
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
氷川隆夫『夏目漱石と戦争』(平凡社新書) ― 2011/07/03
氷川隆夫『夏目漱石と戦争』を紀伊国屋で手に取り、まえがきや結びにかえてなどを読んでいたとき、頭に浮かんだのは、ある映像作品でした。フランスのモンサンジョン氏が編集したスビャトスラフ・リヒテルをめぐる作品「Enigma」です。
去年の秋ごろに、日露戦争の『戦時事績』を手に入れて、読んでいたことは、なんどか書きました。この事績を読み続けるのは苦痛です。当たり前だと思っていても、苦痛です。それは、戦争への無条件的な協力の姿勢に貫かれているからです。出征者の壮行会から始まり、慰問や募金、戦死者の弔いなど濃厚な社会ぐるみの活動が描かれています。もちろん、批判的な人や憤りの声はあったでしょうけれど、この事績からは無視されています。
その息苦しさにいつもため息をつくのです。
社会ぐるみの監視体制と人権抑圧という点では、ピアニスト、スビャトスラフ・リヒテル(1945~1997)が生きた環境は、もっとも厳しいものの一つでした。たとえば、生粋のドイツ人である父は、スパイ容疑で処刑され、自らの演奏活動は様々な制約をうけ、監視されつづけました。リヒテルの凄味は、そのような不自由な生活を強いられながらも、「自由」であった点です。政治的な自由は、体制を打破しなければ得ることはできないでしょう。私は、そういうことを意味しているのではないのです。
力では屈服させることのできない心の働きのようなものがいいたいのです。むき出しの暴力を目に前にして、また社会全体を覆い尽くす集団的な熱狂に抗して、「自由」であることは容易なことではありません。
氷川隆夫氏の本を読んだとき、感じたのは、この「自由」の感覚でした。いかえれば、強まる国家主義のなかでそれと対決し、戦い続けた人がいることの救いでした。
日清戦争、日露戦争以降の時代は、つねに戦争をしていて、治安維持法をはじめ国民への圧政で特徴づけられる暗い時代という印象を私はもっています。そういう時代に、漱石は、どのように生きたのか、著者が描きだす姿に興味津々です。
去年の秋ごろに、日露戦争の『戦時事績』を手に入れて、読んでいたことは、なんどか書きました。この事績を読み続けるのは苦痛です。当たり前だと思っていても、苦痛です。それは、戦争への無条件的な協力の姿勢に貫かれているからです。出征者の壮行会から始まり、慰問や募金、戦死者の弔いなど濃厚な社会ぐるみの活動が描かれています。もちろん、批判的な人や憤りの声はあったでしょうけれど、この事績からは無視されています。
その息苦しさにいつもため息をつくのです。
社会ぐるみの監視体制と人権抑圧という点では、ピアニスト、スビャトスラフ・リヒテル(1945~1997)が生きた環境は、もっとも厳しいものの一つでした。たとえば、生粋のドイツ人である父は、スパイ容疑で処刑され、自らの演奏活動は様々な制約をうけ、監視されつづけました。リヒテルの凄味は、そのような不自由な生活を強いられながらも、「自由」であった点です。政治的な自由は、体制を打破しなければ得ることはできないでしょう。私は、そういうことを意味しているのではないのです。
力では屈服させることのできない心の働きのようなものがいいたいのです。むき出しの暴力を目に前にして、また社会全体を覆い尽くす集団的な熱狂に抗して、「自由」であることは容易なことではありません。
氷川隆夫氏の本を読んだとき、感じたのは、この「自由」の感覚でした。いかえれば、強まる国家主義のなかでそれと対決し、戦い続けた人がいることの救いでした。
日清戦争、日露戦争以降の時代は、つねに戦争をしていて、治安維持法をはじめ国民への圧政で特徴づけられる暗い時代という印象を私はもっています。そういう時代に、漱石は、どのように生きたのか、著者が描きだす姿に興味津々です。

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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