お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
う~ん、どういう表情なんだろう ― 2009/10/22
黒川祐次 『物語 ウクライナの歴史』(中公新書) ― 2009/10/22
お昼休みにパルコに行く。紀伊國屋書店で本を物色。いつも買いそうにない本にしようと決め、iphoneの裏技本とともに、黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』を購入。
著者は1944年、愛知県生まれ。外交官を経て、大学教員。ウクライナ大統領選挙の際に、日本監視団団長を務める。
ところで、私が、ウクライナ史を読むのは初めてではない。学生時代は、日本語の本がなくて、民族的バイアスのかかったロシア語の本(アカデミー版の公式史)か、それとも民族色の強いウクライナ語からの英語訳の本しかなかったのだ。図書館にウクライナ語の原本があったけれど、読む余裕も力ももたなかった。
初めてウクライナのことを知るという人も、この本を読めば、いわゆるロシア史と重なる部分(キエフ・ルーシはウクライナ史そのもの)が多いことに気づく。「ウクライナは確かに存在していたが、これまでは地下水脈のように何世紀も表には現れないできた。」という中身に関わる問題がここにある。
ソ連が崩壊し、ウクライナ国家が誕生したおかげで、気軽に読めそうな気がする。
著者は1944年、愛知県生まれ。外交官を経て、大学教員。ウクライナ大統領選挙の際に、日本監視団団長を務める。
私は私自身がウクライナを「発見」したように、日本においてもウクライナが「発見」されるべきだと考えるようになった。こうして私はウクライナを紹介する本を書こうと思い立ったが、やはり、ある国なり民族に関する知見の基礎になるものは歴史であるので、ウクライナの歴史を通してこの国を紹介したいと思う。著者のこういう思いに支えられた本である。
ところで、私が、ウクライナ史を読むのは初めてではない。学生時代は、日本語の本がなくて、民族的バイアスのかかったロシア語の本(アカデミー版の公式史)か、それとも民族色の強いウクライナ語からの英語訳の本しかなかったのだ。図書館にウクライナ語の原本があったけれど、読む余裕も力ももたなかった。
初めてウクライナのことを知るという人も、この本を読めば、いわゆるロシア史と重なる部分(キエフ・ルーシはウクライナ史そのもの)が多いことに気づく。「ウクライナは確かに存在していたが、これまでは地下水脈のように何世紀も表には現れないできた。」という中身に関わる問題がここにある。
ソ連が崩壊し、ウクライナ国家が誕生したおかげで、気軽に読めそうな気がする。
ウクライナ国家は 「Ukraine」 か 「the Ukraine」 か? ― 2009/10/23
現在も東京都知事をされている方が、「三国人」という言葉を使い、民族差別発言として問題になりました。その国家、その民族をどう呼ぶべきかということは、重要な問題なのです。
黒川祐次氏の『物語 ウクライナ史』を読んで、ウクライナについてもそれがいえるということを確認しました。
この本には、この主題を扱った「ウクライナの語源」という節があり、81~84ページに渡って展開されています。
私はロシア語を学びましたから、ロシア的な角度から、ウクライナを普通名詞の意味通りに「辺境の地」(украина=окраина)だと思っていました。
これについて、ウクライナの側から異論が出ていることを、この本で初めて知りました。言い分は、ウクライナは「辺境」を意味するウクライナから派生したものではなく、もともとは「土地」とか、「地域」を意味していたクライから固有名詞化したにすぎないというものです。古い文献を検討して、「ウクライナ」が出てくる文脈を根拠にしています。
ロシア側からすれば、地理的には「辺境」であり、それをそのまま使ってもなんの違和感もなければ、プライドが傷つくわけでもありません。しかし、ウクライナの立場からすれば、自らを「辺境」と自称することはうれしいことではありません。
そういえば、日本を含む一定の地域は「極東」と呼ばれることがありますが、それは西欧から見た視点にすぎません。われわれは、自らを「極東」=東の端と自称するわけではありません。ましてや国家の名前を「極東国」とはいいません。
長い間、国家をもてなかった民族の屈辱感と誇りは、こういうところにも出てきているのだと思いました。それは十分配慮すべきことなのです。呼称にとどまらない問題として。
タイトルにある「Ukraine」と「the Ukraine」ですが、the をつけるのは、ロシア中心主義の立場からの叙述本のタイトル、ウクライナ政府は無冠詞を望んでいるようですね。これも、上の説明で理解できることです。
黒川祐次氏の『物語 ウクライナ史』を読んで、ウクライナについてもそれがいえるということを確認しました。
この本には、この主題を扱った「ウクライナの語源」という節があり、81~84ページに渡って展開されています。
私はロシア語を学びましたから、ロシア的な角度から、ウクライナを普通名詞の意味通りに「辺境の地」(украина=окраина)だと思っていました。
これについて、ウクライナの側から異論が出ていることを、この本で初めて知りました。言い分は、ウクライナは「辺境」を意味するウクライナから派生したものではなく、もともとは「土地」とか、「地域」を意味していたクライから固有名詞化したにすぎないというものです。古い文献を検討して、「ウクライナ」が出てくる文脈を根拠にしています。
ロシア側からすれば、地理的には「辺境」であり、それをそのまま使ってもなんの違和感もなければ、プライドが傷つくわけでもありません。しかし、ウクライナの立場からすれば、自らを「辺境」と自称することはうれしいことではありません。
そういえば、日本を含む一定の地域は「極東」と呼ばれることがありますが、それは西欧から見た視点にすぎません。われわれは、自らを「極東」=東の端と自称するわけではありません。ましてや国家の名前を「極東国」とはいいません。
長い間、国家をもてなかった民族の屈辱感と誇りは、こういうところにも出てきているのだと思いました。それは十分配慮すべきことなのです。呼称にとどまらない問題として。
タイトルにある「Ukraine」と「the Ukraine」ですが、the をつけるのは、ロシア中心主義の立場からの叙述本のタイトル、ウクライナ政府は無冠詞を望んでいるようですね。これも、上の説明で理解できることです。
司馬遼太郎 『坂の上の雲』 の明るさ ― 2009/10/23
『坂の上の雲』がまもなくTVドラマとして登場することになります。それを機会に、読みなじめる人も増えているようです。ブログでも感想が書かれていますね。「日本人として誇りを感じる」というのがあり、私は違和感を覚えました。
司馬遼太郎さんの本は、本文のなかに、たくさんの薀蓄がつまっています。それたわき道の方が面白かったりして、わき道の傍証が本文だったりします。
全体としてとても明るいのです。明治以来の近代日本は、中学校の教科書でも時間がなくて飛ばされることが多いと聞いています。日本史は高校では選択科目ではなかったでしょうか。一般的には、戦前の政治は評判がよくなく、明治以降は戦争ばかりしている印象があります。
そういう重苦しい時代のイメージに反して、司馬さんは目的にむかってひたむきに一生懸命な日本人を多数描いています。
私はそういう明るさに惹かれて、『坂の上の雲』を愛読していました。上手くいえませんが、シェークスピアに出てくるハムレットの悩みって、近代的な気がしますね。そこには、自己の行う「正義」への疑惑や迷いがあり、そのなかで決断が生まれてきます。
司馬さんに登場する人たちは、目的そのものへの疑いをもつことがありません。自らを歯車のように鍛え、役目を黙々と果たす人たちです。
そういう国家目的をすなおに信じることが、どういうことにつながるかを私は知っています。もちろん、司馬さんもそのはずです。
国家との一体感、国家目的への滅私にもどることは、犠牲者の痛みの忘却でしかないと私は思います。私たちは、明治以来の戦争のなかで、知恵の実を食べたのですから、そういう楽園にはいられないのです。
司馬遼太郎さんの本は、本文のなかに、たくさんの薀蓄がつまっています。それたわき道の方が面白かったりして、わき道の傍証が本文だったりします。
全体としてとても明るいのです。明治以来の近代日本は、中学校の教科書でも時間がなくて飛ばされることが多いと聞いています。日本史は高校では選択科目ではなかったでしょうか。一般的には、戦前の政治は評判がよくなく、明治以降は戦争ばかりしている印象があります。
そういう重苦しい時代のイメージに反して、司馬さんは目的にむかってひたむきに一生懸命な日本人を多数描いています。
私はそういう明るさに惹かれて、『坂の上の雲』を愛読していました。上手くいえませんが、シェークスピアに出てくるハムレットの悩みって、近代的な気がしますね。そこには、自己の行う「正義」への疑惑や迷いがあり、そのなかで決断が生まれてきます。
司馬さんに登場する人たちは、目的そのものへの疑いをもつことがありません。自らを歯車のように鍛え、役目を黙々と果たす人たちです。
そういう国家目的をすなおに信じることが、どういうことにつながるかを私は知っています。もちろん、司馬さんもそのはずです。
国家との一体感、国家目的への滅私にもどることは、犠牲者の痛みの忘却でしかないと私は思います。私たちは、明治以来の戦争のなかで、知恵の実を食べたのですから、そういう楽園にはいられないのです。
セイダカアワダチソウを撮るつもりが ― 2009/10/23
これが・・・なにに見えますか? ― 2009/10/23
カメムシ ― 2009/10/23
共同墓地のなかで、戦死者の墓碑はどこに置かれているのか ― 2009/10/24
農村部では、区や部落単位で共同墓地が存在します。その共同墓地には、戦死者の墓碑もいっしょに建てられています。ほとんどの場合、遺骨が還らないので、墓というよりは、記念碑に近いものです。
戦病死者の墓碑の建て方には、一定の共通したルールがあるように思えます。
日清戦争や日露戦争の墓碑は、集落が経験するはじめての対外戦争での戦死者ということもあって、特別な位置に立てられています。たとえば、墓地の入り口(大津の石山、旧志賀町の木戸、南小松、高島の中野など)に建てられます。だれもが必ず通り、目にする場所に置かれています。
その後、第一次世界大戦やシベリア出兵、日中戦争などで戦死者は加速度的に増えていきます。そのあたりまでは、大きめの墓碑として建てられていきます。
しかし、戦線は拡大する一方で、太平洋戦争での犠牲者はそれまでの規模をはるかに上回りました。本来置かれるべきスペースが不足するという問題が生まれたのでしょうね。入り口付近に、一つの台座に複数並んでおかれているのをよく目にしますが、そういうことから、造られたのではないかと思えます。
だれが決めたルールかわかりませんが、どの墓地もその配列になっているようです。
戦病死者の墓碑の建て方には、一定の共通したルールがあるように思えます。
日清戦争や日露戦争の墓碑は、集落が経験するはじめての対外戦争での戦死者ということもあって、特別な位置に立てられています。たとえば、墓地の入り口(大津の石山、旧志賀町の木戸、南小松、高島の中野など)に建てられます。だれもが必ず通り、目にする場所に置かれています。
その後、第一次世界大戦やシベリア出兵、日中戦争などで戦死者は加速度的に増えていきます。そのあたりまでは、大きめの墓碑として建てられていきます。
しかし、戦線は拡大する一方で、太平洋戦争での犠牲者はそれまでの規模をはるかに上回りました。本来置かれるべきスペースが不足するという問題が生まれたのでしょうね。入り口付近に、一つの台座に複数並んでおかれているのをよく目にしますが、そういうことから、造られたのではないかと思えます。
だれが決めたルールかわかりませんが、どの墓地もその配列になっているようです。
北比良の「戦没者慰霊碑」 ― 2009/10/24
「忠魂碑」は天皇のために命を捧げた将兵を記念するという意味の碑です。したがって、天皇の名で起こされた戦争とそれを戦った臣民への賛美が込められています。戦前は、そういう目的で建設され、碑の前で、行事が行われていたと聞いています。
戦後になって撤去されたものも多数あるし、地域の記念碑をあつめた本のなかからも削除されていきます。
一方、「戦没者慰霊碑」は、「忠」(天皇への忠誠)という要素はなく、戦争に参加し、命を落とした将兵を弔うために建てられています。
旧志賀町では、「忠魂碑」は、木戸の共同墓地に一つ、和邇中の天皇神社に一つあります。国民学校前に横長の形をした「忠魂碑」があったはずですが、まだ見つけていません。
「戦没者慰霊碑」の類は、北小松に「戦没者慰霊碑」と南小松に「慰霊塔」があります。
新たに紹介するのは、北比良の共同墓地に隣接しておかれている「戦没者慰霊碑」です。
背面には、建立年月が刻まれています。「昭和51年3月」。西暦では、1976年のことですね。
戦後になって撤去されたものも多数あるし、地域の記念碑をあつめた本のなかからも削除されていきます。
一方、「戦没者慰霊碑」は、「忠」(天皇への忠誠)という要素はなく、戦争に参加し、命を落とした将兵を弔うために建てられています。
旧志賀町では、「忠魂碑」は、木戸の共同墓地に一つ、和邇中の天皇神社に一つあります。国民学校前に横長の形をした「忠魂碑」があったはずですが、まだ見つけていません。
「戦没者慰霊碑」の類は、北小松に「戦没者慰霊碑」と南小松に「慰霊塔」があります。
新たに紹介するのは、北比良の共同墓地に隣接しておかれている「戦没者慰霊碑」です。
背面には、建立年月が刻まれています。「昭和51年3月」。西暦では、1976年のことですね。
鍛え抜かれた木肌 ― 2009/10/24
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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