お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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南州墓地のクロネコ Ⅰ2008/04/06

南州墓地のクロネコさん
 ネコが続いたので、このネコもアップします。
 鹿児島市の南州墓地に3月30日に立ち寄りました。そのときに、ネコに2匹出会いました。
 1匹は、足元にまとわり着いて、背中しか撮れませんでした。もう1匹は、神社の受付の窓口に座っています。
クロネコです。
招きネコではありませんが、そんな印象。
声をかけても、振り向いてくれません。
そのかわり、近づいても逃げません。

南州墓地のクロネコ Ⅱ2008/04/06

クロネコ・・・怖い
雨の日でしたけれど、クロネコに振り向いて欲しくて、接近しました。やっとこっちを見てくれたのでシャッターを切りました。でも、これってなにか怖い雰囲気。

南州墓地のネコ Ⅲ2008/04/06

南州墓地で足元にまとわりつくチャトラネコ
一期一会ですから、もう1匹のネコもアップしておきましょう。このチャトラネコは、あまりに人懐こいネコでした。西郷隆盛や西南戦争でなくなった人たちの墓地を見て回る私を歓迎するように、足元から離れませんでした。顔が撮りたかったのですけれど。

「敬天愛人」西郷隆盛の像を見る2008/04/06

西郷隆盛の像
 西郷隆盛に特別の思いいれがあるというのはありません。
 しかし、判官びいきのお国柄なのか、特別な人物として扱われていることには、興味があります。鹿児島に立ち寄るときには、ぜひ見てみたいと思いましたので、屋久島から帰途、鹿児島市にはわずか3時間程度の滞在時間でしたが、西郷隆盛の像、お墓、そして終焉の地を訪れることにしました。
 この像は、見る位置(歩道)から、ずいぶん高いところにありました。触れる距離をイメージしていたわけではありませんが、台座の足元には近づけると思っていたのです。
 この距離は、なんなんだろうと思いました。

鶴丸城跡2008/04/06

鶴丸城跡@鹿児島市
 私の最大の関心事は、わずかな時間でも、西南戦争の跡をたどることでした。熊本には、夏に行くことにしたいと思っていました。鹿児島市で見ることができるのは、鶴丸城跡と銃弾の痕、西郷隆盛の墓地、終焉の地。
 西郷隆盛の像の隣にある観光案内で場所を確かめて、徒歩で回ることにしました。
 前日に縄文杉を見るために22キロの道のりを10時間かけて往復したので、足がもつのか心配でした。それでも、時間が急くので、早足で進みました。家族は迷惑そうでした。でも、文句ひとついわずにつきあってくれていることにとても感謝していたのです。
 歩道に沿って歩いていくと、鶴丸城跡がありました。
 時間があれば、見学したいところでしたが、ちらりと目をむけるだけで、南州墓地までの道を急ぎました。それでも、1877年の西南戦争のときの弾痕を目にしたいとおもっていました。いまでも鮮明に残っていることがまだ信じられませんでしたから。

南州墓地入り口へ@鹿児島市2008/04/06

南州墓地へ@鹿児島市
 鶴丸城跡から、南州墓地までは思ったよりも距離がありました。縄文杉までの徒歩に比べたらと思いながらも、ダメージが足に残っていました。正面入り口ではなく、別の道から入ったので、長い坂道がつらかったのです。
 左手の駐車場にたとどりつき、左手から墓地正面に入りました。
 そこには鳥居があり、その向こうに目指す墓碑が立ち並んでいました。
 私に許された時間は30分足らず。なにを見ればいいのか。

西郷隆盛の墓@南州墓地2008/04/06

西郷隆盛の墓@南州墓地
 時間がないとあせると目指す墓がどこにあるのかさえわからなくなります。常識的に考えれば、南州墓地ですから、西郷隆盛は主役。中心にあるにちがいありません。
 階段を上って正面です。
 私は、墓地の雰囲気に圧倒され、あちこちに目を奪われて、目的の墓にたどり着くのに時間がかかる始末でした。
 そして、この写真が、西郷隆盛の墓です。
 もっといろんな角度から撮ればよかったです。
 私は、西郷隆盛の像から受けたのと同じ印象をもちました。つまり、生身の人間としての感触がなかったのです。墓さえ偶像(墓は偶像や象徴そのものなのですが)のように思えて。

親切な立て札@南州墓地2008/04/06

親切な立て札@南州墓地
 南州墓地で右往左往しながら、墓碑を眺めている私でしたが、立て札の存在には助けられました。ガイドなしに訪れても、見るべき墓碑がなにであるのか、見当をつけることができるからです。
 この立て札はいくつかあるものにひとつです。
 こういうものを許されるならば、旧大津陸軍墓地にも立てたいと思いました。

西郷庵・・・だったかな2008/04/06

西郷庵
 南州墓地で私はひとりでカメラをもって、墓地を歩き回っています。家族は、申し訳ないですが、手持ち無沙汰。ぽつぽつ降っていた雨でしたが、にわかに激しくなりました。逃げ場を探そうと顔をあげた私にむかって、息子のK君が「おいで、おいで」と手を振っています。墓地に隣接して、茶店がありました。中に入ると、いらっしゃいました、西郷どん。

まちなかにある「西郷隆盛 終焉の地」2008/04/06

こんなまちなかで西郷隆盛は自刃したのですね
 西南戦争は、敗北が必至となっていた西郷隆盛が自刃することで終わります。その地は、現在では、まちなかにありました。
 私が鶴丸城跡から南州墓地へ早足で向かっていたその道にあったのですが、気がつきませんでした。
 場所を示す標識が写真の真ん中に写っています。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)