お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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暑い夏、魚は気持ちよさそうですね。2007/08/10

強い夏の日差しに、つい水辺に目が向きます。
昔の小川とちがいコンクリートの三面張り。それでも生き物の姿が随所に見ることができます。
魚の群れが気持ちよさそうです。

暑い夏、子どもたちは小川で魚をとっています2007/08/10

大津市の藤尾学区。大津市と京都府の間を流れる小川に子どもたちの姿がありました。「なんか捕れる?」と聞くと、持っているバケツを見せてくれました。「入っているの?」・・・上の写真では見えませんが、魚が10匹ほどでした。

旧い町の重み①☆マークの墓標2007/08/10

 夏の強烈な日差しは、生命を輝かせます。あらゆるものがくっきりと浮かびあがってきます。その夏の最中に、原爆の日、終戦記念日、そしてお盆がやってきます。
 ブログでもナガサキの原水禁世界大会の記事が見えます。
 8月は、生と死、戦争と平和が鮮やかな対照をなす月なのです。
 午前9時ごろにはもう30度を越えるような猛暑です。そんなことを考えながら、バイクを走らせていました。
 普段なら何気なく通り過ぎる墓地もきれいに掃除がされていますし、人影が見受けられます。人に目をむけているうちに、この旧い墓地に☆マークの墓石が随所に見受けられることに気がつきました。それは、陸軍墓地でも見かけたものでした。
 お昼ごはん時をけずって、見ていくことにしました。

旧い町の重み②墓地のなかを2007/08/10

 普段なら入らない墓地。真夏の日差しのなかだからこそ、入れたのかも知れません。お参りの方とすれ違いながら、そこここに見受けられる20柱ちかくの☆印のお墓をめぐりました。

旧い町の重み③奉天の戦い(明治38年)で戦死した若者の墓2007/08/10

 戦争犠牲者のお墓には、☆印がついています。それで見分けがつくのですが、墓地全体で20余りの墓標がありました。
 戒名が刻まれる墓石の正面には、☆印のあとに、軍の階級名があり、そして名前がかかれています。その横には、戦死された日と場所が書かれています。
 それらを読む私の胸に、戦争の傷跡がなまなましく迫ってきます。
 1930年から45年の15年戦争の犠牲者の方だけではありませんでした。
見るからに旧い苔むした墓石がありました。そこには、
「明治三十八年三月七日
清国奉天付近小貴興堡於戦死」
 と刻まれていました。
 同様の戦死の日時場所が刻まれた墓石がほかにもありました。
 お互いに近い関係にあった人たちだったのでしょう。ともに20代前半の若者でした。
 奉天会戦は、日露戦争最後の会戦でした。日本軍25万、ロシア軍37万が戦い、日本軍は死者15,892人、負傷者59,612人を出し、ロシア軍も死者40,000人、負傷者49,000人、捕虜40,000人を出しました。
 ときは、1905年(明治38年)3月1日から10日のことです。
 この方は、ロシア軍が戦術的後退をはじめた3月6日の翌日に戦死されたのです。

旧い町の重み④おそらく遼陽会戦(明治37年)初日で戦死した若者の墓2007/08/10

 さらに見ていくと、同じ日露戦争でも、1904年8月から9月に行われて遼陽会戦の犠牲者のお墓もありました。
「明治三十七年八月二十四日
 盤龍山西砲台於付近戦死」
とあります。
 8月24日は、この会戦が開始された日付です。
正直にいうと、私は、この日付から、遼陽会戦と考えているにすぎません。
 この盤流山西砲台がどこにあるのか、調べてみることにします。

旧い町の重み⑤15年戦争で戦死した若者の墓2007/08/10

 墓石に刻まれた文字をただ黙って読み解きながら、墓地を歩きました。長年近くに住みながら、訊ねたことのない墓地。もちろん、縁のない墓地に立ち入ることを控えてきたこともあります。
 いま、この土地のこの場所から、まっすぐ旧い時代に直結するチャンネルが目の前に開いた気がしました。およそ霊とか、宗教に無縁の私ですが、旧い町には、そういう場所がかならずあるように思いました。
 高くそびえる墓石。苔むしてはいませんが、建立されたのは昭和16年。つまり、1941年のことです。戦時中なのです。無念の思いが伝わる気がします。
 刻まれた文字は、
「昭和十四年九月九日中華民国江蘇省武進県
 考西軍安家橋付記ノ戦闘ニ於イテ戦死ス 当年二十二才」

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)