
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
『安曇川町史』(昭和59年)には西南戦争の記述がない ― 2011/07/30
『高島郡誌』(滋賀県高島郡教育會)は、昭和2(1927)年に発行されています。「各戦役に於ける本郡民の戦病死者(=戦死者と戦病死者をあわせての意味)は左の如し」として、「明治十年西南戦役戦病死者」(15名)、「明治二十七八年戦役(=日清戦争)戦病死者」(17名)、「明治三十七八年戦役(=日露戦争)戦病死者」(100名)の名簿が掲載されています。
昭和59(1984)年に、大冊の『安曇川町史』(安曇川町役場)が発行されました。戦争と戦死者を扱った部分は「第六章 第七節 軍事と災害」です。この節は、つぎの三つの項目にわかれています。
節の最後に戦没者名簿(510名)があります。しかし、「表5 満州事変以後戦没者氏名」となっていて、それ以前の戦死者の名前はありません。
名簿は『高島郡誌』と重ならないという意図かも知れません。それは譲ったとしても、本文の叙述から、西南戦争が抜け落ちるのは、納得がいきません。安曇川の過去を振り返ろうと思ったとき、最初に参考にするのは、この『町史』ではないでしょうか。そのときに、日清戦争と日露戦争と郷土との関係には、気づいたとしても、西南戦争とのかかわりは視野に入らなくなります。
いままで農業や漁業、商業にたずさわっていた若者を、強制的に軍隊に入れることを決めたのが、明治6年の徴兵制度でした。明治8年には大津市に歩兵第九聯隊の営所ができます。安曇川を含む高島郡の若者は、そこへ入営し、軍事訓練をうけはじめました。実戦は、わずか2年後にやってきます。相手は当時最強と思われていた鹿児島の士族。第九聯隊の兵士は田原坂をはじめとする激戦地にいきなり投入されました。田原坂のたたかいは、3月4日から17昼夜たたかわれました。高島郡出身者だけをとれば、わかっているだけで、3月6日には、剣熊村の谷口筆松と百瀬村の中川寅吉が戦死。同8日には、川上村の大森六蔵。10日には、剣熊村の谷口良造と新儀村の清水清五郎。12日には、安曇村の岸嘉七。
戦没者の数は、その後の戦争には及びません。しかし、最初の衝撃はいかばかりだったのか。上記のように、西南戦争が、この地にまで影響を及ぼし、その犠牲者が身近にいたという事実が、叙述からも記憶からも消えていくのは、いいことだとは思いません。いまも残る墓碑は、遺族の悲しみと忘れないでというメッセージを伝えているように思えます。
昭和59(1984)年に、大冊の『安曇川町史』(安曇川町役場)が発行されました。戦争と戦死者を扱った部分は「第六章 第七節 軍事と災害」です。この節は、つぎの三つの項目にわかれています。
1.饗庭野と船木飛行機発着場「2.明治の戦争」は、徴兵制度や西南戦争に触れることなく、「日清戦争と日露戦争」から叙述が始まります。
2.明治の戦争
3.洪水と南郷洗堰
節の最後に戦没者名簿(510名)があります。しかし、「表5 満州事変以後戦没者氏名」となっていて、それ以前の戦死者の名前はありません。
名簿は『高島郡誌』と重ならないという意図かも知れません。それは譲ったとしても、本文の叙述から、西南戦争が抜け落ちるのは、納得がいきません。安曇川の過去を振り返ろうと思ったとき、最初に参考にするのは、この『町史』ではないでしょうか。そのときに、日清戦争と日露戦争と郷土との関係には、気づいたとしても、西南戦争とのかかわりは視野に入らなくなります。
いままで農業や漁業、商業にたずさわっていた若者を、強制的に軍隊に入れることを決めたのが、明治6年の徴兵制度でした。明治8年には大津市に歩兵第九聯隊の営所ができます。安曇川を含む高島郡の若者は、そこへ入営し、軍事訓練をうけはじめました。実戦は、わずか2年後にやってきます。相手は当時最強と思われていた鹿児島の士族。第九聯隊の兵士は田原坂をはじめとする激戦地にいきなり投入されました。田原坂のたたかいは、3月4日から17昼夜たたかわれました。高島郡出身者だけをとれば、わかっているだけで、3月6日には、剣熊村の谷口筆松と百瀬村の中川寅吉が戦死。同8日には、川上村の大森六蔵。10日には、剣熊村の谷口良造と新儀村の清水清五郎。12日には、安曇村の岸嘉七。
戦没者の数は、その後の戦争には及びません。しかし、最初の衝撃はいかばかりだったのか。上記のように、西南戦争が、この地にまで影響を及ぼし、その犠牲者が身近にいたという事実が、叙述からも記憶からも消えていくのは、いいことだとは思いません。いまも残る墓碑は、遺族の悲しみと忘れないでというメッセージを伝えているように思えます。
これは鍾馗ではなく、恵比寿ですね ― 2011/07/30
「くじゅう高原フラワーズヴァレー」にて ― 2011/07/30
船中で亡くなった『陸軍歩兵二等卒勲八等中西鍵次郎墓』@西万木墓地 ― 2011/07/30
「陸軍歩兵上等兵勲八等横江菊次郎墓」@西万木墓地 ― 2011/07/30
日露戦争の戦病死者は、安曇村では10名。うち、大字西万木の出身者は、日置鹿蔵、中西鍵次郎そして、上の墓碑に刻まれた横江菊次郎の3名でした。
旅順要塞への攻撃で戦死した横江菊次郎の墓碑は、西万木の墓地にあります。見ての通り、正面の文字のいくつかは、読み取ることが困難な状態にあります。それ以上に心配なのは、土台の石組みが崩れ始めていることでした。
旅順要塞への攻撃で戦死した横江菊次郎の墓碑は、西万木の墓地にあります。見ての通り、正面の文字のいくつかは、読み取ることが困難な状態にあります。それ以上に心配なのは、土台の石組みが崩れ始めていることでした。
安曇村出身の日露戦争戦病死者(『高島郡誌』を参考に)
●横江 菊次郎 安曇村大字西萬木
明治37年8月21日 東鶏冠山
*西万木墓地。砲弾型
●薬師川 彌市 安曇村大字田中
明治37年8月24日 旅順
*田中墓地。砲弾型墓碑
●藤澤 傳治郎 安曇村大字田中
明治37年8月21日 旅順要塞
*田中墓地。砲弾型墓碑
○日置 鹿蔵 安曇村大字西萬木
明治37年8月21日 旅順要塞
●前川 幸太郎 安曇村大字田中
明治37年10月6日 東干家野戦病院(病死)
*田中墓地。砲弾型墓碑
●福井 彌七 安曇村大字三尾里
明治38年4月1日 廣島予備病院(病死)
*常盤木・十八川墓地
●河井 角右衛門 安曇村大字常盤木
明治38年3月12日 大坂予備病院(病死)
*常盤木・十八川墓地
○多胡 徳治郎 安曇村大字常盤木
明治37年10月3日 遼陽兵站病院(病死)
●熊谷 新次郎 安曇村大字田中
明治37年9月3日 ドウズアシュアンシウズイ
*田中墓地。砲弾型墓碑
●中西 鍵次郎 安曇村大字西萬木
明治38年3月23日 対馬付近船内
*西万木墓地。砲弾型。

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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