お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

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琵琶湖を撮り続けた中島省三さんのインタビュー記事(朝日新聞滋賀版)を読む2007/08/30

 8月26日付けの朝日新聞の地方版(滋賀版)に、中島省三さんのインタビュー記事が掲載されていました。個人的な面識はありませんが、目と鼻の先に暮らしていたこともあり、親近感があります。
 中島さんは、写真家。琵琶湖を40年間撮り続ける方として有名です。
 この記事は、田村隆昭さんという記者さんが、インタビューして記事にしたものだそうです。
 解説はさておき、衝撃を受けたのは、次の質問の答えです。

問い:琵琶湖は再生するのだろうか。

答え:絶対できない。一度破壊された環境が元通りになった試しがない。
   今の暮らしそのものを変えるシステムを考えるべきときにきている。
   何をどうすべきかを問われるとすぐには答えられないが、いずれ人の
   知恵が答えを出すと思う。

問い:40年間の撮影で感じたことは。

答え:ただ悪くなっていくのを見ていただけだった。
   そういう意味でむなしさを感じる。
   ただ一方で、琵琶湖が「写真を撮ってくれ」と訴えているように感じた。
   あと10年、半世紀はこの変化を見続けていきたいと思う。

このインタビューの前半は、①なぜ琵琶湖を写真で記録していこうと思ったのか、②琵琶湖が変わったと思ったのはいつか、など大切な中身が書かれています。
 ①については、「66年、飛行機の操縦席から琵琶湖を初めて見た。青く満々と水をたたえ、周囲を緑のヨシ帯に囲まれて、例えようもなく美しかった。(中略)諏訪湖を見に行き、アオコで覆われた湖面を見て、琵琶湖を同じようにしてはならない、記録していこうと思った。」
 ②については、「やはり72年に始まった琵琶湖総合開発だろう。一週間で風景が変わってしまったこともある。」

 40年間撮り続けた方の言葉だけに、いいようもない重さがあります。
 関心さえもてば、だれもが痛切な思いをいだくことができます。
日常生活のなかで、無関心にならないことがすべてのはじまりのように思えます。

私の履歴:環境問題を知ったのは『複合汚染』(有吉佐和子:1975)2007/08/30

どうしてこの本を読むことになったのか、思い出せません。
1970年代後半に話題になっていたことは知っていましたが、むつかしい本だと思っていたのです。環境が悪化しているくらいは、いわれなくても、わかっているとも思っていました。
 10年も遅れて読み始めました。
 読んでいきなり困惑しました。
 これって小説???ドキュメント??解説???
 なんともかわった小説だと思いました。

解説として、奥野健男氏が文を寄せています。

「有吉佐和子は文学という武器をもって、もっとも直接的に人類を破滅に向かわせかねない自然科学、技術、そして経済、政治に対して敢然と歯向かい、ストップをかけようとした。人間を愛する文学者としてなすべき喫緊事を有吉佐和子は為した。それがこの『複合汚染』である」

 この本の最後のページにめずらしく読みきった日付を書きました。
それだけ、鱗がたくさん落ちたってことですね。
 「1985年9月14日~17日読了」
当時の私には、かなりショックな内容でした。

 環境問題の認識は、自分は遅れていると思いました。

今日はじめて読み始めました『日本環境報告』(本田勝一 1992年)2007/08/30

ブックオフで見つけて買いました。105円なり。
本田勝一氏の『日本環境報告』(朝日文庫)。
かなり辛らつですね。
環境問題へのかかわりの原点に、少年時代をすごした伊那谷の記憶があり、その自然が無残に開発によって破壊されていくことへの憤りがあることを知りました。(「はしがき」や「わが故郷は死んだのか」など)

やはり、原点というのは、だれでもあるのです。

辛らつな筆は、憤りの大きさともいえるでしょうけれど、私には違和感があります。
 たとえば、琵琶湖の問題に言及した「内水面の生態系を破壊する外来魚」という文章には、『自然破壊に鈍感なることを基本認識とするこのような民族にあっては、地球の生態系とか、それぞれの地域の在来種とか、自然界のバランスといった「高度な」問題など考える能力がなう、したがってその破壊を悲しむ能力もない』というのは、挑発がすぎます。
 日本人が自分の国の自然の美しさを自覚するには、それなりのプロセスがあるのです。
 そのプロセスの大切な契機は、本田勝一氏の場合は、伊那谷の自然破壊。他の人たちは、また別の契機があるはずなのです。
 弁解がましく聞こえるでしょうか?
 この本が書かれたのは、1990年代のはじめ。
 私が読み始めたのは、2007年。う~ん、遅れているなぁ。

環境問題もまちづくりも同じ根の問題か:『まちづくりと景観』(田村明:2005年)2007/08/30

昨日、歯医者にいく前に、本屋に寄りました。
待ち時間に読もうと。
そして、この本を買いました。『まちづくりと景観』(田村明:岩波新書)
 私は、イオンモール進出問題をきっかけに、集中的に「まちづくり」を考えるようになりました。そして、同じころ、高層マンション反対運動を調べるうちに、これまでなく、大津市の原風景が失われ、琵琶湖を「壁」が囲うように、高層マンションが多数建設されていることにあらためて驚きました。
 琵琶湖の水質など以前から取り組んでいる問題を除けば、まちづくりと景観という主題に集約されるものです。
 それとまったくぴったりのタイトルの本でした。
 読んで悲しく思ったことがあります。
 それは、日本の自然もまちも、かつては世界が驚くほど美しかったということです。

 「日本の自然の風景は絵のように美しかったと、幕末から明治初年に訪れた外国人たちは一様に感動の言葉で綴っている。自然ばかりでなく、貧しくはあっても街並みもまた個性があり美しかった。都市や街並みを造る素材は、木や土や竹を主体にしているから自然と調和し、全体に統一感がある。住む人々の努力で、ごみ一つなく清潔に保たれていた。
 (中略:イギリスは産業革命で汚れ果てたのだが)
 景観は人の営みによって汚くもなり、それを回復して美しくもなる。イギリスは美しさを回復し、日本はその意識もないままに美しさを失ってきた」(58~59ページ)

 この最後の、「その意識もないままに」ということが悲しく思えるのです。
 それは、琵琶湖を40年間撮影してきた中島省三さんの悲しさや、有吉佐和子さん決意、本田勝一さんの辛らつさの根にあることではないかと思います。
(中島さん→http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/08/30/1758723
(有吉さん→http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/08/30/1760065
(本田さん→http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/08/30/1760089

 いま、沖縄の自然(ジュゴンなど)が、アメリカへの従属のくびきのために、ふみにじられています。これは「敵」がはっきりしています。
 米軍がいないところでは、アメリカのせいにするわけにはいきません。
 自分たちが、いまなにを大切にするのか、どういうまちや、くにをつくるのかに真剣に向かい合うべきときなのだと私は思いました。
 それは、「美しい国」と表現できるものであったにしても、安倍さんのいう意味とはまったくちがうものを目指したいのです。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)