみなく」注ぐ、唯一の国土であることには変わりありません。わが国民の持つ長所‐‐私どもにありがちな無批判な忠誠心や血なまぐさい愛国心とは別のもの‐‐を外の世界に知らせる一助となることが、おそらく外国語による私の最後の書物となる本書の目的であります。

 私は、気ままに本を読んでいるのですが、気がつけば、似たようなラインの本を追い続けてきたような気もします。

一坂太郎『長州奇兵隊 勝者のなかの敗者たち』(中公新書2002年)2008/04/09

 ブックオフで見つけた一冊。  最近、戊辰戦争前後から日露戦争にかけての入門書を買っては、読んでいます。私が探しているのは、社会経済史的で平板な叙述ではなく、より多角的であり、より庶民の立場にたった叙述がなされている本です。政治史でも、権力に近い人たち中心のものではなく、歴史に埋れていった人たちに光を当てたものに惹かれます。
 この本は、そういうひとつ。
 サブタイトルにあるように「勝者のなかの敗者」を取り上げている点も興味深いものがあります。
 《はじめに》にはつぎのように書かれています。

 昨今の流行は「明るく」「楽しい」幕末維新の歴史。それを学んで「元気」になり「誇り」をもちましょうというのは、ちょっと虫がよすぎるのではないでしょうか。歴史に学ぶ、と言いながら、単に創られたロマンに酔っているだけのような気がする。そこで、私はあえて「暗く」「悲しい」幕末維新を語りたい。
 時代が大きく変動するとき、避けられなかった宿命は、たとえ「勝者」であっても気分が滅入りそうなほど悲惨な歴史。しかし激痛に耐え、乗り越えたからこそこんにちがある。そのことこそが本当の「誇り」であり、「元気」を呼び覚ます歴史になってほしいと思っております。何かにつけて「改革」「変革」という言葉が多用、乱用される昨今ならなおさらです。

 叙述の方法も独特です。
 なお、こうした歴史の本には不似合いかもしれませんが、あえて談話調で書きたいと思います。私がここに書きとめたいのは、生活の中で語り継がれ、放っておくと風化しそうな幕末維新史です。その中に、何らかの「真実」を見たいのです。公的な記録を並べたり、史料をひとつずつ検証していく作業が主ではありません。語り継がれてきたものならば、談話調のほうが書きやすいし、伝わりやすいと考えました。

 ここに書かれているように、これまで読んだことのないような歴史を発見できる本でした。

檜山幸夫『日清戦争 秘蔵写真が明かす真実』(講談社 1997)2008/04/07

檜山幸夫『日清戦争 秘蔵写真が明かす真実』
 先日図書館で借りた1冊。
 日清戦争を描くという意図は別にすれば、「秘蔵写真が明かす真実」というサブタイトルの出発点は、写真の発見にあります。
 1995年に鎌倉の路上でアルバムが発見されました。そこの含まれていた写真は、オリジナルプリントであり、資料的にきわめて価値が高いと鑑定されました。
 私は、この本ではじめて、日清戦争の清国俘虜の姿や兵站病院の姿を見ることができました。

●大津市と日清戦争

 このブログで紹介してるとおり、大津市には、1877年から旧大津陸軍墓地(当初は第四鎮台第九連隊の大津営所附埋葬地)があり、そのなかに日清戦争に出征した将校、下士官、兵卒の墓碑が200基以上存在します。
 そのすべてが戦死ではなく、病死です。
 旧真田山陸軍墓地では、はっきり病死した病院名(たとえば「海城舎営病院」とか)が刻まれていますが、旧大津陸軍墓地の墓碑には、地名しかありません。
 日清戦争の記念碑は、大津市で私の知る限り、藤尾学区の蝉丸神社に1基あります。

歴史の小さなピースを集めて2008/02/19

国道から見える「旧逢坂山ずい道東口」の看板
テレビ番組の「熱中時間」を久しぶりに見ました。
古い時代のマンホールに熱中されている方の
姿が映っていました。他人には、「だからなに?」
という世界なのでしょうけれど、その姿は、
とてもユーモラスでもあり、魅力的でもありました。

一緒に見ていた息子のK君が
「お父さんと同じ」といって笑っています。

たぶん、去年の夏から熱中している旧陸軍墓地
戦争の遺跡探しのことを言っているのだと思いました。
K君が、どういう意味をこめて言っているのかは、
別にして、私には、うれしく思いました。

熱中できるものがある人生ほど、すてきなものは
ないと思うからです。

熱中という尊敬できる側面と、他人にとっては
「だからなに?」という側面が結びついている
ことがとても個性的であり、人間的なのです。

私も、このブログで、訪問していただく人の都合など
お構いなしに、熱中して記事をかくことがたびたび
ありますが、それでいいのか、悪いのか?
いずれにしても、書かずにはいられないことを
書くのが私にとって、ブログの意味かも知れません。

「歴史の小さなピースを集めて」というタイトルは、
私のブログでの楽しみをあらわしています。

私は、旧大津陸軍墓地の墓碑をいくつかを
このブログで掲載しています。
それを見ていただいた方から、葬られている方の
貴重な情報が寄せられました。中国の方の墓碑
でしたが、なぜ、旧大津陸軍墓地に葬られている
のか、出身地や没年月日まで知ることができました。
ほぼ同時に、「旧逢坂山ずい道」の写真を見て
いただいて方から、このトンネルの由来などを
教えていただきました。

この二つは、すぐには、結びつきませんでした。

墓碑に眠る人たちは俘虜として大津市に連れて
こられましたが、降りた駅が「馬場駅」でした。
なぜ、収容所に近い大津駅じゃないのかと
思っていましたら、1894年の時点では、
大津駅とは現在の京阪浜大津駅のことであり、
収容所にもっとも近いのは「馬場駅」つまり、
現在の膳所駅でした。
しかも、東海道線は、現在のルートではなく、
京都から伏見にむかい、そこからはるか南を
迂回して、トンネルをこえて大津市に入って
いたのです。

そのトンネルこそ「旧逢坂山ずい道」でした。

二人の方の情報がなければ、旧大津陸軍墓地
眠る中国人俘虜の足取りをリアルにたどること
ができなかったでしょうし、旧逢坂山ずい道
いろんな感慨をもって見ることができなかった
と思うのです。

ごく些細なことであり、「だからなに?」の世界
ですが、私には、ブログに感謝する十分な理由
なのです。

ちなみに上の写真は、旧逢坂山トンネル=旧逢坂山ずい道東口

米原万里 『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)2008/02/12

米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』
 故米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(2001年)をはじめて読みきりました。
 BS放送で、それとは知らないで、この著者のプラハの友人たち訪問のドキュメントを見ていたことがあり、それ以来の出会いです。

 感想がとてもまとまりそうにありません。
 それは内容がひどいとかいうのではなく、胸にせまることが多いからです。

 ユーゴスラビアとソ連の対立、中ソ論争、部分核停条約をめぐる対立、そしてソ連と東欧の社会主義諸国の崩壊と内戦。これらすべてが1960年代にチェコスロヴァキアのプラハで暮らす子どもたち(国際情報誌『平和と社会主義の諸問題』編集局に集まった各国共産党党幹部の子どもたち=米原万里もその一人)の運命に大きな影響を及ぼしていくのです。  民族を超えて生まれる10代前半の友情やそれに影を落とす国と国との対立、国内やそれぞれの家庭の事情・・・30年のときを隔てての再会、そのドラマがスケールの大きさを生んでいます。
 米原万里の筆のさえももちろんです。

 生きておられるときに、感想を送れなくて残念です。

亀山郁夫『悲劇のロシア ドストエフスキーからショスタコーヴィチへ』を一気読みしました2008/02/11

 私が、はじめて亀山郁夫さんの名を知ったのは、『ロシア・アヴァンギャルドの世界』(岩波新書)でした。

 この本には、衝撃をうけました。

 以前にも書いたのですが、私は、大阪外国語大学ロシア語科(いまは大阪大学に統合されましたが)に学びました。1970年代のことです。
 当時は、このような研究がありえるとは思っていませんでした。また、私自身、1920年代から30年代のロシア文化についての関心も薄かったと思います。
 小さな岩波新書を読んで、ロシア・アヴァンギャルドについて、ほとんど知らなかったことが恥ずかしく、内容ともども衝撃を受けたのです。

 そうそう、亀山さんは、現在、『カラマーゾフの兄弟』の翻訳がベストセラーになっていますので、でよく知られていますね。

 写真の本は、この2月4日からはじまったNHKのTV講座「知るを楽しむ この人この世界」のテキストで、書店で手に入れることができます。
 午後8時からいままでかかりましたが、一気に読み通しました。

 この叙述は、亀山さんのドストエフスキーやロシア・アヴァンギャルドと個人的なかかわり、つまり自分の内面史を重ねて書かれています。それで、「やっぱり」とか、「なるほど」とか思ったのです。

 私も大学に入ったときは、ドストエフスキーを研究するのだといきまいていました。しかし、途中から、ロシア近代史に変わりました。
 その理由は、対象に飲み込まれて、とても手に負えないと思ったからです。心が奪われていることと研究対象にできることとは別なのです。
 私とはレベルがちがいますが、亀山さんにも、そういう体験があり、ドストエフスキーが本命であっても、ロシア・アヴァンギャルドを迂回することで、そこに迫ることができた・・・私はそう読みましたが・・・ことを書かれていました。

 それをよんで、なぜか、ほっとしたのです。

   私は、クラシック音楽をよく聴きます。ショスタコーヴィッチは、音楽としても、ロシアの文化としても、重なりあうものです。そういえば、昨日、交響曲第四番の放送がありましたね。

 亀山郁夫さんは、自分の道を貫いて、大きな成果を挙げられています。
 私は、仕事からいくと、ほとんどロシア語とかけはなられたところにいます。それでも、このような本を読むと、初心を思いおこします。
 さっきネコのことを書きましたね。ついでに、少しロシア語を使いました。 勉強しなおしたい・・・そんな願望からでした。

 さて、今年は、年初から忙殺されて、なにをするか考える余裕がありませんでした。

 どこかでロシア語を集中的に学びなおすか、ピアノをするか・・・カミさんに言うと、笑われておしまいなので、とても口にできませんね。

岡義武 『山県有朋 -明治日本の象徴-』(1958年)2008/02/09

岡義武『山県有朋』
 岡義武『山県有朋 -明治日本の象徴-』(岩波新書)は、1958年に初版ができて、2007年に第26刷が出ました。
私は、昨年に新しく買い換えたのです。

 さて、この本の扉には、つぎのように書かれています。

『幕末に尊攘派志士、日本陸軍の建設者・大御所として、また総理大臣・元老として政界に君臨した山県の姿こそ、戦前における天皇制的な「政治的人間」の一典型である。「閥族・官僚・軍国主義の権化」として憎まれ、怖れられたこの軍人政治家の生涯の照らし出す日本近代史の過程と構造は、現代政治の課題に今なお深くつながるものである。』

 これを読むだけで、うんざりきそうです。
 もっとも嫌いなタイプといえます。

この本の最後の章は、「九 晩年とその死」です。
 そこには、国葬であるにもかかわらず、きわめて淋しい葬式となったことをとらえて、つぎのように書かれています。

『彼は終始民衆から遊離していたところの存在であった。彼から見捨てられていた民衆は、それ故、また彼を見捨てていた。そして、彼の死に対しても冷ややかであり、無関心であったのである。』

旧日本陸軍のことを知りたいので、読破することにします。

田中彰 『高杉晋作と奇兵隊』(1985)2008/02/08

 旧大津陸軍墓地にかかわりはじめてから、歴史への見方や興味がかわりました。歴史書に名前を残すことがない人たちの動きのなかに、分け入ることができるようになったのです。

 この田中彰『高杉晋作と奇兵隊』(岩波新書)を読む気になったのは、「序 奇兵隊にとって明治維新とはなにか」という部分をひろいよみしたときです。

 「歴史を根底で支え、歴史の進歩を基底において担うのは民衆にほかならないが、明治維新におけるその民衆の役割を、もっとも具体的かつヴィヴィッドに奇兵隊は示してくれている。しかし、現実の民衆が自己撞着にみちみちているように、奇兵隊もまた自己矛盾を内包した存在であることは、以下本文にみるとおりである。
 そして、そのいきつくところ、諸隊反乱によって奇兵隊は解体する。つまり、明治維新のなかで生まれた新しい軍事力としての奇兵隊は、そこに創出された近代天皇制権力によって消し去られてしまうのである。この事実が示す歴史的意味はあまりにも重い。
 この重い歴史的事実を明らかにし、民衆の側から照射することは、十九世紀後半の世界史において、アジアの後進国としての日本における、明治維新の意味を内側からあらためて問うことになるであろう。」


 《幕末と倒幕で華々しく活躍した奇兵隊はどこへ消えたのか?》・・・そう私は思っていました。
 結局、奇兵隊のうち農民に近く、折からの農民一揆に共鳴していく部分は切り捨てられ、新権力へ従うものは「精選」され再編されました。そして、前者は反乱をおこし、壊滅させられていくのです。

   奇兵隊と私の住む大津とのつながりは?

 それを陸軍墓地に見出すことができます。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)