お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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風連鍾乳洞観光センター2008/08/21

風連鍾乳洞観光センター
K君の希望で、竹田市から大分港に向かう途中、
風連鍾乳洞に立ち寄ることにした。
所在地は、大分県臼杵市野津町。

お盆の期間なので、観光客が少ない。
いつもこうなのかわからないが、
私はゆっくり見て回れるので歓迎。



大人(高校生以上)は、800円。
中学生は、600円。
小学生は、550円。
大人よりも、小中学生のほうが
割高な気がした。




観光センターの建物が、ゲートとなっていて、
そこから、100メートルぐらい川沿いの道を
歩くと、入り口に達する。

風連鍾乳洞に入る2008/08/21

風連鍾乳洞の入り口
私の鍾乳洞初体験は、秋吉台にある秋芳洞。
小学校か中学校の修学旅行だったと思います。
雨がふっていて、増水したこともあり、
恐怖感をともないながら、入っていきました。
あまりの巨大さと神秘性が強烈な印象を残しました。
しかし、再訪したときは、なぜか失望。
鍾乳石はコケで汚れ、丸みを帯びていました。

高校卒業のとき、友人3人と
郡上八幡市に旅行しました。
そのときに、公開されたばかいの鍾乳洞を見ました。
観光センターもなく、通路は整備されていませんでした。
足元の不安さと真新しい木組み印象に残っています。
鍾乳石は真っ白で、上下左右に蛇行する通路は、
どこまでも続くのかわからないほどの長さがありました。
そこを再訪したときには、通路は整備されましたが、
神秘性と美しさは損なわれていました。

風連鍾乳洞ははじめてなので、なんともいえません。



入り口の左に建っている記念碑。
写真では大きさがわかりませんが、
5mを越える巨大なものです。
昭和2年(1927年)に天然記念物に
指定されたことが記されています。



風連鍾乳洞は閉鎖型の鍾乳洞であって、
大正15年(1926年)に発見されるまでは、
外気に触れていなかったというのです。
この入り口は無理やり造ったってことでしょうか。



内部の通路は、もちろん狭いものですが、
それは、鍾乳洞に沿って造られています。
500メートル先には、ホールのような龍宮城。


「龍宮城」看板@風連鍾乳洞2008/08/21

「龍宮城」看板@風連鍾乳洞
大分県の風連鍾乳洞に行ったのは、
当初からの計画ではなかった。
だから、仕方ないのだけれど、
あらかじめ調べておけば、
見所がわかって、より楽しめたと思う。
だが写真を撮っておけば追体験できるし、
気がつかなかった発見もあると思うのだ。

上の写真は、入口から最深部にある広場に
掲げられている看板。

鍾乳石@風連鍾乳洞2008/08/21

鍾乳石@風連鍾乳洞
鍾乳石は、つららのように
天井から垂れ下がる炭酸カルシウムの塊。

風連鍾乳洞に入ってすぐの部分にある
この鍾乳石は、まだ色が薄い。
本来の色は、白なのだろうか?

薄暗いなかでは、肉眼では色がよくわからない。
フラッシュをたいて撮影すると、
濃い茶色だったり、どす黒かったりして、
カメラのディスプレイを見て、
ぎょっとする場合がある。



洞内の照明だけで撮影すると上のようになり、
フラッシュをたくと、下のようになる。
同じ鍾乳石なのに、印象が変わってくる。

奇岩として目を楽しませる鍾乳石@風連鍾乳洞2008/08/21

奇岩として目を楽しませる鍾乳石@風連鍾乳洞
天井から垂れ下がる鍾乳石は、
成長し、重なり合い、複雑で
奇妙な形態を造り出す。
それを見て人間が感じる驚きが、
観光資源となるのだ。
形の違いがどれだけ科学的な
価値があるのか、私にはわからない。

どこの鍾乳洞でも、人間の目から見て、
奇抜と思われるものに、名前がついている。
私にはそれが俗っぽくって、名札を見たり、
覚える気がしないのだ。



ところで、風連鍾乳洞は「日本一うつくしい」
と自称している。
すべての鍾乳洞を見たわけではないので、
私には、判断する資格はないのだけれど、
確かに美しいと感じる。
フラッシュをたかずに、洞内の照明だけで
撮影するとよくわかる。

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石筍@風連鍾乳洞2008/08/21

石筍@風連鍾乳洞
鍾乳石は、上から下へ垂れ下がる。
石筍=石のたけのこは、下から上へ形成される。
おなじ滴でできていると思われるけれど、
できる場所の違いで名前が違う。

鍾乳石と石筍がつくる景観@風連鍾乳洞2008/08/21

鍾乳石と石筍がつくる景観@風連鍾乳洞
鍾乳石と石筍は、
同じ水滴の流れをもとにしているので、
天井と床に呼応するようにできている。

鍾乳石は鋭角にたれさがり、石筍は丸くつみあがる。
その対比が意外な景観を創りだしている。

まるで二種類の生き物がお互いを求めて、
うごめきあう姿のようだ。

石柱(競秀峰)@風連鍾乳洞2008/08/21

競秀峰(石柱)@風連鍾乳洞
上から垂れ下がる鍾乳石と
下からつみ上がる石筍が
めでたくひとつになると
石柱と呼ばれるものになる。

どの鍾乳洞でも、巨大な石柱が
その洞のハイライトとなる。
上の写真が風連鍾乳洞のそれ。
名前がつけてあり、「競秀峰」
高さ10メートル、周囲16メートル。
写真をクリックすると、
人の姿が映っているので、
大きさが実感できる。

龍宮城@風連鍾乳洞2008/08/21

龍宮城@風連鍾乳洞
風連鍾乳洞の通路は現在ひとつしかない。
冒険と名のつく通路が入口の横にあったが、
現在は使われていないようだ。

この鍾乳洞は入口と出口が同じであり、
龍宮城という大広間を最後に
引き返すことになる。



10アールばかりの広さの場所は、
見事なものである。
他を全く知らなくても、「そうかな」と
思わせるものがそこはある。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)