お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「故海軍一等機関兵 井上軍三 墓」@西万木墓地2011/07/31

「故海軍一等機関兵 井上軍三 墓」@西万木墓地
 西万木墓地には、日露戦争期の墓碑が3柱あるように思います。砲弾型の墓碑を左右にして、中央にある四角柱・四角錐型の墓碑。それが「故海軍一等機関兵勲八等井上軍三墓」です。海軍の墓碑はめずらしいものです。
 この方の名前は、『高島郡誌』の戦病死者の名簿にありません。『安曇川町史』の「満州事変」以降の戦没者名簿にもありません。
 背面の碑文がさしあたり唯一の手がかり(墓地の関係者に聞くのが一番かも知れませんが)です。
読める範囲では以下のような碑文です。下線がとくに自信ありません。
明治三十五年入舞鶴海兵團三十七八年戦役起也従軍出征三十九年十一月真和遣米艦隊欺躍発航品川沖碇泊際死没矣
 日露戦争の終結させてポーツマス条約は、明治38(1905)年9月5日です。一等機関兵の井上軍三が死亡した日付が読み取れませんが、それが明治39年11月だったとすれば、講和から一年以上たっています。戦病死者とは見なされないので、名簿にないのでしょう。

カエルくん2011/07/31

カエルくん
 あぜ道を歩くと、そこここで草が揺れています。足を止めると、揺れはとまります。バッタかな・・・と思ったら、小さなカエルでした。焦点距離の長いレンズをもってこなかたので、手だけ伸ばして、適当に撮りました。
さすがに、保護色ですね。

日本の水田は美しい2011/07/31

田は美しい
九州のカミさんの里。山間地で、周りは棚田が広がっていました。美しいなぁと感嘆しながら、あぜ道を歩きました。

東日本大震災救援チャリティバザーに行きました2011/07/31

東日本大震災救援チャリティバザー
 大震災にあった被災地の海産物などを仕入れ販売するチャリティバザーが行われました。会場は、ご近所でもあり、電話でのお誘いに、夫婦で出かけました。
 「滋賀からのボランティア」の報告パネルもありました。
 手当たり次第購入して、5,000円なり。

三尾里墓地の二つの砲弾型墓碑2011/07/31

砲弾型墓碑が2柱見えます
 上は、高島市安曇川町の三尾里墓地です。やつしろさんがコメントで書いていましたが、戦死者・戦病死者の墓碑は、当初は、この地にはなかったとのことでした。最初の場所に案内していただけるとのことで、期待しています。
 三尾里墓地には、二つの砲弾型墓碑が見えます。「砲弾型墓碑」というのは、私の勝手な命名であって、実際の名称ではありません。「四角柱・四角錐型墓碑」も、勝手な命名です。砲弾型墓碑の胴体の部分は円柱です。四角柱よりも加工が困難でと思われますし、それだけ費用がかかったのでしょう。それまでして、この形になったのは、なぜか。当事者に聞くしか有りませんが、ネット上で興味深い話を見つけました。それは、15年戦争の戦没者のお墓を建てるときに、忠魂碑をかこむ柵の柱となっていた砲弾型の石を抽選で分け与えて、墓碑にしたというお話です。この場合は、墓碑の胴の部分短く、文字通り砲弾の形に見えます。高島市で何柱か見ることができる「砲弾型墓碑」は、普通の墓碑とおなじ高さで、転用したものとは思えません。
 墓碑の調査をはじめたときは、この形にこだわっていました。今は、形は本質的な問題ではないと思っています。ブログの「砲弾型墓碑」というカテゴリも必要ないでしょう。とはいえ、形態別に何柱あるかについては、答えを出したいとは思っていますが。
 左手の墓碑は、「故陸軍歩兵一等卒日置鹿蔵墓」、右手は、「故陸軍砲兵上等兵横井川四郎太之墓」と刻まれています。それぞれについて、見てみることにします。

旅順第一次総攻撃三日目に戦死した「故陸軍歩兵一等兵 日置鹿蔵 之墓」@三尾里墓地2011/07/31

旅順第一次総攻撃三日目に戦死した「故陸軍歩兵一等兵 日置鹿蔵 之墓」
 日置鹿蔵の名前は、『高島郡誌』の戦病死者名簿に掲載されています。出身地は「安曇村大字西萬木」、兵種は「歩兵」、階級は「上等兵」、戦病死年月日は「(明治)三十七年八月二十一日」、戦病死場所は「旅順要塞」でした。
 所属部隊は書いていませんが、上記から、陸軍歩兵後備第九聯隊ではないかと思いました。明治37(1894)年8月19日に第一次の旅順要塞総攻撃が行われ、失敗のうちに24日に中止されました。日置鹿蔵は、3日目に戦死したのです。
 たまたま昨晩、児島 襄『日露戦争』を文庫本で読んでいました。第三巻は、旅順要塞への第一次総攻撃をふくんだ巻でした。淡々とした描写でしたが、日露双方に名もない兵がばたばた倒れる胸が悪くなるような戦況でした。名前が掲載されないなかに、日置鹿蔵がいたのです。
 墓碑の背面には、碑文がありました。同類の墓碑以上に鹿蔵の個人的履歴が刻まれていました。誕生日は明治7(1874)年9月21日。30歳の誕生日を目前にして亡くなったのです。年齢からしても、後備兵であることがわかります。

大正十(1921)年に京都衛戍病院で亡くなった「故陸軍砲兵上等兵横井川四郎太之墓」2011/07/31

大正十(1921)年に京都衛戍病院で亡くなった「故陸軍砲兵上等兵横井川四郎太之墓」
 砲兵の墓碑には、あまりであったことがありません。正面の碑文には「故陸軍砲兵上等兵横井川四郎太之墓」と刻まれています。背面に個人離席があり、大正十(1921)年に京都衛戍病院で亡くなったことがわかります。たいていが、日露戦争(1894-95)の戦病死者の墓碑でしたが、これはそれからは、だいぶ後の時代のものです。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)