お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
いいところだと思いました、清川村@大分県 ― 2008/09/03
清川村はまだ存在しているんだと
「道の駅」のパネルを見て思いました。
クリックして、読んでみてください。
時間が許せば、すぐに樹、橋を
見にいきたかったのですけれど。
村に誇りを感じる内容ですね。
いいなぁ・・・。
でも実際には、大分県には清川村はなくなりました。
あの「平成の大合併」により、
三重町・緒方町・朝地町・大野町・千歳村・犬飼町と
合併して豊後大野市清川町に。
「一村一品」運動は、平松知事が発案者でしたね。
モモのジュースをこの「道の駅」ではいただきました。
わが郷里・滋賀県でもこの合併で、
50あった市町村が
13市5郡13町となりました。
合併の残した傷跡は、私が最近
よくかかわっている高島市でも顕著です。
いつかそのことを書いてみたい・・・。
「道の駅」のパネルを見て思いました。
クリックして、読んでみてください。
時間が許せば、すぐに樹、橋を
見にいきたかったのですけれど。
村に誇りを感じる内容ですね。
いいなぁ・・・。
でも実際には、大分県には清川村はなくなりました。
あの「平成の大合併」により、
三重町・緒方町・朝地町・大野町・千歳村・犬飼町と
合併して豊後大野市清川町に。
「一村一品」運動は、平松知事が発案者でしたね。
モモのジュースをこの「道の駅」ではいただきました。
わが郷里・滋賀県でもこの合併で、
50あった市町村が
13市5郡13町となりました。
合併の残した傷跡は、私が最近
よくかかわっている高島市でも顕著です。
いつかそのことを書いてみたい・・・。
「黄金柱」@秋芳洞 ― 2008/08/23
どす黒く汚れた色が鍾乳石の元の色なのか!? ― 2008/08/23
溶け出す鍾乳石?@秋芳洞 ― 2008/08/23
鍾乳石@秋芳洞 ― 2008/08/23
リムストーンプール@秋芳洞 ― 2008/08/23
秋芳洞 広い内部空間 ― 2008/08/23
秋芳洞の入り口へ ― 2008/08/23
2007年3月に山口県の秋芳洞に行きました。
総延長は、8,790mとなる洞窟で、
鍾乳洞としては、東洋最大規模とか。
風連鍾乳洞のつづきとして、
このときのことを書いてみたいと思います。
当時のブログにはほとんど書いていなかったので。
私にとっては、修学旅行以来2度目となります。
秋芳洞に着いたのは、比較的早い朝のこと。
このため観光客はごくわずかでした。
駐車場を確保して、洞窟の入り口に
向かう小道を歩きました。
両側にはみやげ物などのお店が並んでいます。
まだ開いていない時間です。
入り口の手前に石碑(タイトルの写真)が見えます。
秋芳洞は、風連鍾乳洞とちがい開放型(?)
川がそのなかに流れています。
そのために、内部に入るには、
橋を越えていく必要があるようですね。
修学旅行のときもあったのかどうか、
思い出すことができません。
橋は真新しく感じました。
そして、いよいよ地中への入り口に到達します。
やはり、ワクワク感がありました。
総延長は、8,790mとなる洞窟で、
鍾乳洞としては、東洋最大規模とか。
風連鍾乳洞のつづきとして、
このときのことを書いてみたいと思います。
当時のブログにはほとんど書いていなかったので。
私にとっては、修学旅行以来2度目となります。
秋芳洞に着いたのは、比較的早い朝のこと。
このため観光客はごくわずかでした。
駐車場を確保して、洞窟の入り口に
向かう小道を歩きました。
両側にはみやげ物などのお店が並んでいます。
まだ開いていない時間です。
入り口の手前に石碑(タイトルの写真)が見えます。
秋芳洞は、風連鍾乳洞とちがい開放型(?)
川がそのなかに流れています。
そのために、内部に入るには、
橋を越えていく必要があるようですね。
修学旅行のときもあったのかどうか、
思い出すことができません。
橋は真新しく感じました。
そして、いよいよ地中への入り口に到達します。
やはり、ワクワク感がありました。
龍宮城@風連鍾乳洞 ― 2008/08/21
鍾乳石と石筍がつくる景観@風連鍾乳洞 ― 2008/08/21
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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