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お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
日露戦争戦死者「故陸軍歩兵一等卒松田豊治墓」@今津共同墓地 ― 2011/08/26
松田豊治は日露戦争で戦死しました。三谷村の『戦時事績』には、葬儀の様子も書かれています。しかし、不思議なことに、三谷村の慰霊碑に刻まれた戦没者の名簿にはありません。
これはなぜなんだろうと考えていました。
マキノからの帰途、今津に立ち寄り、今津共同墓地で墓碑を見つけました。「故陸軍歩兵一等卒松田豊治墓」と刻まれてます。4つ並ぶ墓碑の左から二つ目です。
見ての通り、今津共同墓地にある他の日露戦争の墓碑とちがい、砲弾型ではなく、普通の四角柱・四角錐型の墓碑でした。
三谷村なのに、今津に墓碑が存在する・・・このあたりに答えがあるのではないかと思いました。
ちなみに、下の写真が、同じ今津共同墓地にある日露戦争の墓碑。いずれも砲弾型です。
これはなぜなんだろうと考えていました。
マキノからの帰途、今津に立ち寄り、今津共同墓地で墓碑を見つけました。「故陸軍歩兵一等卒松田豊治墓」と刻まれてます。4つ並ぶ墓碑の左から二つ目です。
見ての通り、今津共同墓地にある他の日露戦争の墓碑とちがい、砲弾型ではなく、普通の四角柱・四角錐型の墓碑でした。
三谷村なのに、今津に墓碑が存在する・・・このあたりに答えがあるのではないかと思いました。
ちなみに、下の写真が、同じ今津共同墓地にある日露戦争の墓碑。いずれも砲弾型です。
日清戦争戦没者「故陸軍歩兵一等卒 井花長太郎之碑」@長順寺 ― 2011/08/26
急遽、仕事で出かけたマキノで見つけました。日清戦争で亡くなった井花長太郎の墓碑です。上の写真では、よくわかりませんが、お寺に通じる道の入口に置かれています。奥村粂蔵のような配置です。
背面には、日清戦争の墓碑であることが明記されています。
『高島郡誌』記載の日清戦争戦病死者
①西庄村 井花 長太郎(蛭口) 陸軍歩兵一等卒
旧大津陸軍墓地と長順寺
②饗庭村 冨田 楳吉(饗庭) 陸軍輜重輸卒
③饗庭村 内田 検次郎(旭) 陸軍歩兵上等兵
④新儀村 大塚長次郎(太田) 陸軍歩兵一等卒
以上、3名は旧大津陸軍墓地
⑤安曇村 日置 卯市(三尾里) 陸軍歩兵一等卒
三尾里墓地と旧大津陸軍墓地
⑥安曇村 山崎 松蔵(田中) 陸軍輜重輸卒
旧安曇村田中墓地
⑦安曇村 福井 乙吉(常盤木) 陸軍歩兵二等卒
旧大津陸軍墓地と常盤木・十八川墓地
⑧水尾村 吉田 伊之助(宮野) 陸軍歩兵上等兵
旧水尾村宮野墓地
⑨大溝町 三矢 松太郎(永田) 陸軍歩兵一等卒
永田墓地 ⑩大溝町 中村 林蔵(勝野) 陸軍歩兵二等卒
中野墓地と旧大津陸軍墓地
⑪大溝町 仁賀 宗太郎(勝野) 陸軍工兵上等兵
鵜川・打下墓地 ⑫大溝町 中江 幸四郎(音羽) 軍役夫
旧真田山陸軍墓地(大坂市玉造)
⑬高島村 奥村 粂蔵(拝戸) 陸軍歩兵二等卒
昌泉寺門前・旧大津陸軍墓地
⑭高島村 林 甚蔵(畑) 陸軍歩兵一等卒
畑墓地
⑮大溝町 島村 幸太郎(勝野)
徳善寺境内
⑯朽木村 森 岩五郎(栃生)
⑰朽木村 金子 兼助(宮前坊)
「遺族廃兵ノ保護優待」@剣熊村「戦時事績」 ― 2011/08/11
高島郡剣熊村「戦時事績」から ― 2011/08/10
「新儀村」の戦時事績を離れて、つぎは「剣熊村」のものに、もう一度、目を通してみました。
上の写真の左から4行目から、戦病死者の葬儀の様子が書かれています。その続きは、下の写真です。 「戦時事績」は、日露戦争の開戦の宣旨とそれを村民をあつめて伝える様子をはじめ、村の自治機能のすべてが戦争に巻き込まれていく様子が書かれています。上の葬儀には、神社も、寺院も、戦争遂行のなかで、役割を果たしているのがわかります。
異論をもったとしても、逃げ場のないありさまです。
太平洋戦争や日中戦争の映像が流され、ドラマが放映されます。戦争を鼓舞する集会があり、ちょうちん行列が行われる。ある家族には赤紙が届き、出征の激励会がある、そして別れがある・・・。そういうことの原型が、日露戦争なのでしょうか。日清戦争はどうだったのでしょうか。
上の写真の左から4行目から、戦病死者の葬儀の様子が書かれています。その続きは、下の写真です。 「戦時事績」は、日露戦争の開戦の宣旨とそれを村民をあつめて伝える様子をはじめ、村の自治機能のすべてが戦争に巻き込まれていく様子が書かれています。上の葬儀には、神社も、寺院も、戦争遂行のなかで、役割を果たしているのがわかります。
異論をもったとしても、逃げ場のないありさまです。
太平洋戦争や日中戦争の映像が流され、ドラマが放映されます。戦争を鼓舞する集会があり、ちょうちん行列が行われる。ある家族には赤紙が届き、出征の激励会がある、そして別れがある・・・。そういうことの原型が、日露戦争なのでしょうか。日清戦争はどうだったのでしょうか。
「明治丗七八年 戦時事績 滋賀縣高島郡新儀村」 ― 2011/08/10
現大津市関係の日露戦争「戦時事績」を見てきました。二度目になりますが、高島郡関係の「戦時事績」に目を通すことにしました。
まずは、「新儀村」から。表紙は「明治丗七八年 戦時事績 滋賀縣高島郡新儀村」 となっています。本文をていねいに読むと、戦争が与えた生活上の困窮、出征兵士をだした家庭の苦しさなどが伝わってきます。村立小学校の校舎建設が、戦争による経済の圧迫で、中断したという記事もみえます。
すでに報告した、戦病死者数にかかわる部分は以下のところでした。 「戦病死者」はたしかに9名と書かれていますね。
この記事を読んで、気になったのは、「廃兵ハ六名ニシテ」という部分でした。
「廃兵」とは?どうい状態になった兵士のことでしょうか?
負傷兵?兵役を終えた兵士のこと?
まずは、「新儀村」から。表紙は「明治丗七八年 戦時事績 滋賀縣高島郡新儀村」 となっています。本文をていねいに読むと、戦争が与えた生活上の困窮、出征兵士をだした家庭の苦しさなどが伝わってきます。村立小学校の校舎建設が、戦争による経済の圧迫で、中断したという記事もみえます。
すでに報告した、戦病死者数にかかわる部分は以下のところでした。 「戦病死者」はたしかに9名と書かれていますね。
この記事を読んで、気になったのは、「廃兵ハ六名ニシテ」という部分でした。
「廃兵」とは?どうい状態になった兵士のことでしょうか?
負傷兵?兵役を終えた兵士のこと?
本庄村「忠魂碑」と「十七桜」碑@西光寺 ― 2011/08/04
戦死者の墓碑もそうですけれど、「忠魂碑」の探索も、途絶えていました。思い出すために、少し書いてみます。
「忠魂碑」は、戦死者の顕彰のために、日露戦争後に全国各地に建てられました。あまりに多数とならないために、一町村あたり一基に制限されたとききました。敗戦をむかえ、日本の軍国主義の象徴のひとつとして、埋葬されたり、破壊される時期がありました。そして、サンフランシスコ講和条約のあと復活・再建されます。
ですから、現在見ることができる「忠魂碑」がはたして、オリジナルな場所に、オリジナルな形で存在しているのか、破壊された状態のものなのか、それとも、再建されたものなのか・・・少なくとも、3つのうちのどれにあたるかということを考慮しなければなりません。
この「忠魂碑」の場合は、別の場所での再建です。
クリック→旧高島郡の忠魂碑など 背面の下のほうに再建の文字が見えます。
ですから、現在見ることができる「忠魂碑」がはたして、オリジナルな場所に、オリジナルな形で存在しているのか、破壊された状態のものなのか、それとも、再建されたものなのか・・・少なくとも、3つのうちのどれにあたるかということを考慮しなければなりません。
この「忠魂碑」の場合は、別の場所での再建です。
クリック→旧高島郡の忠魂碑など 背面の下のほうに再建の文字が見えます。
日露戦争戦病死者・西歳徳の巨大な石碑@鹿が瀬 ― 2011/08/04
日露戦争の個人碑というイメージをはるかに超える巨大な墓碑でした。写真ではその石塊としての大きさが伝わりません。
お寺の境内にありますが、参拝者は、それが戦争の個人碑であることに気がつかないと思われます。「陸軍歩兵一等卒」という階級名もなければ、姓もなく、「歳徳」だけの碑です。
どうして、このような形で、巨大な碑を建設したのでしょうか。たとえば、通常の戦死者の墓碑は、「階級名」をいわば誇らしげに掲げています。国のために命をささげた集落の英雄として。しかし、西歳徳の場合は「階級名は」一切ありません。私には、抗議の意思表示に思えます。「西」という姓がないのは、あくまで私的なものであることを宣言しているように感じます。
この碑は、いろんなことを考えさせてくれます。建立の経過などのお話をぜひお聞きしたいと思いました。
西歳徳。出身地は高島郡「高島村大字鹿が瀬」、兵種は「歩兵」、階級は「一等卒」、勲等功級は「勲八等」、戦病死年月日は「明治三十七年八月二十二日」、戦病死場所は「角面堡」
「歳徳碑」の右側面には、「旅順盤竜山」で戦死と刻まれています。「角面堡」は、盤龍山の一部なのでしょうか。「高島村戦時事績」では、西歳徳は、「後備歩兵第九聯隊」に所属し、「盤龍山東砲台」で戦死したとあります。
お寺の境内にありますが、参拝者は、それが戦争の個人碑であることに気がつかないと思われます。「陸軍歩兵一等卒」という階級名もなければ、姓もなく、「歳徳」だけの碑です。
どうして、このような形で、巨大な碑を建設したのでしょうか。たとえば、通常の戦死者の墓碑は、「階級名」をいわば誇らしげに掲げています。国のために命をささげた集落の英雄として。しかし、西歳徳の場合は「階級名は」一切ありません。私には、抗議の意思表示に思えます。「西」という姓がないのは、あくまで私的なものであることを宣言しているように感じます。
この碑は、いろんなことを考えさせてくれます。建立の経過などのお話をぜひお聞きしたいと思いました。
西歳徳。出身地は高島郡「高島村大字鹿が瀬」、兵種は「歩兵」、階級は「一等卒」、勲等功級は「勲八等」、戦病死年月日は「明治三十七年八月二十二日」、戦病死場所は「角面堡」
「歳徳碑」の右側面には、「旅順盤竜山」で戦死と刻まれています。「角面堡」は、盤龍山の一部なのでしょうか。「高島村戦時事績」では、西歳徳は、「後備歩兵第九聯隊」に所属し、「盤龍山東砲台」で戦死したとあります。
高島村
●大塚 徳松 高島村大字鹿ヶ瀬
明治37年10月15日 大坂予備病院
*黒谷墓地に四角錐の墓碑
●八田 金蔵 高島村大字高島
明治37年8月22日 旅順
*伊黒墓地に四角錐の墓碑
●西川 元治郎 高島村大字高島
明治38年3月7日 小貴興堡
*伊黒墓地に四角錐の墓碑
●西 歳徳 高島村大字鹿ヶ瀬
明治37年8月22日 東鶏冠山北砲台
*鹿ガ瀬に巨大な碑
唯一の女性戦死者・宮田愛子@「戦没者御遺影」(今津町) ― 2011/08/03
横江浜にも「砲弾型」墓碑が一基 ― 2011/08/03
遼東半島の青泥窪兵站病院で亡くなった「故陸軍歩兵軍曹梅村七松之碑」@四津川墓地 ― 2011/08/03
映画「ロック ~わんこの島~」のなかで、繰り返されるセリフがあります。「一週間で人は半分忘れる、つぎの一週間で残りの半分を忘れる」と。しかし、忘れなかった人たちとワンコがいたわけです。ですから、逆説のように思えました。それでも、忘れられないことがあり、忘れない人がいるのだと。
戦争の記憶はどうでしょうか。悲しみの記憶をのこす人が亡くなると、それを引き継ぐのは難しくなります。墓碑は、形は世代を超えて残っても、思いが残るとは思えません。
私のように、まったく見知らぬ人の墓碑を訪ね歩く、姿は奇妙なものでしょうね。墓地の関係者にモノを訪ねるときの怪訝そうな反応は何度も経験します。私は、石に刻まれた無念の思いに耳を傾けようと思いました。可能な限り、生きたという証を探しながら。
さて、この墓碑は、日露戦争で亡くなった「陸軍歩兵軍曹 梅村七松」のお墓です。
出身地は高島郡「本庄村大字四川」、兵種は「歩兵」、階級は「軍曹」、勲等功級は「勲七等」、戦病死年月日は「明治三十七年十月三十一日」、戦病死場所は「青泥窪兵站病院(病死)」と、『高島郡誌』には書かれています。
いくつかの疑問があります。きっと、それらがこの軍曹の生きた姿につながる手がかりとなるのでしょう。たとえば、勲八等と勲七等の違いはどこにあるのか、功級がつくひととつかない人との違いはどこにあるのか。また、病死したという「青泥窪兵站病院」は、中国大陸のどこにあったのでしょうか。 調べてみました。「青泥窪」とは、「大連」の旧地名。旅順の近くの商業都市です。梅村七松が病死したのは、明治37(1904)年10月31日。旅順要塞への攻撃の最中にあたります。
戦争の記憶はどうでしょうか。悲しみの記憶をのこす人が亡くなると、それを引き継ぐのは難しくなります。墓碑は、形は世代を超えて残っても、思いが残るとは思えません。
私のように、まったく見知らぬ人の墓碑を訪ね歩く、姿は奇妙なものでしょうね。墓地の関係者にモノを訪ねるときの怪訝そうな反応は何度も経験します。私は、石に刻まれた無念の思いに耳を傾けようと思いました。可能な限り、生きたという証を探しながら。
さて、この墓碑は、日露戦争で亡くなった「陸軍歩兵軍曹 梅村七松」のお墓です。
出身地は高島郡「本庄村大字四川」、兵種は「歩兵」、階級は「軍曹」、勲等功級は「勲七等」、戦病死年月日は「明治三十七年十月三十一日」、戦病死場所は「青泥窪兵站病院(病死)」と、『高島郡誌』には書かれています。
いくつかの疑問があります。きっと、それらがこの軍曹の生きた姿につながる手がかりとなるのでしょう。たとえば、勲八等と勲七等の違いはどこにあるのか、功級がつくひととつかない人との違いはどこにあるのか。また、病死したという「青泥窪兵站病院」は、中国大陸のどこにあったのでしょうか。 調べてみました。「青泥窪」とは、「大連」の旧地名。旅順の近くの商業都市です。梅村七松が病死したのは、明治37(1904)年10月31日。旅順要塞への攻撃の最中にあたります。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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