お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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パンプキン爆弾(模擬原子爆弾)のレプリカ2009/08/28

パンプキン爆弾(模擬原子爆弾)のレプリカ
 一日おきに事務所に泊まり込みで、疲れがたまります。30日までは仕方がない事態です。午前1時に、一休みしようと、明るい電気をつけたまま、ベットに転がったら、午前6時前に、ドアがノックされました。
 それで起きて、さっそく9時近くまで仕事をしました。電話がかかるし、朝食がなかなかとれません。人が集まってきたので、「どうぞ、朝食にいってください」と言ってもらえました。
 それで、事務所から一歩外へ。でも食事はおあずけにしました。
 私には、朝飯を抜いてまで行きたい場所があったのです。8月30日まで、大津市の歴史博物館でやっている戦争展です。
 行けるチャンスがないまま今朝までズルズル・・・。
 電話して「開場が9時」と聞いて、車を飛ばしました。 入場したら、目の前にあったのが、パンプキン爆弾のレプリカでした。全部で40数発投下されたうちの一つが、大津に落ちたのです。
 忙しくて、カメラをもって行かなかったので、ケータイで撮りました。大きさがわからないだろうなぁと思っていたところに、見学に来た人が視野に入りました。撮らせていただいてありがとうございました。おかげで大きさがわかりますね。
 わずか15分間でしたが、貴重な時を過ごしました。

「陸軍歩兵二等卒」2009/07/24

「陸軍歩兵二等卒」
キレイな墓碑なので、新しいものかと思いました。
しかし、側面の碑文はほとんど読み取ることが
できません。

それで改めて正面を見れば、
「故陸軍歩兵二等卒」と刻まれています。

日本陸軍の階級名を改めて調べてみると、
当初は、「陸軍歩兵一等卒」のように、
歩兵という兵科をつけていたそうです。

のちに、兵科をなくし、
たんに「一等卒」と呼ばれる
ようになったとか。
(それでも、墓碑には兵科がついています)

昭和6(1931)年11月10日に、
勅令第271号をうけて、
「卒」をやめて、「兵」になったそうです。

となると、上の墓碑は、少なくとも、
1931年以前のものということになります。

ボランティア・カフェにて 高齢者さんたちといくさ話2009/07/04

大津市歴史博物館で「戦争と市民」展(ポスター)
事務所の近くに、ボランティアさんたちが
交代でやっているカフェがあります。なんでも一杯100円。

会議の合間の10分間に、飛び込みで
アイス・コーヒーを頼みました・・・猫舌なので。
「あ、忙しいんですね、はいはい」と
出てきたのは、ホットコーヒー。
仕方なく、腰を下ろして、飲むことにしました。

そこには、高齢者が3人ほど、談笑中。

私が入るなり、「女の人が来たかと思った」と
高齢者の女性が一言叫びました。
ボランティアさんと私が固まりそうになります。
どこから見ても、間違う余地がないのに・・・。

しかし、高齢者さんたちは、おかまいなしで
別の話題へ戻っていきます。
・・・どうも戦争にかかわる思い出話の様子。

男性の高齢者は、

「ウチには、中国の写真がいっぱい貼ったアルバムが
あったけど、燃やしてしまった。中国でひどいことをしたので、
家にあったら、まずいからといって。終戦後に・・・・。」

白髪の女性の高齢者は、

「ウチの人は、ぎりぎり助かった。頭がよかったんで、
飛行機乗りを志願したら、いっぱつで合格した。
練習しにいったら、地上におかれている木の飛行機。
それで、一ヶ月過ぎたら、終戦やったって」

興味を覚えた私が割って入りました。
それは、どこの飛行隊だったんですか?
「う~ん、なんやらいってたけど、忘れた。」
「いま、おいくつなんですか?」
もう一人の女性の高齢者がすかさず、
「あんた、女性に年きいたらだめよ~」
「あ、すみません」と謝ると、白髪の女性は、
「こう見えても、私昭和生まれ、ハハ」

「あんたは?」と男性の高齢者に話がふられた。
「わしは戦争はいっとらん。あとすこしの年やった。」

琵琶湖上はB29編隊の通過経路でした。
しかし、大津が爆撃されたのは2度。
そのうち、一箇所は東レ工場で、死者も出たはずでした。

大津の東レ工場に爆弾が落とされての知っていますか?

と質問してみました。すると、白髪の女性は、

「ああ、知っている。あの電器屋やっているOさんの
お父さん、あの人が怪我しはって・・・。」

と、Oさんの説明がしばらく続く。
「わしの家にも破片があった。ウチの父親は技師やったから。
 東レに努めていた。」
と男性の高齢者。
「工場では、魚雷つくっとったんや、だから爆撃された」
まさか、その近くにいた人たちとは思いもしませんでした。

時計を見ると、10分が過ぎていました。
お礼をいって、あわてて、その場を去りました。
「また、くるから、続きを話してください。」というと、
「ああ、そのころにはもう死んどるかもしれんで~」
と元気な声。

・・・・ところで
大津市の歴史博物館で、7月25日から、
「戦争と市民」展が開催される予定です。
事務所にむかう途中でポスターを見かけました。
(上の写真です)
今日の高齢者さんたちの話と重なる企画ですね。

仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』(角川文庫)2009/06/27

仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』(角川文庫)
わたしは、何度も、映画『ひめゆりの塔』を見ました。
しかも、白黒にはじまりカラーになっても。
公開されるごとに見て、TVで放映されれば
録画して見ました。

それでも、記念館で、「ひめゆり部隊」の
生き残りの方から、お話を聞いたときの
衝撃は、はるかに大きなものがありました。

そして、この本
『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』

記念館でのお話と重なります。
・・・お国のために尽くそうと純粋な思いで
看護し、そして軍から捨てられ、追い立てられる
・・・戦争の大義を疑うことなく綴られるからこそ
いっそう痛ましいのです。

これは忘れては絶対にだめ!
そう何度も思いました。

人の記憶は悲しいもので、
日々薄らぐことは避けられません。
それでも、これを読めば必ず残るものがあります。
核のような思い・・・・戦争は絶対にだめだって思いです。

いま政治家のなかで、とくに若い世代のなかで、
・・・安倍さん、石破さん、前原さん・・・という名前が
すぐに浮かびますが、平然と戦争をする国に変えようと
いう主張をされる人がいます。

この事実を見ないで言っているのでしょうか。
私には、とても信じることができません。

仲宗根政善さんは「あとがき」で書いています。

 沖縄基地に駐留する米第三海兵師団は、インド洋・ペルシャ湾での有事に即応するよう緊急展開部隊として出撃態勢をとっていて、演習は激化しつつある。
二十余万の生霊の静かに眠る土の上に、このような巨大な基地をそのままにしてよいだろうか。平和が、沖縄県民はもとより全国民の心である。
沖縄戦を忘れてはならない。戦争体験を風化させてはならない。

森村誠一『《悪魔の飽食》ノート』(1982)とNさんの話2009/06/24

森村誠一『《悪魔の飽食》ノート』(1982)
森村誠一の『悪魔の飽食』(『続・悪魔の飽食』)は、
捕虜をマルタとよび、悪魔の人体実験を繰り返していた
旧日本軍の細菌兵器部隊・七三一部隊を暴きました。

1981年7月から74回にわたり
「しんぶん赤旗」紙上に連載。
その後、単行本として出版され、
また文庫本としても読むことができます。

衝撃的な内容であるため高い評価をえましたが、
それゆえに、論争の的、攻撃の的ともなりました。
写真をめぐる不手際もありましたが、
核心の真実性は、揺るぎませんでした。

『《悪魔の飽食》ノート』(晩聲社)は、
上記のドキュメントをめぐる論文、対談などを
集めたものです。
私は、たまたまブックオフで見つけました。
そして、しばらく書棚においていたのです・・・。

今日の日記にNさんの戦争体験を書きました。
64年前の記憶で描かれる「103号哨戒艇」(USS Finch AM-9)

そのときに、Nさんは同年代の老人の話を
私にしてくれました。

たぶん、戦争のことを覚えているもんは
すくなくなってしもうたやろなぁ。
わしらの世代が最後かも知れん。


・・・そうですね、でもみなさん、
なかなか語ろうとされませんね。

そりゃそうやろ。口止めされていたこともあるが、
怖いんや。追求されないか、罪に問われんかと。


・・・・。

散髪屋であったヤツがいうとった。
「(中国にいったとき)なんでもやった。
女は犯したし、年寄りや子どもも殺した。
『そうせい!』と言われたんやけど・・・。
度胸をつけさせるためやろなぁ。
そうやなんと、とても人は殺せん。
・・・それにしても、(中国人は)よう返してくれた。
わしらを責めんと、よう無事に返してくれたなぁ。
そういって泣いとった。


私は、このことをずっと家に帰って考えていました。
そして同じ根の犯罪を描いた『悪魔の飽食』と
『《悪魔の飽食》ノート』を思い出したのです。

この本にも同じような気持ちが書かれています。

われわれが接触した元七三一隊員たちは、こと生体実験に及ぶと一様に口が重くなり、ほとんど語りたがらなかった。語ったとしても、懸命な説得により、ようやくその一端を漏らすだけであった。中には訪問して取材を告げるや、
「わかりました。いつかは罪科を問われると覚悟ばしちょいもした。一緒に警察へ行きまっしょ。刑事さんの居るごたる前で私が殺したマルタのこつ、全部白状します。」
と身を震わせて正座する隊員もいた。

64年前の記憶で描かれる「103号哨戒艇」(USS Finch AM-9)2009/06/24

Nさんが描いた「103哨戒艇」
つい先日、Nさんの戦争体験をきいた記事を載せました。
たとえば→6月2日の記事
Nさんは、私と出会う度に、想い出を語っていきます。

Nさんは、通信兵。二等兵曹。
「電測」が任務。今でいうと、ソナーで海底を探査する任務。

・・・どういう風に任務をしていたのですか?
机の前に、画面をおいてそれを見る任務

・・・画面?
テレビのようなもの。
最新式のもので、誰も使い方を知らへん。わしだけ。

・・・・いまでいうソナーですね。
そう、こっちからは電波を出さない。出すと見つかるから。
だから、相手が電波を出すのをじっと待つ。

・・・ひまですか?
まあ、じっと待つ任務。一年しか学んでないので、
詳しいことはわからん。

・・・乗船していたのは、「103号哨戒艇」でしたね。
そうそう。アメリカの船を改造したもの。


私は、ふと思い出して、「103号哨戒艇」の絵を
描いてもらうことにしたのです。
「103号哨戒艇」は、Nさんの言うとおり元はアメリカ哨戒艇。
撃沈したあと、日本軍の捕獲船となり、
改造されて、「103号哨戒艇」と名前を変えました。

ネットでは(今のところ)写真が見つかりませんでした。
描いてもらう値打ちはあるのです。

前方の甲板と後方の甲板に、それぞれ大砲1問。
その両側に2連装の機関銃があったそうです。
元の米艇の装備よりも強化されているようですね。

AM9については、下に、Wikipediaの記事を載せています。

USS Finch (AM-9) was a Lapwing-class minesweeper acquired by the U.S. Navy for the dangerous task of removing mines from minefields laid in the water to prevent ships from passing.

Finch was named for the finch.

Finch was launched 30 March 1918 by Standard Shipbuilding Co., New York; sponsored by Mrs. F. G. Peabody; and commissioned 10 September 1918, Lieutenant J. C. Lindberg in command.

North Atlantic operations

After training and operations with a submarine bell, Finch sailed from New York 9 August 1919 for Kirkwall, Orkney Islands, Scotland. Here she based for two months of duty removing the vast number of mines laid in the North Sea during World War I. Finch returned to Charleston on 29 November 1920, and on 3 January 1920 sailed for San Pedro, California, where from 1 March to 29 August she was in reduced commission.

Pacific Ocean operations

Modernized, she sailed from San Francisco on 20 August 1921 for duty with the Asiatic Fleet, and for the next 20 years, served in the Philippines in the winter and out of the China base at Chefoo in the summer. Her duties were varied, and included towing and salvage work, as well as participation in the Yangtze River Patrol. She joined in fleet exercises, and as war tension heightened, played a part in protecting American citizens and interests in the Far East.

World War II operations

In 1941, she began work in intensive development exercises with submarine and mine groups in the Philippines, and as war came closer, spent December on patrol in the Taiwan Straits. According to an account given by Yeoman 3C A. Glenn Pratt, a crewmember aboard the Finch, she was assigned, along with the Heron, a sister vessel with a diving bell, to escort two US Navy river gunboats back to Manila Harbor from their station in China since the Japanese had sunk one such vessel, the Panay, in 1937. During the return leg of this mission, the vessels were temporarily surrounded by Japanese naval vessels headed toward the Philippines. The gunboats scouted the Japanese column, then pulled ahead to report the naval activity to Washington, while the Finch and Heron stayed behind, eventually being left by the Japanese as well. The two vessels returned to Manila Bay on 6 December 1941.

As the Japanese began aerial bombardment of bases in the Philippines, the Finch continued her task of sweeping for mines to keep the channel into the harbor open for incoming shipping. Yeoman Pratt reported that machine gunners on board the Finch downed one Japanese aircraft during an air raid, and though the Captain congratulated them, he asked them not to repeat the feat so that they would not become a special target and be able to continue mine sweeping operations. After running out of fuel in March, Finch was anchored in shallow water and her crew taken to shore defense positions.

Sunk by a Japanese bomb

On 9 April 1942, while moored at the eastern point of Corregidor, Finch was damaged by the near miss of a Japanese bomb, her seams opening and fragments of the bomb piercing her hull. The entire crew landed safely, and Finch was abandoned to sink the next day, 10 April 1942. According to [1] the "Finch" was salvaged as IJN Patrol Boat 103 and sank in 1945.


Many of the Finch's crew served during the siege of Corregidor, though the Captain was evacuated to Australia via submarine. The survivors of Corregidor were the first prisoners to arrive at Cabanatuan prison camp. Many were later removed to camps in Japan or Taiwan.

Finch received one battle star for World War II service.

沖縄「慰霊の日」(6月23日)に寄せて2009/06/22

「昭和二十年六月二十日於沖縄島戦死」と刻まれた墓碑
私がいま住んでいるのは、滋賀県の県都・大津市。
合併をくりかえして、いまや中核都市。
山野を切り開き、琵琶湖を埋めた土地に、
道路や新興団地や高層マンションが
つぎつぎと建設されています。

失われていく景観や街の変貌を注視しながら、
旧い時代の痛みを追跡する私です。
墓地を見かけると、戦死者の墓碑文を、一柱づつ
ていねいに読みつづける・・・「悼む人」状態です。

岡にむかって細長くつらなる墓地を、
見て回っていたときです。
「故陸軍伍長」の墓碑に、「沖縄」の文字を見つけました。

昭和二十年六月二十日於沖縄島戦死

そうです、この日は、「慰霊の日」の三日前。
つまり沖縄で司令官牛島満中将が自決して、
組織的な戦争が終わった日の三日前にあたるのです。

沖縄に行ったとき、「平和の礎」に沖縄戦で散った
全国の人たちの名前が刻まれているのを見ました。
ですから、滋賀県人がそのなかにいるのも
知識としては持っていたのです。
しかし、遠くはなれた大津の地で、
「沖縄」の文字を目にしたとき、15年戦争が、
全国民をまきこんだ総力戦であったことを感じました。

明日は、6月23日。64回目の「慰霊の日」です。

琉球新報に、「慰霊の日」についての記事が載っていました。
とても、大切な内容だと思いましたので、引用しておきます。

あす「慰霊の日」 5大学1129人、3割「由来知らない」

6月22日9時40分配信 琉球新報

沖縄戦アンケート
 23日の「慰霊の日」を前に琉球新報社は16日から4日間、県内4年制総合5大学の学生(1129人)を対象に沖縄戦について知識や意識を問うアンケートを実施した。その結果、沖縄戦を学ぶことは99・4%が「大切」と答えた一方、牛島満司令官が自決した日として定められた「慰霊の日」の由来を「知らない」と答えた学生が29・4%に上ったほか、今年は沖縄戦終結から何年かとの質問で「64年」と正しく回答できたのは61・6%にとどまった。
沖縄戦の体験継承に関心や意欲が強い一方で基礎的知識に課題があることが浮き彫りになった。
 高校歴史教科書の「集団自決」の記述から「日本軍の強制」が削除された問題について、県内出身者と県外出身者の意識に差があることも分かった。
 日本軍による住民虐殺があった事実は86・8%、学徒動員は92・8%の学生が知っていると答えた。学徒隊の名前を一つ挙げることができた学生は76・0%で、ほとんどが「ひめゆり」を挙げた。
 住民の「集団自決」はどのような死かを問うと「日本の軍事体制下で米軍への投降を許さない、追いつめられた死」を選んだ学生は83・6%、「国のために自ら命を捧げた美しい死」は4・4%、「分からない」5・2%、その他6・3%。
 「日本軍の強制」が削除された問題を知っているのは90・4%、削除は「正しくない」との回答は81・8%に上った。「正しい」は2・8%。「分からない」が14・2%いた。
 県内、県外の出身別でみると、県外出身者は「集団自決」を「―美しい死」と回答した割合が8・1%と県内3・8%よりも高く、歴史教科書問題を知らないと回答した割合も県外は27・4%で、県内6・4%よりも高かった。「日本軍の強制」削除は「正しくない」は県外65・9%で、県内84・3%よりも低かった。
 沖縄戦を学ぶことは「とても大切」88・1%、「ある程度大切」11・2%とほとんどが「大切」と回答。沖縄戦について小中高校の授業で学んだことがある学生は91・9%、戦跡や平和資料館に行ったことがある人も95・2%と多かった。
 調査は5大学の教員に協力を依頼し、講義の際、学生に回答してもらった。

◆識者分析 新城俊昭氏「意識高いが知識伴わず」

 「沖縄戦が終わって何年か」との質問に正答が約6割というのは気になる。8割は超えてほしかった。一方で沖縄戦を学ぶことが大切との回答99%はかなり高い数値だ。現代の若者は一般に言われるほど沖縄戦に無関心ではない。むしろ素直な気持ちで沖縄戦から平和の在り方を学ぼうとする姿勢がうかがえる。意識は高いが知識がそれに伴っていないのが実情だ。平和教育の在り方や教える内容に問題がありそうだ。生徒の実態に合った、体系立てた学習を工夫する必要がある。
 毎年6月は特設授業で、演劇や映画鑑賞、戦争体験者の講演などが実施されているが、近年、こうした学習法もマンネリ化し新たな平和教育の在り方が求められ、内容も問われている。
 1995年、2000年に高校生を対象にしたアンケートでは戦跡・平和資料館に行ったことのある生徒はほぼ半数だった。それが05年は94・5%と大幅に増え、今回のアンケートでも95・2%と高い。おそらく、多くの学校が総合的学習の時間に平和学習を取り入れ、学年単位で戦跡・資料館巡りをするようになったのだろう。07年の教科書検定問題による沖縄戦への関心の高まりも一因だ。
 沖縄戦をじかに語れる世代は急速に減少している一方で沖縄戦研究は大きく進歩し、県平和祈念資料館や対馬丸記念館の建設、ひめゆり平和祈念資料館のリニューアル、各市町村の戦争体験記刊行など沖縄戦を継承するための未来への環境作りは着実に進んでいる。これからの平和学習はこれら戦争遺跡や資料館に何を語らせるかが大きな課題だ。
 教科書から「日本軍の強制」が削除されたことは「正しくない」との回答が県内出身者より県外が大きく下回ったのは気になる。単に沖縄戦への認識が足りないというより、15年戦争への歴史認識そのものに違いがあるように思える。だからこそ教科書で沖縄戦の真実をきっちり記述する必要がある。
 (沖縄歴史教育研究会代表)

海軍二等兵曹Nさんの「履歴書」2009/06/11

海軍二等兵曹Nさんの「履歴書」
6月11日の朝、約束通り、事務所でNさんと出会いました。
「持ってくる」という品物は、茶色の封筒に入った「履歴書」でした。

茶封筒には、「海軍二等兵曹○○○○」の
文字が墨で大書されていました。
裏面には、
「 内容物件
   携帯履歴
   携帯給与通牒
   身分証明書
   考課表
   公務羅病証明書」
 と書かれています。

ご本人によれば、「これを持って残している人は少ない」そうです。
「船が沈没する際に、これだけ持って出た」とも。

もちろん、私は見るのは、はじめてのことです。

写真の履歴書には、
「第103号哨戒艇乗組ヲ命ズ」の
文字も見えます。
そこで、この艦艇の出自を
確認しました。もちろん、ご存じ。

「そうそう、元はアメリカの船や」とのこと。

「第103号哨戒艇」 Nさんの戦争体験から2009/06/11

火曜日のことでした。
戦争体験を語ってくれたNさんが、
ふたたび事務所を訪れました。

「今度の木曜日いるか?」
「ええ、います」
「じゃあ、書いたものもってくるわ」

私がNさんの戦争体験に関心をもったので、
その記録の一部を見せるというのです。

「じゃあ」と出かけるところを引きとめ、
指の写真を撮らせてもらいました。
それがあとから追加した写真です。

木曜日といえば、明日(11日)の朝のこと。
(実際は、もう「今日」ですけれど)
聞き漏らさないように、前のお話のメモを
見直すことにしました。

ひっかかったことは、乗っていた船のこと。
よく知られたもののように、名前をいいました。
「第103号哨戒艇」・・・・量産された哨戒艇の一つ?
気になったのは沈没の日付。
やけに正確でした。「1945年1月12日」。
理由は、個人生活にかかわる記念日だ
そうですけれど。

ネットで調べて驚きました。
ちゃんと載っているのです。
しかも、この船は、同型艦が一つもないのです。
それもそのはずです。
アメリカの船。AM9 FINCH。
哨戒艇(AUXILIARIES-MINE SWEEPERS.)です。
しかも、沈没したあと、改造したものでした。

AM9 FINCHが製造されたのは、1918年9月10日。
日本軍の攻撃を受けて沈没したのが、1942年4月11日。
マニラ沖ジャビデ港でのこと。
5月に浮揚?日本海軍第103工作部が修理。
1943年4月1日に第三南遣艦隊に編入。
このときに、「哨戒艇第103号」と改名。
詳しくは、ココをクリック。

ちなみに、戦利艦の哨戒艇は、101号から
109号まであったのです。
そういう経歴の船に、Nさんは配備されたのですね。

その後のことですが、Nさんの話のとおり、
1945年1月12日に、ベトナム南部の
ファンリ沖で、アメリカ海軍空母艦載機の
空襲により撃沈されたとあります。

排水量は、980トン
全長は、56.2メートル。
全幅は、10.08メートル。
乗員は70名。
装備は、8cm単装高角砲2基と爆雷48発

Nさんは、空襲をうけたとき、船倉の
弾薬をはこびに降りたといっていました。
それは、この高角砲の砲弾だったのです。

船の写真があれば、もっと思い出して
もらえるのでしょうけれど。

「傘がない」20092009/06/03

ナメクジは傘がなくても悠々なのに
いまは梅雨。
ナメクジは傘がなくても悠々と暮らしています。
でも、人間界は、傘をめぐって騒動が起こっているらしい・・・。


カミさんから、いつも怒られています。
「傘をどこかに、おいてこないで!」
私は、いいわけできずに、ベソをかきます。
「高い傘にしたら?そうしたら忘れないんじゃない?」
と追い打ちをかけるカミさん。
「それは甘い!」と自分を棚に上げて言う私。
「値段で忘れないなんてことはない。
 安い傘でいい。  
 とにかく気をつけるから・・・」
とふたたび自信のない私にもどります。

今日の午後、にわか雨がふりました。
・・・傘がない。

ところで、井上陽水の「傘がない」。
さっぱり意味がわからなかった十代の私。
傘がないよりは、自殺する若者が増えているほうが、
よっぽど問題じゃないかと思ったのでした。
彼女ができたとき、傘がないと確かに困る。
ついでに時計・・・世界のなににもまして。

ときは2009年。オバマさんが表舞台へ。
プラハで「核のない世界」演説をしました。
パチパチパチと拍手がわいたのに、
「困った」といったのは、日本国の政府でした。

傘がない!
「核の傘がないと安全が守れない」のだと。

ねえ、核兵器さえなくなれば、
傘もいらないんじゃないの。
あなたの理屈でいくと、
いつまでもなくならないよ。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)