
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
ストエカスラベンダー ― 2008/05/03
2枚目の画像のアップと拡大の方法ですが、こうしてます(hummingbirdさんへ) ― 2008/05/03
ブログ登録はずっと前なんですが、ちゃんとはじめたのはちょうど一年前の5月です。いろんな方のブログを見ながら、リンクの付け方とか、アクセサリーの付け方なんかがわかってきたのです。
どうしても、複数の画像を貼り付ける方法がわからなくて、悩んでいてやっと解決したのが一週間ぐらい前なんです。
私がやっている方法は、
①ダミーの日記をつくる
②そこに拡大機能をつかうにして画像Aをアップ。
③画像フォルダをあけ、画像Aをさがす
④その登録先をコピーして、
③使いたい日記の「記事本文」をHTMLを使うにして、
<img src="画像A">という形でアップする。
というものなんです。
私は、撮影した画像を900×600ぐらいに縮小してから、拡大機能を使用して、アップしています。
このままだと記事本文にナマでアップしたら、巨大になります。そこで、80%にしているのです。,
つまり、 <img src="画像A" width="80%">というようにです。
こうすると、まあ普通にアップする画像と同じ大きさになります。(私が自分のPCで見る場合ですけれど)
その画像を拡大表示させるにはどうするか?
もともとの大きさを表示すれば、拡大したのと同じ効果ですよね。
ですから、クリックすれば、元の大きさにいくようにしたのです。
つまり、
<a href="画像A"><img src="画像A" width="80%"></a>
ところで、最初の”画像A”を別の画像にすれば、
クリックしたら、別の画像がでるので面白いかも。
どうしても、複数の画像を貼り付ける方法がわからなくて、悩んでいてやっと解決したのが一週間ぐらい前なんです。
私がやっている方法は、
①ダミーの日記をつくる
②そこに拡大機能をつかうにして画像Aをアップ。
③画像フォルダをあけ、画像Aをさがす
④その登録先をコピーして、
③使いたい日記の「記事本文」をHTMLを使うにして、
<img src="画像A">という形でアップする。
というものなんです。
私は、撮影した画像を900×600ぐらいに縮小してから、拡大機能を使用して、アップしています。
このままだと記事本文にナマでアップしたら、巨大になります。そこで、80%にしているのです。,
つまり、 <img src="画像A" width="80%">というようにです。
こうすると、まあ普通にアップする画像と同じ大きさになります。(私が自分のPCで見る場合ですけれど)
その画像を拡大表示させるにはどうするか?
もともとの大きさを表示すれば、拡大したのと同じ効果ですよね。
ですから、クリックすれば、元の大きさにいくようにしたのです。
つまり、
<a href="画像A"><img src="画像A" width="80%"></a>
ところで、最初の”画像A”を別の画像にすれば、
クリックしたら、別の画像がでるので面白いかも。
画像アップでいたずら(重すぎ・・・かな) ― 2008/05/03
拝啓 澤地久枝様 -滋賀九条の会・憲法の集いでお会いして- ― 2008/05/03
澤地久枝様
九条の会で講演される姿を、はじめてナマで拝見しました。一人ひとりに気軽に語りかけるようになお話でしたので、一対一でお話をしたような錯覚と親しみを覚えました。「ムササビ」を「マタタビ」といいまちがえて、笑って訂正されていましたが、それさえ魅力の一つとなっていました。
イージス艦の事故や、名古屋高裁判決、軍を支える財政の話、幣原内閣に石原莞爾、ダムの話、そして故・小田実さんの話まで、 流れに任せてお話になりました。それらが、もともとの筋なのか、脱線なのか、ムササビなのか、マタタビなのか、わからないことでしたけれど、重い主題を楽しく聞かせていただきました。
それに、澤地さんが、後期高齢者であることも初めて知りました。
「私たち9人(九条の会呼びかけ人)が滅ぶともその種はひきつがれていく」といわれましたが、ご高齢であること、重大な病気をされていたこと、そして、現に小田実さんがお亡くなりになったことを考えれば、ご自身の覚悟のほどがよくわかりました。
澤地さん、小田さん、大江さんなど9人の方々のよびかけがなければ、憲法改悪反対の流れはこれほど強くはなっていませんでした。
そういう強い生き方とチャーミングな人格が上品な着物に包まれて元気に歩かれる姿をこれからもずっと拝見したいと願っています。
2008年5月3日 BIN★
九条の会で講演される姿を、はじめてナマで拝見しました。一人ひとりに気軽に語りかけるようになお話でしたので、一対一でお話をしたような錯覚と親しみを覚えました。「ムササビ」を「マタタビ」といいまちがえて、笑って訂正されていましたが、それさえ魅力の一つとなっていました。
イージス艦の事故や、名古屋高裁判決、軍を支える財政の話、幣原内閣に石原莞爾、ダムの話、そして故・小田実さんの話まで、 流れに任せてお話になりました。それらが、もともとの筋なのか、脱線なのか、ムササビなのか、マタタビなのか、わからないことでしたけれど、重い主題を楽しく聞かせていただきました。
それに、澤地さんが、後期高齢者であることも初めて知りました。
「私たち9人(九条の会呼びかけ人)が滅ぶともその種はひきつがれていく」といわれましたが、ご高齢であること、重大な病気をされていたこと、そして、現に小田実さんがお亡くなりになったことを考えれば、ご自身の覚悟のほどがよくわかりました。
澤地さん、小田さん、大江さんなど9人の方々のよびかけがなければ、憲法改悪反対の流れはこれほど強くはなっていませんでした。
そういう強い生き方とチャーミングな人格が上品な着物に包まれて元気に歩かれる姿をこれからもずっと拝見したいと願っています。
2008年5月3日 BIN★

子どもの日を前に -「親離れ・子離れ」のこと- ― 2008/05/03

このブログのカテゴリーの最初は、「家族」です。それは、心のよりどころが、家族だからです。他の方も同じだと思いますけれど。
亡き父は、戦前生まれで、鉄砲を仕事に持ち替えて24時間戦った人でした。家族は、二の次にしていたと思います。
人間ですから、頭で「仕事第一」と思っても、ふと疑問をもつことはあったと思うのです。しかし、日曜日すら返上して早朝から深夜まで、 働きづめることをなによりの誇りにしていましたし、そう公言していました。
そのことが深刻な矛盾を家族に生みましたが、かといって、宗旨をかえるという選択肢が頭に浮かばなかったほどの働き蜂でした。激しい軋轢のなか、私は家のなかにいられず、16歳から一人別居生活でした。
私は、父親同様自分を賭けることができるいい仕事をしたいというだけでなく、あたたかい家族をもちたいと強く願っていました。
天然癒し系のカミさんとの出会いや子どもの誕生、共働きでも子育ては、仕事での苦労を忘れさせる発見と喜びの日々でした。
しかし、子どもは成長していくもの。どの親も通り抜けなければならない門がもう目の前にあることを感じています。
それは、親離れ・子離れということですね。
もうすぐ「子どもの日」。
誕生のころから、ずっと連休は一緒に過ごしてきましたが、(中学生から親といっしょにどこかいきたくないという子も多いと聞いていますが、うちは、高校生でもついてきます)今年は、なんかちがいます。
子どもたちやカミさんは割り切ったものかも知れません。
でも、私は・・・(笑)・・・少しへこんでいます。
前にも書きましたが、「あなたの尊敬する人物はだれですか?」と聞かれたら、私の答えは、「北の国から」のゴローさんなんです。
あのドラマは、家族4人でずっと見ていたのです。そして、私は、家族とはなにか、親とはなにか、そして、自分がこの世界に残すものはなにか、真剣に考えたのです。自分のまちがいもわかりました。
家族の前では、クールにしているんですが、生きる支えのひとつが自分勝手にどっか行くようで(笑)、あかん、これが「子離れしてない」ってことなんでしょうね。さすがに、大学の入学式にはいきませんよ。
平然としているのですが、正直な気持ちは、さびしいんですね。
上の写真は、犬山公園で、カミさんを囲んで、どこを見ようかと相談する子どもたち。こういう姿に私は幸せを感じていたのですが、もう数年たちましたね。
亡き父は、戦前生まれで、鉄砲を仕事に持ち替えて24時間戦った人でした。家族は、二の次にしていたと思います。
人間ですから、頭で「仕事第一」と思っても、ふと疑問をもつことはあったと思うのです。しかし、日曜日すら返上して早朝から深夜まで、 働きづめることをなによりの誇りにしていましたし、そう公言していました。
そのことが深刻な矛盾を家族に生みましたが、かといって、宗旨をかえるという選択肢が頭に浮かばなかったほどの働き蜂でした。激しい軋轢のなか、私は家のなかにいられず、16歳から一人別居生活でした。
私は、父親同様自分を賭けることができるいい仕事をしたいというだけでなく、あたたかい家族をもちたいと強く願っていました。
天然癒し系のカミさんとの出会いや子どもの誕生、共働きでも子育ては、仕事での苦労を忘れさせる発見と喜びの日々でした。
しかし、子どもは成長していくもの。どの親も通り抜けなければならない門がもう目の前にあることを感じています。
それは、親離れ・子離れということですね。
もうすぐ「子どもの日」。
誕生のころから、ずっと連休は一緒に過ごしてきましたが、(中学生から親といっしょにどこかいきたくないという子も多いと聞いていますが、うちは、高校生でもついてきます)今年は、なんかちがいます。
子どもたちやカミさんは割り切ったものかも知れません。
でも、私は・・・(笑)・・・少しへこんでいます。
前にも書きましたが、「あなたの尊敬する人物はだれですか?」と聞かれたら、私の答えは、「北の国から」のゴローさんなんです。
あのドラマは、家族4人でずっと見ていたのです。そして、私は、家族とはなにか、親とはなにか、そして、自分がこの世界に残すものはなにか、真剣に考えたのです。自分のまちがいもわかりました。
家族の前では、クールにしているんですが、生きる支えのひとつが自分勝手にどっか行くようで(笑)、あかん、これが「子離れしてない」ってことなんでしょうね。さすがに、大学の入学式にはいきませんよ。
平然としているのですが、正直な気持ちは、さびしいんですね。
上の写真は、犬山公園で、カミさんを囲んで、どこを見ようかと相談する子どもたち。こういう姿に私は幸せを感じていたのですが、もう数年たちましたね。

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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