お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
米大使と小沢一郎氏の会談に注目しています ― 2007/08/09
テロ特措法をめぐる動きは、民主党がどういう政党かを見極めるうえでとても重要になっています。
読売新聞は、参院選挙の投票日の前から、民主党勝利の可能性を念頭において、さかんに論陣を張っていました。
私も、興味深々。
米大使に対して、小沢氏は結局は軟弱な対応をされるのではないかと予想していました。その予想とは違う対応をされているようです。
*************時事通信の記事から******************
テロ特措法延長に反対=民主・小沢氏が米大使に言明
8月8日21時2分配信 時事通信
民主党の小沢一郎代表は8日午後、党本部で米国のシーファー駐日大使と初めて会談した。席上、シーファー大使は、11月1日に期限が切れるテロ対策特別措置法の延長を認めるよう要請。これに対し、小沢氏は「(米軍などの活動は)国連で直接的にオーソライズした(認めた)ものではない」と述べ、同法延長に反対する考えを示した。
テロ特措法は、アフガニスタンでのテロとの戦いを支援するため、インド洋で海上自衛隊が米英軍艦艇などへ給油支援を行う根拠法。
会談の中でシーファー大使は、「日本の役割は重要だ。引き続き参加して貢献してほしい。(小沢氏の)決断に必要な情報があれば、機密情報を含め、どんなものでも提供する準備がある」と述べた。
小沢氏は憲法9条で自衛隊派遣に制約があることを説明した上で、「ブッシュ大統領は国際社会の合意を待たずに米国独自で戦争を始めた。米軍を中心とした作戦には参加できない」などと強調した。
最終更新:8月8日23時2分
読売新聞は、参院選挙の投票日の前から、民主党勝利の可能性を念頭において、さかんに論陣を張っていました。
私も、興味深々。
米大使に対して、小沢氏は結局は軟弱な対応をされるのではないかと予想していました。その予想とは違う対応をされているようです。
*************時事通信の記事から******************
テロ特措法延長に反対=民主・小沢氏が米大使に言明
8月8日21時2分配信 時事通信
民主党の小沢一郎代表は8日午後、党本部で米国のシーファー駐日大使と初めて会談した。席上、シーファー大使は、11月1日に期限が切れるテロ対策特別措置法の延長を認めるよう要請。これに対し、小沢氏は「(米軍などの活動は)国連で直接的にオーソライズした(認めた)ものではない」と述べ、同法延長に反対する考えを示した。
テロ特措法は、アフガニスタンでのテロとの戦いを支援するため、インド洋で海上自衛隊が米英軍艦艇などへ給油支援を行う根拠法。
会談の中でシーファー大使は、「日本の役割は重要だ。引き続き参加して貢献してほしい。(小沢氏の)決断に必要な情報があれば、機密情報を含め、どんなものでも提供する準備がある」と述べた。
小沢氏は憲法9条で自衛隊派遣に制約があることを説明した上で、「ブッシュ大統領は国際社会の合意を待たずに米国独自で戦争を始めた。米軍を中心とした作戦には参加できない」などと強調した。
最終更新:8月8日23時2分
母の記憶:岐阜市空襲 ― 2007/08/09
ヒロシマ・ナガサキの惨禍を次の世代に伝えようという人たちの姿を追跡したドキュメントをTVが、放映していた。
遠いかなたの記憶を甦らせるとともに、この悲惨さが体験したものの死によって失われてはならないと新たに口を開く人、絵に描く人など・・・封印されてきた戦争体験の重さを感じずにはいられない。
私の両親はすでにこの世にいない。
母は59歳で死の床につき、60歳になるとともに死んでいった。
その母の口から、幼いときから聞かされたのが、空襲の話であった。
私は、大津生まれで大津育ちだが、父も母も岐阜市出身である。
母は終戦間際まで、防空監視隊にいた。女学生であったが、軍事工場に送られず、空襲警報などの発令にかかわる任務につくことになったのだ。敵機の名前と形を覚えていなければならなかったと語っていた。
軍事工場に送られた同級生たちは、戦闘機の羽根を造っていたという。ジュラルミンの粉によって失明する不幸な目にあう人もいたらしい。
防空監視隊に配属されたのは、女学生。面倒もあったらしいが・・・。
その母が空襲の話をした。
仕事場(防空監視隊か?)にいたとき空襲にあった。(どこで落ち合ったのかわからないが)、弟(中学生?)とともに空襲で焼け野原となる岐阜市を逃げ回った。足元のアスファルトは熔け、手をつないだ弟(私の叔父)は泣き出すし、必死の思いで家に向かったという。
私は繰り返し聞かされたのだが、「怖い話」として胸にしまっておいた。こういう生々しい肉親の話が、戦争はダメという思いの原点をつくってくれたのだと思う。
しかし、その空襲がいつ起ったのかについて、まったく調べたことも、関心を持ったこともなかった。
調べようと思ったのは、もう母に聞き返すことができなくなってから、つまり母の死後である。
ネットを検索するとつぎのサイトが見つかった。
http://www1.ocn.ne.jp/~yosisi/newpage7.htm
これによって、1945年7月9日がそれだと知った。
そして、《1891(明治24)年の濃尾大震災以来50年あまり、市民の努力によって築き上げられてきた岐阜市は一夜のうちに灰になってしまいました。岐阜駅のプラットホームから長良川の堤防まで、一面見通せる焼け野原になってしまったのです。当時最大のビル丸物百貨店(後の近鉄百貨店)が焼け跡の象徴のようにすすけた姿を浮かび上がらせていました。
この空襲による被害は記録によってまちまちですが、まとめてみると死者は約900人、負傷者約1200人、焼けた家約2万戸(約50%)、住む家を失った人は約10万人で市民の約60%になります。たった一夜のできごとなのです。》という。
空襲の状況を読んでみると、偶然にせよ、母の実家はおなじ岐阜市内でも空襲の範囲外であったことがわかった。その家に無事たどりついたからこそ、私が存在する。さもなければ・・・。
上の写真はサイトに掲載されている空襲下の岐阜市。
遠いかなたの記憶を甦らせるとともに、この悲惨さが体験したものの死によって失われてはならないと新たに口を開く人、絵に描く人など・・・封印されてきた戦争体験の重さを感じずにはいられない。
私の両親はすでにこの世にいない。
母は59歳で死の床につき、60歳になるとともに死んでいった。
その母の口から、幼いときから聞かされたのが、空襲の話であった。
私は、大津生まれで大津育ちだが、父も母も岐阜市出身である。
母は終戦間際まで、防空監視隊にいた。女学生であったが、軍事工場に送られず、空襲警報などの発令にかかわる任務につくことになったのだ。敵機の名前と形を覚えていなければならなかったと語っていた。
軍事工場に送られた同級生たちは、戦闘機の羽根を造っていたという。ジュラルミンの粉によって失明する不幸な目にあう人もいたらしい。
防空監視隊に配属されたのは、女学生。面倒もあったらしいが・・・。
その母が空襲の話をした。
仕事場(防空監視隊か?)にいたとき空襲にあった。(どこで落ち合ったのかわからないが)、弟(中学生?)とともに空襲で焼け野原となる岐阜市を逃げ回った。足元のアスファルトは熔け、手をつないだ弟(私の叔父)は泣き出すし、必死の思いで家に向かったという。
私は繰り返し聞かされたのだが、「怖い話」として胸にしまっておいた。こういう生々しい肉親の話が、戦争はダメという思いの原点をつくってくれたのだと思う。
しかし、その空襲がいつ起ったのかについて、まったく調べたことも、関心を持ったこともなかった。
調べようと思ったのは、もう母に聞き返すことができなくなってから、つまり母の死後である。
ネットを検索するとつぎのサイトが見つかった。
http://www1.ocn.ne.jp/~yosisi/newpage7.htm
これによって、1945年7月9日がそれだと知った。
そして、《1891(明治24)年の濃尾大震災以来50年あまり、市民の努力によって築き上げられてきた岐阜市は一夜のうちに灰になってしまいました。岐阜駅のプラットホームから長良川の堤防まで、一面見通せる焼け野原になってしまったのです。当時最大のビル丸物百貨店(後の近鉄百貨店)が焼け跡の象徴のようにすすけた姿を浮かび上がらせていました。
この空襲による被害は記録によってまちまちですが、まとめてみると死者は約900人、負傷者約1200人、焼けた家約2万戸(約50%)、住む家を失った人は約10万人で市民の約60%になります。たった一夜のできごとなのです。》という。
空襲の状況を読んでみると、偶然にせよ、母の実家はおなじ岐阜市内でも空襲の範囲外であったことがわかった。その家に無事たどりついたからこそ、私が存在する。さもなければ・・・。
上の写真はサイトに掲載されている空襲下の岐阜市。
原爆の日に《Erbarme dich,mein Gott》(神よ、哀れみたまえ) ― 2007/08/09
「原爆の日」。あの日から62年経つが、いまだに核兵器の恐怖から私たちは解放されていない。その理不尽さ、その重苦しさをヒバクシャの方々と共有していかなければないないのだと思う。
頭に浮かぶのは、バッハのマタイ受難曲《神よ、哀れみたまえ》。
私に、信仰心はない。
しかし、この長大な受難曲を聴いたとき、人間の犯した罪とそれを償おうとするイエスの苦悩に胸を打たれる。原爆投下は人類の犯した最大の罪のひとつである。それをその身で引き受けたのは、ヒバクシャ。
心から罪を悔い、その許しを求め、永久に核兵器を封印する・・・ヒバクシャの方々の命があるうちに、勝ち取りたいと願う。
たしかに、原爆投下はアメリカの戦後の野望に基づくものである。日本人、それもその時代に生まれていない私に責任があるわけではない。しかし、木の葉のように焼かれていった人々の証言をきくたびに、なにかに向かって許しを求めたい気持ちになるのはなぜだろうか。
Erbarme dich, mein Gott》
タルコフスキーの『サクリファイス』と同じである。
******************
マタイ受難曲は、何度も聴ける音楽ではない。
昨日聴いたのは、鈴木雅明氏のもの。
女性のアルトではなく、カウンター・テナーが歌う
《Erbarme dich,mein Gott》である。
頭に浮かぶのは、バッハのマタイ受難曲《神よ、哀れみたまえ》。
私に、信仰心はない。
しかし、この長大な受難曲を聴いたとき、人間の犯した罪とそれを償おうとするイエスの苦悩に胸を打たれる。原爆投下は人類の犯した最大の罪のひとつである。それをその身で引き受けたのは、ヒバクシャ。
心から罪を悔い、その許しを求め、永久に核兵器を封印する・・・ヒバクシャの方々の命があるうちに、勝ち取りたいと願う。
たしかに、原爆投下はアメリカの戦後の野望に基づくものである。日本人、それもその時代に生まれていない私に責任があるわけではない。しかし、木の葉のように焼かれていった人々の証言をきくたびに、なにかに向かって許しを求めたい気持ちになるのはなぜだろうか。
Erbarme dich, mein Gott》
タルコフスキーの『サクリファイス』と同じである。
******************
マタイ受難曲は、何度も聴ける音楽ではない。
昨日聴いたのは、鈴木雅明氏のもの。
女性のアルトではなく、カウンター・テナーが歌う
《Erbarme dich,mein Gott》である。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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