お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「奉公之碑」@大鳥神社2010/12/01

「奉公之碑」@大鳥神社
 忠魂碑という画一的な形をとるまでには、戦没者を悼む碑は、さまざまな形で存在したのだと思います。  竹田市(旧荻町)で見た「明治廿七八年征清戦死士霊魂碑」。この碑を最初に見たとき、戦争の猛々しさを感じさせる「征清」という言葉に衝撃を受けました。この当時は、まだ「忠魂」に統一されず、「霊魂」という言葉が使われたのですね。
 私が見た二つ目の日清戦争の碑は、甲賀町の大鳥神社に置かれていた「奉公之碑」です。
 この碑文からは、戦争をイメージすることができませんでした。神社の清掃・管理をされた方々の碑・・・という気さえしました。これに類似する碑を知りません。
 これは、日清戦争の従軍者が自らの出征を記念して建立した碑でした。その周囲には、生きて帰還した人たちの名前がびっしり彫られていました。
「奉公之碑」左側面
「奉公之碑」背面

「明治廿七八季没忠勇戦死者 紀念碑」@蝉丸神社2010/12/01

「明治廿七八季没忠勇戦死者 紀念碑」@蝉丸神社
 個人墓碑をのぞくと、私が実見した日清戦争の碑は、三つだといいました。大分県竹田市の『明治廿七八年征清戦死士霊魂碑』(荻町櫻町児童公園)、滋賀県甲賀市甲賀町の『奉公之碑』(大鳥神社)、そして同県大津市の『明治廿七八季没忠勇戦死者紀念碑』(蝉丸神社)です。  当然ですが、戦争を肯定したうえでの、紀念碑。その露骨な表現に違和感を感じます。加害者意識は一切ありません。
 このような多様な日清戦争の紀念碑の他に、現在、陸軍墓地があり、個人墓碑があります。
 日清戦争にまつわる様々な紀念碑、陸軍墓地、個人墓碑、それらは、いやでも戦争と向き合わなければならなくなった当時の人々の生活のなかで、どういう役割をもち、果たしていったのでしょうか。
 「忠魂碑」が多数建てられる以前の時代ですから、それ以降の時代とは違ったものがあったのではないでしょうか。
 日清戦争と日露戦争の間に、日本の社会はどう変わっていったのか、ということにも、かかわることですね。

なぜ、大津市では日清戦争の個人墓碑が少なく、高島郡では多いのか2010/12/01

墓碑めぐりのきっかけとなった4柱の日露戦争戦没者の墓碑
 私は2007年の夏まで、戦没者の墓碑に関心を持てませんでした。
 しかし、8月の暑い日に、なぜか見て回る気になりました。そして、墓地の入り口でみた4柱の茶色くくすんだ墓碑に目を奪われました。台座のりっぱさと新しさとは対照的な墓碑でした。
 それが、日露戦争の墓碑だったのです(上の写真)。碑文を読むうちに、一世紀の時間の隔たりが一瞬で埋まるような気がしました。それが出発でした。
 林立する戦死者の墓碑のなかで、日露戦争の墓碑を見つけるのは、容易でした。形と色に共通性があったからです。
 近くの墓地を周り、その記録をするうちに、湧いた疑問がありました。”日清戦争の個人墓碑がない”ということでした。
 そこで、旧陸軍墓地の存在を思い出したのです。幼いときに、山を走り回って遊んでいたとき、突然、軍人の墓地に飛びこんで、恐怖を覚えた経験がありました。それが、陸軍墓地にちがいないと思いました。
 それはどこなんだろう?
 そして、ようやく見つけることができました。そして、そこには、日清戦争の墓碑がならぶ一角(上の写真)がありました。
 戦前の『滋賀縣史』『大津市志』を読んで、日清戦争の戦死者の数も実名もわかりました。しかし、民間墓地で見つけた日清戦争戦没者の墓碑は1柱(下の写真)だけでした。
 そこで、日清戦争では、例外はあっても、個人墓碑は建てられなかったのだと思っていました。
 しかし、この10月から11月で、やつしろさんのご協力で、認識を新たにしました。それは、旧高島郡(現高島市)では、日清戦争でも、個人墓碑が民間墓地につぎつぎに建てられていたという事実です。それと同時に、それらは、集落では紀念碑としての役割を果たしていたこと(下の写真:中野共同墓地における「中村林蔵碑」)もわかりました。
 同じ人物の墓碑が、軍墓地にも建てられているという事実(下の写真:旧大津陸軍墓地での「中村林蔵之墓」)も知りました。
 あらためて考えることになったのは、”なぜ、高島郡では個人墓碑が建てられたのか、逆に、なぜ、大津市では建てられなかったのか”ということです。
 単純に考えれば、大津市には陸軍墓地があったということでしょうか。となると、陸軍墓地の存在が、民間墓地における戦死者の扱いにも影響しているわけで、一体に考えなくてはならないということになります。
 それは、逆に、高島郡で、日清戦争の記念碑が建てられなかった理由もわかる気がします。その役目を個人墓碑が演じたということではないでしょうか。
 「忠魂碑」が各地に建てられるようになると、戦争そのものの碑としての役目は個人墓碑からはなくなり、戦死者個人の墓としての役目を帯びて、建てられるようになってきたとも考えられます。
 作業はまだ途中ですが、頭に浮かんだことを書きました。

Qooつながり2010/12/01

Qooが笑顔を広げているのがいいですね
Qooと散歩すれば、
人の輪ができます。

みんな笑顔なのが
いいですね。

「慰霊碑」@広瀬神社2010/12/02

「慰霊碑」@広瀬神社
広瀬神社の慰霊碑。

隣に由来を記したボードがおかれている。そこに書かれているのは次のことでした。
慰霊碑
 昭和二十四年、当地方出身戦没者一四四九柱が合祀され、その十周年記念事業として三十四年遺族会の発起で建設された。制作は郷土出身の彫刻界の大家・帝室技芸員・故朝倉文夫翁のご厚意になるもので、碑面に大書された「慰霊」の二字は特に翁が精魂を打ち込んで揮毫されたものである。碑に配置された五つの石は、「仁・義・礼・智・信」の五字をかたどり、裏面の大小の石は、「忠・孝」の二字をあらわし、翁が自ら厳選した秘蔵の岡山県産御影石を御寄贈されたものである。

3月のチー2010/12/02

3月のチー
仔猫時代のチーの写真を
もっと撮ればよかったと
何度も思います。

わが家に来て2ヶ月目で、
すこしは元気になったときです。

目が鋭く(お昼だから仕方がないですが)
怖~い感じがします。

山川招魂社における西南戦争戦死者の墓碑から16柱2010/12/02

福岡県久留米市にある御井(みい)町。
サイト「御井町誌」に注目しました。
目次から「第三章 石は語る」
→「二、上町」と進むと、
「十九、山川招魂社」が出てきます。
ここに、佐賀の乱鎮圧と西南戦争で
戦死した官軍の墓碑がおかれています。

西南戦争の墓碑は、242柱。
軍夫のものもあります。
碑文が収録させていて
参考になりました。

クリック→「御井町誌」

*追記

私がメインとする調査フィールドは、
大津市(志賀町を含む)高島市(高島郡)です。
また、大津に営所をもつ陸軍歩兵第九聯隊です。

第九聯隊関係の墓碑は、山川招魂社に16柱
そのうち、高島市(高島郡)出身者3名で、
志賀郡志賀町(現在は大津市)出身者は1名でした。
245 陸軍少佐 従六位津田正芳之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊長心得
    明治十年三月廿三日於熊本縣下肥後国
    山本郡植木負傷後四月十日
    福岡縣筑後国久留米病院二於テ死
    福岡縣豊前国仲津郡豊津士族
大津に営所があった歩兵第九聯隊の
初代の聯隊長(心得)の墓碑がここにあるのです。

その他、第九聯隊の戦死者。16柱
89  陸軍歩兵 中村広吉之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第八中隊
    明治三年三月九日於熊本縣下肥後国
    山本郡田原坂負傷後同月十四日福岡
    縣筑後国久留米病院二於テ死
    滋賀縣近江国甲賀郡水口村平民
91  陸軍歩兵 加藤勝次郎之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第一大隊第一中隊
    明治十年三月九日於熊本縣下肥後国
    山本郡田原坂負傷後同月十五日福
    岡縣筑後国久留米病院二於テ死
    三重縣第八大區五小區船山村平民
97  陸軍兵卒 辻村松次郎之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第三中隊
    明治十年三月七日於熊本縣下肥後国
    山本郡田原坂負傷後同月廿五日福岡縣
    筑後国久留米病院二於テ死
    三重縣伊勢国一志郡新家村平民
99  陸軍兵卒 近藤伴吉之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第三中隊
123 陸軍兵卒 若林弥佐次郎之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第四中隊
    明治十年三月十九日於熊本縣下肥後国
    玉名郡横平山負傷後同月廿一日
    福岡縣筑後国久留米病院二於テ死
    滋賀縣近江国犬上郡八坂村平民
134 陸軍兵卒 屋島五次郎之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第四中隊
    明治十年三月十五日於熊本縣下肥後
    国玉名郡横平山負傷後同月十九日
    福岡縣筑後国久留米病院二於テ死
    滋賀縣近江国高島郡辻澤村平民
136 陸軍兵卒 山中鹿蔵□□
    大阪鎮臺後備□□□□□□第二□□第四
    □□
    明治十年廿日福□縣ー
    筑前国山家ニテ病□ー
    滋賀縣近江國甲□□大寺村平民

138 陸軍兵卒 山中鹿蔵之墓
    大阪鎮臺後備歩兵第五大隊第四中隊
    明治十年十月廿日福岡縣下筑前国山鹿二於テ病死
    滋賀縣近江国甲賀郡三大寺村平民
    (136と同一人かと思われる)
171 陸軍兵卒 太田音次郎之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第四中隊
    明治十年三月十五日於熊本縣下肥後国
    玉名郡横平山負傷後四月十三日福岡縣筑後
    国久留米病院二於テ死
    三重縣伊勢国飯高郡下村平民
183 陸軍兵卒 中村銀蔵之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第一大隊第二中隊
    明治十年三月九日於熊本縣下肥後国
    山本郡田原坂負傷後四月六日
    福岡縣筑後国久留米病院二於テ死
    滋賀縣近江国高島郡地子原村平民
186 陸軍兵卒 萩 嘉右衛門之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第一中隊
    明治十年三月六日於熊本縣下肥後国
    山本郡田原坂負傷後四月六日
    福岡縣筑後国久留米病院二於テ死
    三重縣伊勢国三重郡川北村平民
203 陸軍兵卒 鋒山宇吉之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第二中隊
    明治十年三月十八日於熊本縣下肥後国
    山本郡田原坂負傷後四月十二日
    福岡縣筑後国久留米病院二於テ死
    滋賀縣近江国犬上郡金屋村平民
205 陸軍兵卒 津曲辻松之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第一大隊第二中隊
    明治十年三月九日於熊本縣下肥後国
    山本郡田原坂負傷後四月十二日
    福岡縣筑後国久留米病院二於テ死
    三重縣志摩国荅志郡岡崎村平民
213 陸軍兵卒 駒井新吉之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第二中隊
    明治十年三月十四日於熊本縣下肥後国山本郡田原
    坂負傷後同月廿九日福岡縣下筑後国久留米病院二
    於テ死
    滋賀縣近江国高島郡北舟木村平民
219 陸軍兵卒 杉山庄治郎之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第三大隊第二中隊
    明治十年三月二十三日於熊本縣下肥後国山本郡半
    高山負傷後同月卅日福岡縣筑後国久留米病院二於
    テ死
    三重縣第四大區三小區本郷村平民
221 陸軍喇叭卒 川中槌松之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第一中隊
    明治十年三月七日於熊本縣下肥後国
    山本郡田原坂負傷後同月三十一日
    福岡縣筑後国久留米病院二於テ死
    滋賀縣近江国滋賀郡西浜村平民
236 陸軍兵卒 増田元之吉之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第四中隊
    明治十年三月十五日熊本縣下肥後国
    玉名郡横平山負傷後四月二日
    福岡縣筑後国久留米病院二於テ死
    滋賀縣近江国愛知郡三津村平民

『高島郡誌』には、以下の15名が西南戦争の戦死者として掲載されています。
 ①剣熊村 2名 谷口筆松(山中)、谷口由造(野口)
 ②海津村 1名 南部由松(海津)
 ③西庄村
 ④百瀬村 1名 中川寅吉(知内)
 ⑤川上村 1名 大森六蔵(日置前)
 ⑥今津村 1名 古我梅治郎(大供)
 ⑦三谷村 
 ⑧饗庭村 1名 尾島五次郎(熊之本)
 ⑨新儀村 1名 清水清五郎(藁園)
 ⑩本庄村
 ⑪青柳村 1名 中井藤吉(青柳)
 ⑫安曇村 2名 岸嘉七(西万木)、日置住吉(三尾里)
 ⑬広瀬村 1名 井上亀吉(上古賀)
 ⑭水尾村
 ⑮大溝村 1名 内田幸吉(永田)
 ⑯高島村
 ⑰朽木村 2名 仲村銀蔵(地子原)、朽木雄六(市場)
高島郡出身者だけを取り上げれば、尾島五次郎、中村銀蔵そして駒井新吉の3名の墓碑が山川招魂社に存在します。しかし、駒井新吉は墓碑が存在するのに『高島郡誌』の名簿に欠落しています。
 ちなみに『大津市志』には、駒井新吉の名前があります。ですから、高島郡出身者で西南戦争で戦没した人たちの名簿は、その後判明した分を含めて、作成しなおす必要があります。  名簿のなかで、個人墓碑を見つけたのは、あと日置住吉です。旧真田山陸軍墓地にあります。記事は→ここ

「陸軍歩兵三上九左衛門碑」@畑墓地は明治39年以降のものではないか?2010/12/03

「陸軍歩兵三上九左衛門碑」@畑墓地
旧高島郡高島町畑の墓地の入口には、「故陸軍歩兵一等卒林甚蔵碑」が聳える。共同墓地に入る人すべてがこの巨大な墓碑に一礼をしてから、自分の祖先の墓碑に向かったのではないだろうか。
その向こうにも、もう一つ墓碑が見える。
大きさも林甚蔵のものと比べても、そん色がなく、より古い気さえする。
それが、「陸軍歩兵三上九左衛門碑」である。
どうしたことは、まともに側面の碑文を撮影したファイルが見つからない。仕方がないので、小さな部分を引き延ばしてなんとか文字を読み取ろうとしている。
「敦賀第十九聯隊」という文字が読める
この墓碑は、日清戦争や、日露戦争にかかわる墓碑ではなく、もっと後のものではないだろうか。なぜなら、明治39(1906)年10月に軍備編成改正があり、高島郡が大津に営所をもつ第九聯隊から敦賀に営所をもつ第十九聯隊の管轄区にかわったからである。

それにしても、撮り忘れはよくない。
・・・にわか雨が降った日だったっけ?

日清戦争の個人墓碑は、”いつ”建てられたのか?Ⅰ ~ 「陸軍歩兵上等兵吉田伊之助碑」の場合~2010/12/03

「陸軍歩兵上等兵吉田伊之助碑」左側面
 亡くなってすぐに、墓碑がつくられるわけではありません。それは葬儀と埋葬に詳しくない私でも、わかることでした。りっぱな墓碑は、それなりの資金と時間がかかるはずですから。
 しかし、技術的な事情はともかく、社会的な事情の方が大事だと思います。
 共同墓地への埋葬は土葬が基本でした---明治政府が当初、土葬を禁止したということは先日、教えていただきましたけれど。しかし、戦死者の場合は、遺骸が帰ってきませんでした。そういう戦死者をどう悼むのか---この問題に遺族はもちろん戦死者が属した集落が直面したと思います。
 その結果、土葬し、その上に木製の墓標を建てるという方法ではなく、永久にその場が土葬で使えなくなり、土地が不足する(これもお聞きした事情ですが)にもかかわらず、石碑を置くことになったのでしょう。しかし、それには資金も必要になります。
 ですから、”いつ建てられたのか”は、大事な問題になると思いました。集落が戦死と向かい合い、どう悼むべきかの結論を出すのにかかる時間だからです。そして、それは集落だけの事情ではなく、戦死者の追悼をめぐる社会的な風潮にも左右されたと思います。
 私は、戦没者が、どの隊のどの階級に属していて、いつ、どこで戦没したのかに注目してきました。たしかに、墓碑の所在を確認しつづけてきましたが、墓碑の建てられた事情や年月日には注目してきませんでした。
 むしろ、戦死者の場合は石造の墓碑を建てることを当然というつもりで見ていたからです。もっといえば、死者には石造の個人墓碑を建てるのが普通と考えていたからです。この考えはすぐに変わりましたけれど、”いつ建てられたのか”には、注目が向きませんでした。
 注目するきっかけは、宮野墓地の「陸軍歩兵上等兵吉田伊之助碑」でした。
 吉田伊之助は、水尾村大字宮野出身。近衛歩兵第二聯隊に所属。上等兵。亡くなったのは、明治28(1895)年8月27日。死亡場所は、基隆兵站病院(『高島郡誌』)です。
 墓碑の左側面は上の写真です。碑文(下に解読した文あり)の最後に「明治三十八年十二月建之」と刻まれています。
明治二十七八年之役為近衛師團守備兵服務於清國大連湾盛京省後従?湾土匪討伐隊勇戦於各乃戦功不少而一朝罹病歿於台湾基隆兵站病院享年實二十有八关
明治三十八年十二月建之
 つまり、碑が建てられたのは、吉田伊之助が戦病死してから、十年後のことでした。日清戦争どころか、日露戦争の終戦後のことです。これは、どういう事情によるのだろうかというのが私の疑問です。
左が吉田伊之助碑、右が鈴木勘三郎墓
 同じ墓地に、日露戦争の戦没者の墓碑が1柱あります。上の写真の一番左の大きい墓碑が吉田伊之助碑、その隣の少し小さめの墓碑です。この墓碑の正面に「陸軍歩兵一等卒勲八等功七級鈴木勘三郎墓」と刻まれています。
 鈴木勘三郎は、同じ水尾村大字宮野出身。日露戦争で明治37(1904)年8月1日に、滾子泡で死亡しています。
 鈴木勘三郎の墓が建てられるのに合わせて、吉田伊之助の碑が建てられたのでしょうか。しかし、二つの墓碑の大きさは違いますし、碑文の記述の仕方が違うので、同時とは思えません。

日清戦争の個人墓碑は、”いつ”建てられたのか?Ⅱ ~ 「陸軍輜重輸卒山崎松蔵碑」の場合~2010/12/03

鳥居よりも背の高い「陸軍輜重輸卒山崎松蔵碑」@田中墓地
 安曇川町田中墓地にある「陸軍輜重輸卒 山崎松蔵碑」。この巨大な墓碑について、もう一度考えることにしました。
 この墓碑は、墓というよりは、記念碑だと思いました。建てられた当初の場所を教えていただきましたが、集落でも、目立つ場所でした。それは、共同墓地の中に建てられた(移動していなければ)宮野の吉田伊之助の碑とは、違います。

この墓碑は、いつ建てられたのか、
それはどういう時期、どういう事情だったのか。

 陸軍輜重輸卒山崎松蔵は、高島郡安曇村大字田中出身。『高島郡誌』では、所属は、仁賀宗太郎と同じ、大阪第四師団工兵第四大隊となっています。亡くなったのは、明治28(1895)年5月4日。清国金州兵站病院でした。
 第四師団は、所属特科として、野砲兵第四大隊、騎兵第四大隊、工兵第四大隊、輜重兵第四大隊をもっていました。山崎松蔵は、輜重輸卒ですが、工兵第四大隊なんでしょうか。
 墓碑の右側面には、「明治三十二年三月 従三位伊藤紀書」と刻まれています。
 「従三位伊藤紀」とはどういう人物なのかにも興味がありますが、戦病死してから、4年後に建立されたました。

戦没から4年間かかった理由はなんなんでしょうか。
それは、どういう四年間だったのでしょうか。
また、なぜ、明治32(1899)年だったのでしょうか。

   私なりに考えはじめました。
最初に浮かんだこと---それは、靖国神社の発展と無縁ではないのではないかということです。
 日清戦争とその直後の台湾征服戦争は、初の対外戦争でした。そして、膨大な数の戦没者が生まれました。数だけの問題ではなく、それぞれの集落にとっては初の戦死者体験でした。
 そのような社会的な衝撃とかかわって、明治28年12月15日には、1,496名が靖国神社に合祀され、16日から18日にかけて、臨時大祭が行われました。もちろん、実際の死者に比べてあまりに少数の合祀でした。
 村上重良『慰霊と招魂』(岩波新書)によれば、「こののち、日清戦争と台湾征討の戦没者の合祀は、調査の終了を待って数年間にわたって逐次行なわれ、その総数は一万四八○○余名に達した」のでした。
 山崎松蔵の場合は、戦没から碑の建立まで4年かかりましたが、こういう「調査」と「合祀」の流れのなかで、碑が建立されたのでしょう。
 いまの段階では、これ以上わかりません。直接的な資料を探しています。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)