お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「七本柿木台場薩軍墓地」の見学記 その22008/08/29

「七本柿木台場薩軍墓地」入り口
 道路わきの案内板を見つけて、左折して、薩軍墓地の駐車場に入ります。
 10数台が収容できる駐車場は、アスファルト舗装。そこに面して、石の階段があり、そこが墓地の入り口となっていました。

七本柿木台場薩軍墓地」に到着しての第一印象は、農地のなかにさりげなく置かれている素朴な墓地ということでした。もちろん、墓地にけばけばしさは似合いません。わかりやすくいえば、観光地としてわざとらしい扱いがないということでしょうか。それでも、駐車場などが整備されて、史跡としての扱いになっています。
 先の日記には、おそらく墓地創設のころのものと思われる「薩軍墓地」という石碑の写真を載せました。こちらのほうが、きれいな木の案内よりも私にとっては貴重なものです。私は、できるだけ当初の姿に触れたいと思っていましたから。



 「西南役薩軍戦没者墓碑」と金文字が彫られた記念碑があります。
 これは死者を悼んで建立されたのでしょうけれど、薩軍墓地の当初の形態に触れたい私には、複雑な気分なのです。史跡としての薩軍墓地、死者を追悼する施設としての薩軍墓地ともに、大切にすべきだとは思います。

「七本柿木台場薩軍墓地」の見学記 その12008/08/29

「七本柿木台場薩軍墓地」
 官軍と薩軍にわかれて、両軍あわせて7万8千の兵力がたたかい、1万6千の死者を出した1877年の西南戦争。大河ドラマの素材とならなければ、関心をもつ人が多くはないでしょう。
 下の写真は、旧真田山陸軍墓地(大阪玉造)にある西南戦争で亡くなった方の墓碑です。



 ごらんのように西南戦争ではなく、「鹿児島県賊徒征討之役」と刻まれています。昨年、はじめて見て衝撃を受けました。この烈しい非難をこめた名称は、明治政府の側の危機感の現れにほかなりません。



 それだけに、官軍墓地だけではなく、薩軍墓地が存在することに別の驚きをもちます。
 死ねば同じなのですから、ともに葬るという考え方もありえます。しかし、死後も官軍と薩軍の墓地を明確に分けたところに、戦争のもたらした内戦の傷跡が見えるのです。

 お盆明けのブログにも書きましたが、実際に行ったのは、8月15日です。大分竹田市に到着したときに、いきなり行くことを思い立ったので、事前の調査なしでした。ともかく、いくつかある官軍墓地・薩軍墓地のなかで、一つでも見ることができたらいいというのが私の希望でした。
 田原坂を見ることを第一にして、その付近の官軍墓地・薩軍墓地を探しました。そこで、到着したのが、「七本柿木台場薩軍墓地」でした。
 「七本官軍墓地」とは目と鼻の先でした。

「七本官軍墓地」で大阪鎮台第九連隊兵士の墓碑を探す2008/08/20

七本官軍墓地の看板
西南戦争で戦死した官軍将校と兵士の墓地を見て回りたいというのが昨年からの私の希望でした。今年の夏、その一部がかなうことになりました。
強引に家族を連れ出しましたが、H君は「お父さんの趣味につきあわされる」といって苦笑しています。
8月15日。九州に到着したその日に出かけました。
午後からの半日の日程しかありません。ですから、「田原坂」と「七本(なもと)官軍墓地」をめざして、竹田市から出かけました。
 車で2時間近く走り、ようやく道沿いに「七本官軍墓地」の看板を見つけました。私は勇んでハンドルを切りましたが、家族はどうも迷惑そうです。





ここには約300名の墓碑があります。
1柱づつじっくり見て回りたかったのですが、家族のことを考えるとそうはいきません。K君に手伝ってもらって、ある墓碑を探しました。それは、私の住む大津市にあった「大阪鎮台歩兵第九連隊」兵士の墓碑です。





時間がなかったので、すべての墓碑に目を通したつもりでも見落としがあるかも知れません。見つけたのはこの1柱だけでした。
それでも、大津に営所を置いた第九連隊の兵士の墓碑が現地に存在するということが推測や伝聞だけでなく、事実として確認できたことは収穫だと思いました。

K君は聞きました。
「お父さん、こんなことしてなんの意味があるの」
言葉につまりました。
とてもひとことではいえなかったからです。
その間に、K君は別のところに関心が移ったようで、話題は流れていきました。

私がK君にいいそびれたのは、一つの問いかけです。

明治政府により強制的に徴兵され、わずか2年間で激戦地に派兵され、亡くなった若者たち。その墓がここにある・・・。第二次世界大戦まで続く軍国主義・日本の悲劇の最初の犠牲者がここに眠る。その若者たちに、130年の時をへだてて、私が向かい合いたいと願うのは、なんのためだと思いますか。

「旧大津陸軍墓地」調査に立ち返って2008/06/16

旧大津陸軍墓地のKとLブロック
 3月から約3ヶ月も「旧大津陸軍墓地」についての記事を書いていません。考え続けていても、ブログにはアップする気になれなくて。
 敗戦記念日(8月15日)までになにかをまとめたいと思うので、立ち戻ることにします。
 先日、旧真田山陸軍墓地の墓碑名簿を見せていただきました。一柱づつ、ID番号が振られていて、刻まれている文字が記録されています。そういう地道な作業をしなければいけませんね。
 元となる名簿は、1970年代中ごろに作成されていますので、それをもとにして、訂正と補完することから、始めることにしましょう。
 今日までにいくつかの名簿はできていますので、手付かずのブロック(KとL)に着手してみたいと思います。
 合計239柱です。

「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」ミニ研究会への報告2008/03/23

 2008年3月23日(日)の午後3時15分から約2時間行われたミニ研究会に、私が提出したレジュメの内容です。

●旧大津陸軍墓地の概要とその保存について

              2008年3月23日

 旧大津陸軍墓地は、琵琶湖を見下ろす丘陵地「大津市皇子が丘1丁目字部屋ヶ谷」にある。JRの西大津駅や京阪皇子が丘駅から、徒歩で10分かけて、坂道を登った先にある。
 周囲は、公園や神社があり、当初の静かなたたずまいは、まだ残っている。
 だが、この墓地の存在は市民にはほとんど知られていない。墓地の歴史的意義と保存についての市民的議論は、これからである。
 戦後60年以上たちながら、荒廃をまぬがれているのは、市と護持奉賛会の努力によっている。
 旧真田山陸軍墓地に「旧真田山墓地とその保存を考える会」があるように、旧大津陸軍墓地にも保存を考える会を現在つくろうと活動をはじめているところである。

Ⅰ.墓地の成り立ちについて

建設計画のはじまりと竣工

 第四鎮台大津営所の出発は、1873(明治4)年の六鎮台制移行にある。これにともなって、第九連隊を大津に置くことが決まった。もともと軍事用の施設のない場所に設置されたために、工事に手間取り、連隊が入営したのは、1875(明治8)年3月のことである。
 「埋葬地」の建設計画は、1875(明治8)年7月31日「第三十一号陸軍埋葬地取設旁御達」にはじまり、1877(明治10)年10月7日に竣工した。
 営所が機能し始めると練兵による死者は避けがたく、現在の旧大津陸軍墓地には、入営から竣工までの期間になくなった軍人の墓碑が37柱ある。その最初の日付は、1875(明治8)年7月15日となっている。

第一段階 竣工時の形態

 当初の形態は、丘陵地の坂に沿って、中央の通路をはさんで、上段・中段・下段という形をとっていた。上段は将校用、中段は下士官用、下段は兵卒用という秩序である。

  第二段階 増設

 この形態に変化が起こるのは、日清戦争(1894~95)以後である。  明治30(1897)年に、「大津埋葬地」の増設の願いが出され、同年6月17日に承認が下りた。
具体的には、中段の墓地を西に拡張するものであった。
 旧大津陸軍墓地には、日清戦争にかかわって、将校1柱、下士官14柱、兵卒206柱の墓碑が置かれている。このうち、兵卒206柱の墓地がいちどきに必要となったためにこの増設となった。

第三段階 移設

 旧大津陸軍墓地の保存にとって、重大な改変は、1976年に起こる。 バイパス道路が、旧大津陸軍墓地の中を走ることになり、下段が破壊され、中段に移葬されることになったからである。
したがって、保存という場合、現状そのものを残すというのではなく、もとあった形がどうであったのかが重大となる。
一見してわかることは、現在の旧大津陸軍墓地が、当初の三段ではなく、二段の形態をしているということである。下段が失われ、旧中段がいちじるしく西に拡張されている。
それだけではない。
新たな記念碑や宗教施設が創設された。
このようなバイパス工事による改変は、陸軍墓地をどう変えたか、また保存との関係でどう考えるべきなのか。
変化した点を挙げてみる。
 第一は、兵卒の墓地として使われていた墓地がなくなり、当初の形態であった「上段・中段・下段」という三層構造から、上段と下段(旧中段)というから二層構造になったことである。
 237基(全体の4割を越える)あった個人墓碑が、どこからどこへ移葬されたかは、確認することができた。しかし、死後もなお軍人が階級ごとに埋葬場所が峻別されていたことが目で見てわかる当初の構造は失われた。
 第二は、騒々しいバイパス道路に直接隣接することにより、墓地としてのたたずまいは大きく損なわれた。
 これは、バイパス工事だけのせいではない。この土地は「部屋ヶ谷」と呼ばれ、遺跡が散在する地域だった。それが、同じ70年代に住宅開発され、現在の千石台団地ができた。これも、陸軍墓地の遺跡としての環境をそこねることにつながったのだと思える
 第三は、この工事により、墓地は打ち捨てられるのではなく、記念碑や供養塔などの建設で、行政によって位置づけられるようになったのではないだろうか。保全に努めてきた奉賛会の存在の大きさが反映していると私には思える。

付録 移葬の記録

  1976年にバイパス工事のために、旧大津陸軍墓地の下段の墓碑237柱が掘り返され、移葬されることとなった。
 埋葬当時は、土葬。そのために、強烈な異臭が漂う作業となった。座棺で葬られていて、骨は失われていたが、靴などはそのまま残っていた。同時に、大量の土砂が棺に入っていたという。
 それぞれの兵士の遺留品は移葬した墓碑に埋めなおされたが、土はまとめて、「超日月光 霊土」の祭壇の下に埋められた。しかし、それだけでは収まりきらない量であった。
 「ひとかけらといえども、道路の足蹴にしない」という奉賛会の意向もあり、その土は、「霊土」と名づけられて、もう一箇所別に埋める場所が確保された。それが、中段(現在の下段)の東側Bブロック付近である。  そこに目印として、「霊土」の碑が置かれている。

Ⅱ.現在の旧大津陸軍墓地の構造から

①上段

上段の墓地は、所有から見ても、内容から見ても、二つに分けることができる。
 東側は、国の所有地であり、将校(および合葬碑)の墓地。これをAブロックと呼ぶことにする。
西側は、大津市の所有地であり、民間人(将校の親族)の墓地である。これをMブロックと呼ぶことにする。
 実際の線引きは存在しても、外観のうえから、両者の境目を示すものは存在しない。
 戦後、ここに慰霊碑が造られた。

  ②下段(旧中段)

 当初は、中央の通路を挟んで、同じ大きさであったはずだが、現在は、西に二度にわたって拡張されているため、通路の西側が巨大となっている。
 ここには、いくつかのまとまった墓地がある。

   日清戦争の下士官の墓地(東側下手)。
     Bブロックと呼ぶ。
   当初からある下士官の墓地(東側山手)。
     Cブロックと呼ぶ。
   当初からある下士官の墓地(西側山手)。
     Dブロックと呼ぶ。

  これら3つは、1877(明治10)年に竣工された地所内にある。

  次に、1897(明治30)年に西側に増設された地所には、3つの墓地がある。現在は、下段(旧中段)の中央にあたるところである。

   日清戦争の兵卒(士官候補生1)の墓地(山手)。
     Eブロックと呼ぶ。
   埋葬地建設までに亡くなった軍人の墓地(下手)。
     Fブロックと呼ぶ。
   ロシア人俘虜の墓地(1柱)。
     Gブロックと呼ぶ。
    ロシア人俘虜の墓地は1柱だが、孤立しているので別ブロックにした。

 バイパス工事で移設された墓地。合計、237柱。

   兵卒の墓地(山手)
     Kブロックと呼ぶ。139柱。
   兵卒の墓地(もっとも西)
     Lブロックと呼ぶ。98柱。

Ⅲ.彦根・大洞埋葬地からの移設

 旧大津陸軍墓地は、その成り立ちからして、陸軍歩兵第九連隊にかかわる死者が眠る墓墓地である。たまたま、大津営所に赴任してなくなった下士官の墓碑や俘虜は例外といえる。
 しかし、特別な事情で、移設された墓碑がある。
 それは、四鎮台制時代に、彦根に置かれた小浜。大洞埋葬地からの移設である。
 この事情を示す文書が残っている。

Ⅳ.合葬碑について

 旧大津陸軍墓地には、合葬碑・記念碑が9基ある。そのうち、戦前の合葬碑は5基である。
   ( )内は場所。
 明治三十七年戦役将校同相当官戦病死者合葬碑
   (上段西山手側)
 大正四年乃至九年戦役戦病死者之碑
   (上段西下手側)
 明治三十七年戦役准士官戦病死者合葬碑
   (中段東側上手)
 明治三十七年戦役下士戦病死者合葬碑
   (中段東側下手)
 明治三十七年戦役兵卒戦病死者合葬碑
   (旧下段東側・現中段西側)

 戦後に建てられたものしては、「大東亜戦争無名戦士之碑」、「日清日露第一次第二次世界大戦各戦役戦没之英霊供養塔」、「超日月光 霊土」、旧大津陸軍墓地移転対策委員会の碑、「霊土の碑」である。
 旧真田山陸軍墓地と同様に、日露戦争の合葬碑は4柱あるが、別々の場所にあるのが特徴である。このうち、兵卒の合葬碑は、バイパス工事の関係で中段に移設されている。

Ⅴ.個人墓碑について

  個人墓碑は、1976年の調査(大津市)のときは、565柱確認されているが、現在は、564柱しか存在しない。1柱失われている。 その内訳は、将校の墓碑が、20柱。下士官が54柱。士官候補生1柱。兵卒が478柱。民間人が11柱、外国人俘虜3柱である。

以上

ミニ研究会用メモ:旧大津陸軍墓地には、いったいくつの個人墓碑があるのか?2008/03/19

●旧大津陸軍墓地の個人墓碑数

 私が2007年11月に「旧大津陸軍墓地を語り合う会」をしたときに、数で混乱したことがある。
 だから、総数について、まずは確認することが必要である。

●大津市が作成した墓碑名簿

 大津市が1976年頃に作成した旧陸軍墓地の墓石の名簿がある。
 これを見る限り、個人墓碑は、565柱ある。ただ、名簿に登載されながら、(理由は不明)失われている墓石が1基だけあるので、現存するのは564柱である。
 私は、この名簿と実際を照合してみたが、完全に一致している。氏名や階級の読み間違いや位置の間違いはあるにしても。

●ブロックごとの内訳

 大津市作成の名簿に登載されている個人墓碑の数字をブロックごとに挙げてみる。

Aブロック  20   将校
Bブロック  15   下士官
Cブロック  18   下士官
Dブロック  19   下士官
Eブロック 207   兵卒(士官候補生1)
Fブロック  37   兵卒と下士官
Gブロック   1   ロシア兵俘虜
Kブロック 139   兵卒と清国兵俘虜(2)
Lブロック  98   兵卒
Mブロック  11   民間人(将校の縁戚)
個人墓碑合計    565

●旧大津陸軍墓地移転対策委員会の碑

 旧大津陸軍墓地の敷地にバイパスを通すこととなり、そのために破壊される墓地の移転問題が生まれた。移転を担ったのが、この「旧大津陸軍墓地移転対策委員会」であると思われる。
 ところが、この委員会が残した碑を見ると、「将兵559柱」と刻まれている。
 この数字は、大津市が名簿に載せている565柱と一致しない。もっとも、「将兵」といっている以上、そうではないものを除外した数字ということになるだろう。
 つまり、6柱が除外されていることになる。

●6柱はどれか?

 将兵ではない墓碑は、たしかに、Mブロックに存在する。だが、それは、13柱(現存は12柱)であって、6ではない。

「俘虜清人」とその収容所の写真があるはず2008/02/25

「星野錫より 俘慮清人の実況其他戦地の状況撮影の件」という明治27年11月5日付けの文書が、「アジア歴史資料センター」にあります。
 これによれば、松山、大阪、大津、名古屋、豊橋、佐倉などの収容所で写真が撮影されていることがわかります。

朝第三五九六号 星野錫 俘虜清人ノ実況其他戦地ノ状況撮影ノ件 廿七年十一月五日 御指令案 願之趣戦地ノ景況撮影ノ儀ハ種板ヲ貸下当省ヘ申出ツヘシ 但俘虜清人ノ状況及負傷者治療実況撮影ノ儀モ松山、大坂、大津、名古屋、豊橋、佐倉等俘虜所在地ノ俘虜廠舎若クハ俘虜所在病院申出其指揮ヲ受クヘシ又撮影ノ上ハ見本トシテ各五枚ツツ当省ヘ納付スヘシ 高級副官ヨリ留守第一第三第五師団及第四師団各参謀長ヘ通牒案 東京市日本橋区兜町二番地東京製機会社支配人星野錫ヨリ本邦@留ニ係ル俘虜清人ノ状況及負傷者治療実況撮影致度願出候弥御伺届相成俘虜所在ノ俘虜廠舎及病院ヘ申出ツヘキナリ御指令相成候間撮影ノ儀申出候節ハ可成仮写ヲ与ヘラレ度旨予メ其向ヘ。C05121606800


写真を入手できるものなら、してみたいものです。

軍、経、医、法の局部より 俘虜取扱の件(明治27年8月22日)2008/02/25

 日清戦争での俘虜の扱いについての陸軍の指示文書が「アジア歴史資料センター」で見つけることができましたた。明治27(1894)年8月22日。
 これに基づいて、日本国内に送られた俘虜が取り扱われたと思われます。

第一〇〇号 至急 陸第七九号 臨経一甲第八八九号 軍一課第一〇五号 経一甲第八八九号 朝密第三四〇五号 今般装置相成候俘虜取扱ニ関シ左按之通訓令相成度及上申候也 明治二十七年八月二十二日 軍務局長 経理局長 医務局長 法官部長 留守第五師団長ヘ訓令按 今回戦地ヨリ装置候俘虜ハ左ノ規定ニ拠リ取り扱フヘシ 一 広島近傍防御線内ニシテ他日集中軍隊ノ舎営トナルベキ地区ト離隔シタル処ニ於テ俘虜廠舎ヲ設置スヘシ 二 俘虜廠舎ニハ寺院若クハ適当ノ民屋ヲ以テ之ニ充テ将校同相当官ノ居室ハ下士卒ト区別スヘシ 三 俘虜廠舎ニ容ルヽ人員ハ約百名ヲ限リトスヘシ島俘虜置場ノ人員満ツルトキハ逐次ニ丸亀松山ノ衛戌地ニ設クヘシ<

C05121518500

第8回研究会のお知らせ@旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会2008/02/22

私自身が会員である「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」が研究会を3月23日に開催します。
以下、「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」のホームページから転載しました。

第8回研究会

  3月23日(日)午後3時15分ごろより開催します。
  奈良と大津の陸軍墓地を勉強します。

この日は、本NPO法人主催のボランティアの方による定例の墓地案内会を予定していますが、これに引き続いて実施いたします。今回は大津陸軍墓地と奈良陸軍墓地について、下記の通り、それぞれ詳しく調査された方の報告を聞きます。

 大津陸軍墓地については、すでに見学会も行いましたが、大津で調査の中心になっておられる井上敏一氏が報告してくれます。また、奈良陸軍墓地については、近畿大学の4年生で今年3月卒業される予定の谷口知宏さんが卒業論文として丹念に調査されたものです。谷口さんは本会が昨年夏大阪市立中央図書館内で展示会を行った際にも熱心に協力していただきました。

 大津と奈良。いずれも大阪鎮台=第四師団に関係する所で、しかも真田山陸軍墓地とは別の陸軍墓地です。この二つを知ることによって旧真田山陸軍墓地についてもさらに新しい認識が生じることは間違いないものと期待しています。詳しい予定は下記の通りです。ぜひご参加ください。

【第8回ミニ研究会の実施要領】

開催月日と日時 2008年3月23日(日)
 午後3時15分ごろより約2時間

会場 旧真田山陸軍墓地内集会所
 大阪市天王寺区玉造本町。
 JR大阪環状線「玉造駅」下車西へ徒歩5分。
 または大阪市営地下鉄・長堀鶴見緑地線「玉造駅」下車、
 2番出口より徒歩1分

報告者と報告テーマ

   谷口知宏氏(近畿大学)
  「奈良陸軍墓地について―墓地の概要と埋葬されている将兵―」

   井上敏一氏
  「大津陸軍墓地の概要とその保存について」

 参加費 300円

予約不要。当日直接お越しください。


なお、陸軍墓地に関心のある方は、メールいただければうれしいです。

旧真田山墓地の日清戦争の墓地2008/02/21

旧真田山陸軍墓地の日清戦争の墓地
上の写真は、大阪の玉造にある旧真田山陸軍墓地。
そのなかの、日清戦争で亡くなった兵士の墓石がならぶ墓地です。

戦死ではありません。第四師団(大阪も大津も)は、日清戦争に出征し、船で広島を出て、朝鮮半島にむかうなかで、停戦となり、講和条約の締結となったからです。
 以前にもご紹介しましたが、日清戦争では、戦死者の10倍の規模で、病死者が出ています。過酷な現地と衛生設備の不備や医療知識の未発達(とくに脚気について)のためです。

 それぞれの墓碑に注目していきましょう。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)