お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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さくらのつぼみ@4月1日2008/04/04

さくらのつぼみ@4月1日
おなじまちなのに、湖岸はさくらの開花が遅いきがしますね。 3月26日はこれでしたね。4月1日になっても、まだこの状態でした。4日に見に行くともう開花しているでしょうけれど。

西田清『反戦・平和へ先駆けた青春 久木興治郎 不屈のたたかい』2008/04/04

西田清『反戦・平和へ先駆けた青春/久木興治郎 不屈のたたかい』
西田清さんがまとめられた本です。
メールなどでご連絡いただければ、お届けできます。

●チラシの紹介文

久木興治郎は、愛知川町(現愛荘町)中宿育ち、八日市中学校(現八日市高校)を卒業、大阪外国語大学で社研に参加、日本共産党員・日本共産青年同盟関西地方委員会書記として、日本で始めて、兵士に反戦行動を呼びかけました。1928年3月15日、治安維持法違反で検挙され、懲役5年の刑を受けましたが、屈しませんでした。久木興治郎は、滋賀県が誇るべき反戦・平和の先駆者です。その生涯をぜひお知りください。

『反戦・平和へ先駆けた青春/久木興治郎 不屈のたたかい』
頒価500円

ご注文は治安維持法国賠同盟滋賀県本部(〒520-0011 大津市南志賀2-4-5 西田清 気付 ℡&Fax 077-524-6860)まで

 西田さんご自身の資料から補足しておきますと、久木興治郎は、1908年8月生まれ。父は、1926年に死亡。大阪外国語大学ではロシア科。入獄は5年間に及び、1937年7月24日に大川(大阪)で溺死したそうです。
29歳の生涯でした。

ちなみに、私自身も、大阪外国語大学ロシア語科出身です。西田さんは私の仕事場のテーブルに「貴君の大先輩である久木さんのことであり、治安維持法国家賠償同盟の会員として、(普及を)よろしく」と書かれていました。
 承知したしました(笑)。このとおり、ブログでも案内しておきます。興味のある方は、連絡ください。

遠くからは、サクラに見えました・・・この花・・・2008/04/04

サクラをまちがいました
駐車場に車をおいて、歩いて仕事場へ。暖かい日差しが心地よい。遠くから、この樹を「サクラかなぁ」と思って(色だけで)見ていましたが・・・ちがうみたいですね。

どう見てもサクラじゃないですね。2008/04/04

なんの花でしょうか?
花をよく見ると、全然、サクラとはちがいますね。

上からみるとチャーミング2008/04/04

雑草を上から見ました。色の変化が面白い。
ちいさな雑草ですが、真上から接写すると、色の変化が興味深いですね。

はまぐりの口がいっぱいという花?2008/04/04

軟体類を連想する花?
花の多様性と規則性には、感心するばかりです。
そもそもこれは花?
画面ではわかりませんが、小さな花(?)です。
イソギンチャクとか、ハマグリの口とか、そういうものを連想します。

テントウムシを見つけました.2008/04/04

テントウムシ
 冬の間は、昆虫をほとんど見かけませんでした。さほど遠くないので、別の事務所に書類を届けるときは、必ず歩きます。せっかくですから、そのたびに道を変えています。旧い城下町ですから、道はいろいろ選べるのです。
 今日は一番東のルートを選びました。たまたま路地の途中に草むらが広がる場所がありました。雑草を無視せずに、眺めていると紅い点が目に入りました。

それが、テントウムシ。

 とても小さくて、草に隠れそうでした。草をどけると、1匹目は落下してしまいました。申し訳ありませんねぇ。
 すぐ見つけた2匹目がこの虫です。

春はタンポポ2008/04/04

タンポポ=ライオンの歯
タンポポは、サクラよりも、庶民的な感じがします。
でも、サクラよりは歌が少ないですね。
サクラを題材にすると、歌も売れでしょうけれど、タンポポでは、あまりってことでしょうか。
たんぽぽもいい歌の素材になると思うのですが。

NHK『漂白のピアニスト アファナシエフ もののあわれを弾く』2008/04/04

 NHKのBSハイビジョンで再放送されていました。
mixiで教えていただいて、運良く見ることができたのです。
私には、とても興味深いものがありました。
ちなみに、私は、mixiでは、《ロシア・ピアニズム》、《スビャトスラフ・リヒテル》そして、《アファナシェフ》という二つのコミュニティの管理人をしています。にもかかわらず、この番組を知らなかったのです。あまりTVを見ないからですね。

 アファナシエフは、《もののあわれ》や《間》(ま)という日本語を、ロシア語訳ではなく、日本語として口にしました。
 《もののあわれ》は、日本語では3拍子で2小節分。タタタ・タタタですね。
 アファナシエフは、それを4拍子で、つまり、タタタ ・タタタン(第一小節の4拍目は休符)と発音していました。
 美意識をあらわす言葉だけが知られていたのではなく、旧ソ連体制下の音楽仲間の間で、日本の古典文学たとえば『徒然草』が現実に親しまれていて、尊重されていることにも驚きました。
 アファナシエフの生活については、想像どおりというところでした。
優れた音楽家であるけれど、旧ソ連から亡命したことによって、失うものがあまりにも多かったのではないかと思いました。いま、旧体制は崩壊しましたが、亡命した西側にも、現在のロシアにも、居所がない様子でした。《もののあわれ》は、そういう彼の境遇と無縁ではないとご自身も認めています。アファナシエフの居場所は、音楽。そして、沈黙の世界。そして《もののあわれ》のなかにだけあるのだと感じました。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)