お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
士族を士族とたたかわせる奇策@西南戦争 ― 2008/09/02
西南戦争について、私が理解していること、どこに強く惹かれるのかなどについて、書いてみます。メモとして。
西南戦争は、新政府の農民主体の徴兵軍と士族中心の薩軍が戦ったという単純な図式ではありません。戦争の進展とともに、政府の建前を維持することができず、滅ぼすべき士族から志願兵を募って、薩軍と戦うことになります。
それは、政府の朝令暮改的ではあるが巧妙な分断政策と片付けることもできます。しかし、私は、一人ひとりの運命によりそい、悲劇として跡付けることが大切だと思うのです。
階級としての士族は、歴史的には不要となったことでしょう。
しかし、旧会津藩のように極寒極貧の地に追放したり、生活不可能な瀬戸際に追い込んでバラバラに決起させては殲滅するという明治政府の政策は、すさまじいというしかありません。
そして、旧士族層との最大・最後の決戦が西南戦争でした。ですから、そこに問題が集中的に現われていると思います。
西南戦争は、全国の徴兵VS鹿児島士族というだけではなく、同じ鹿児島内でも「薩摩の人を以って薩摩の賊を討つ、賊将の名は皆な其の知る所なり」という側面をもっていました。同じ故郷の顔見知りが、士族と郷士という差別構造のなかで、会い争うことになったのです。
「戊辰の復讐」として、旧会津藩出身者が多数参加していたことも事実です。
そういう事態はどうして生じたのか。
それは、薩軍による抜刀隊(白刃をふりかざして突撃)に官軍が苦しめられたことによります。これへの対抗策として、3月14日から官軍の巡査による抜刀隊が編成され、投入されました。そして、この奇策が功を奏するのです。
なぜ「巡査」かという点についても、建前と本音の相克が見えます。
徴兵制度を建前にしている限り、正規軍として採用できないということで、旧士族を巡査として、実質的には兵として投入したのです。
「戊辰の復讐」とは、かつての同盟藩である薩摩藩に裏切られて、滅ぼされた会津藩の怨念を表しています。
「巡査」と書かれた墓碑を実際にこの目で見ることで、以上のようなことを生々しく実感できました。
上の写真は、西南戦争の最激戦地・田原坂付近の七本官軍墓地の一角です。入口を入って、左。「巡査」の墓碑だけが並んでいます。
墓標がかろうじて読める写真は下。クリックすれば大きくなります。
一つ一つを撮影する余裕がありませんでした。それでも、真ん中あたりに、福島県の平民の巡査の墓碑があります。見えますでしょうか?
一方、鎮台軍の墓碑は、正面にずらりと並んでいます。
これらに比べれば、「巡査」は脇役という配置です。
ここにも、実質的には官軍でありながら、官軍の一部として扱われない建前が貫かれているわけで、それを見ることができました。
西南戦争は、新政府の農民主体の徴兵軍と士族中心の薩軍が戦ったという単純な図式ではありません。戦争の進展とともに、政府の建前を維持することができず、滅ぼすべき士族から志願兵を募って、薩軍と戦うことになります。
それは、政府の朝令暮改的ではあるが巧妙な分断政策と片付けることもできます。しかし、私は、一人ひとりの運命によりそい、悲劇として跡付けることが大切だと思うのです。
階級としての士族は、歴史的には不要となったことでしょう。
しかし、旧会津藩のように極寒極貧の地に追放したり、生活不可能な瀬戸際に追い込んでバラバラに決起させては殲滅するという明治政府の政策は、すさまじいというしかありません。
そして、旧士族層との最大・最後の決戦が西南戦争でした。ですから、そこに問題が集中的に現われていると思います。
西南戦争は、全国の徴兵VS鹿児島士族というだけではなく、同じ鹿児島内でも「薩摩の人を以って薩摩の賊を討つ、賊将の名は皆な其の知る所なり」という側面をもっていました。同じ故郷の顔見知りが、士族と郷士という差別構造のなかで、会い争うことになったのです。
「戊辰の復讐」として、旧会津藩出身者が多数参加していたことも事実です。
そういう事態はどうして生じたのか。
それは、薩軍による抜刀隊(白刃をふりかざして突撃)に官軍が苦しめられたことによります。これへの対抗策として、3月14日から官軍の巡査による抜刀隊が編成され、投入されました。そして、この奇策が功を奏するのです。
なぜ「巡査」かという点についても、建前と本音の相克が見えます。
徴兵制度を建前にしている限り、正規軍として採用できないということで、旧士族を巡査として、実質的には兵として投入したのです。
「戊辰の復讐」とは、かつての同盟藩である薩摩藩に裏切られて、滅ぼされた会津藩の怨念を表しています。
「巡査」と書かれた墓碑を実際にこの目で見ることで、以上のようなことを生々しく実感できました。
上の写真は、西南戦争の最激戦地・田原坂付近の七本官軍墓地の一角です。入口を入って、左。「巡査」の墓碑だけが並んでいます。
墓標がかろうじて読める写真は下。クリックすれば大きくなります。
一つ一つを撮影する余裕がありませんでした。それでも、真ん中あたりに、福島県の平民の巡査の墓碑があります。見えますでしょうか?
一方、鎮台軍の墓碑は、正面にずらりと並んでいます。
これらに比べれば、「巡査」は脇役という配置です。
ここにも、実質的には官軍でありながら、官軍の一部として扱われない建前が貫かれているわけで、それを見ることができました。
コメント
_ きへい ― 2008年09月03日 08時49分48秒
_ BIN★→きへいさん ― 2008年09月03日 17時42分32秒
はじめまして。
以前にも来ていただいているときいて、
うれしく思いました。
私が知りたいと思う情報について、
教えていただいてありがごうございます。
突発的に、官軍墓地を訪れたために、
(家族にも迷惑がかけられないので
時間的制約もあり)十分見て回ることが
できませんでした。
ご紹介いただいた八代市の資料をさがして、
見てみることにします。
宇月平作さんについて、平民と書かれていたので、
おやっと思ったのは確かなのです。
その事情まで知ることができて感激しています。
ひきつづき追跡していきたいと思いますので、
おつきあいよろしくお願いします。
以前にも来ていただいているときいて、
うれしく思いました。
私が知りたいと思う情報について、
教えていただいてありがごうございます。
突発的に、官軍墓地を訪れたために、
(家族にも迷惑がかけられないので
時間的制約もあり)十分見て回ることが
できませんでした。
ご紹介いただいた八代市の資料をさがして、
見てみることにします。
宇月平作さんについて、平民と書かれていたので、
おやっと思ったのは確かなのです。
その事情まで知ることができて感激しています。
ひきつづき追跡していきたいと思いますので、
おつきあいよろしくお願いします。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
今日は西南役余話から来ましたが、過去に何度か拝見しています。
西南戦争の官軍墓地に関して平成10年~12年にかけて発掘した
若宮、横手官軍墓地跡の調査報告書があります。
もしご存知なければ目を通すと非常に参考になる資料です。
八代市文化財調査報告書 第16集
若宮官軍墓地跡・横手官軍墓地跡 平成14年3月28日発行 八代市教育委員会
若宮の方には第九連隊の方も複数人埋葬されています。
写真で紹介されてる福島県巡査の字月平作さんは旧会津藩士です。
斗南移住に加わらず会津での帰農商願を希望した為、平民の族籍になっています。
植木口警視三番小隊所属の三等巡査なので明治7年の奉職組だと思います。