
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
本庄村「忠魂碑」と「十七桜」碑@西光寺 ― 2011/08/04
戦死者の墓碑もそうですけれど、「忠魂碑」の探索も、途絶えていました。思い出すために、少し書いてみます。
「忠魂碑」は、戦死者の顕彰のために、日露戦争後に全国各地に建てられました。あまりに多数とならないために、一町村あたり一基に制限されたとききました。敗戦をむかえ、日本の軍国主義の象徴のひとつとして、埋葬されたり、破壊される時期がありました。そして、サンフランシスコ講和条約のあと復活・再建されます。
ですから、現在見ることができる「忠魂碑」がはたして、オリジナルな場所に、オリジナルな形で存在しているのか、破壊された状態のものなのか、それとも、再建されたものなのか・・・少なくとも、3つのうちのどれにあたるかということを考慮しなければなりません。
この「忠魂碑」の場合は、別の場所での再建です。
クリック→旧高島郡の忠魂碑など 背面の下のほうに再建の文字が見えます。
ですから、現在見ることができる「忠魂碑」がはたして、オリジナルな場所に、オリジナルな形で存在しているのか、破壊された状態のものなのか、それとも、再建されたものなのか・・・少なくとも、3つのうちのどれにあたるかということを考慮しなければなりません。
この「忠魂碑」の場合は、別の場所での再建です。
クリック→旧高島郡の忠魂碑など 背面の下のほうに再建の文字が見えます。
日露戦争戦病死者・西歳徳の巨大な石碑@鹿が瀬 ― 2011/08/04
日露戦争の個人碑というイメージをはるかに超える巨大な墓碑でした。写真ではその石塊としての大きさが伝わりません。
お寺の境内にありますが、参拝者は、それが戦争の個人碑であることに気がつかないと思われます。「陸軍歩兵一等卒」という階級名もなければ、姓もなく、「歳徳」だけの碑です。
どうして、このような形で、巨大な碑を建設したのでしょうか。たとえば、通常の戦死者の墓碑は、「階級名」をいわば誇らしげに掲げています。国のために命をささげた集落の英雄として。しかし、西歳徳の場合は「階級名は」一切ありません。私には、抗議の意思表示に思えます。「西」という姓がないのは、あくまで私的なものであることを宣言しているように感じます。
この碑は、いろんなことを考えさせてくれます。建立の経過などのお話をぜひお聞きしたいと思いました。
西歳徳。出身地は高島郡「高島村大字鹿が瀬」、兵種は「歩兵」、階級は「一等卒」、勲等功級は「勲八等」、戦病死年月日は「明治三十七年八月二十二日」、戦病死場所は「角面堡」
「歳徳碑」の右側面には、「旅順盤竜山」で戦死と刻まれています。「角面堡」は、盤龍山の一部なのでしょうか。「高島村戦時事績」では、西歳徳は、「後備歩兵第九聯隊」に所属し、「盤龍山東砲台」で戦死したとあります。
お寺の境内にありますが、参拝者は、それが戦争の個人碑であることに気がつかないと思われます。「陸軍歩兵一等卒」という階級名もなければ、姓もなく、「歳徳」だけの碑です。
どうして、このような形で、巨大な碑を建設したのでしょうか。たとえば、通常の戦死者の墓碑は、「階級名」をいわば誇らしげに掲げています。国のために命をささげた集落の英雄として。しかし、西歳徳の場合は「階級名は」一切ありません。私には、抗議の意思表示に思えます。「西」という姓がないのは、あくまで私的なものであることを宣言しているように感じます。
この碑は、いろんなことを考えさせてくれます。建立の経過などのお話をぜひお聞きしたいと思いました。
西歳徳。出身地は高島郡「高島村大字鹿が瀬」、兵種は「歩兵」、階級は「一等卒」、勲等功級は「勲八等」、戦病死年月日は「明治三十七年八月二十二日」、戦病死場所は「角面堡」
「歳徳碑」の右側面には、「旅順盤竜山」で戦死と刻まれています。「角面堡」は、盤龍山の一部なのでしょうか。「高島村戦時事績」では、西歳徳は、「後備歩兵第九聯隊」に所属し、「盤龍山東砲台」で戦死したとあります。
高島村
●大塚 徳松 高島村大字鹿ヶ瀬
明治37年10月15日 大坂予備病院
*黒谷墓地に四角錐の墓碑
●八田 金蔵 高島村大字高島
明治37年8月22日 旅順
*伊黒墓地に四角錐の墓碑
●西川 元治郎 高島村大字高島
明治38年3月7日 小貴興堡
*伊黒墓地に四角錐の墓碑
●西 歳徳 高島村大字鹿ヶ瀬
明治37年8月22日 東鶏冠山北砲台
*鹿ガ瀬に巨大な碑
唯一の女性戦死者・宮田愛子@「戦没者御遺影」(今津町) ― 2011/08/03
横江浜にも「砲弾型」墓碑が一基 ― 2011/08/03
遼東半島の青泥窪兵站病院で亡くなった「故陸軍歩兵軍曹梅村七松之碑」@四津川墓地 ― 2011/08/03
映画「ロック ~わんこの島~」のなかで、繰り返されるセリフがあります。「一週間で人は半分忘れる、つぎの一週間で残りの半分を忘れる」と。しかし、忘れなかった人たちとワンコがいたわけです。ですから、逆説のように思えました。それでも、忘れられないことがあり、忘れない人がいるのだと。
戦争の記憶はどうでしょうか。悲しみの記憶をのこす人が亡くなると、それを引き継ぐのは難しくなります。墓碑は、形は世代を超えて残っても、思いが残るとは思えません。
私のように、まったく見知らぬ人の墓碑を訪ね歩く、姿は奇妙なものでしょうね。墓地の関係者にモノを訪ねるときの怪訝そうな反応は何度も経験します。私は、石に刻まれた無念の思いに耳を傾けようと思いました。可能な限り、生きたという証を探しながら。
さて、この墓碑は、日露戦争で亡くなった「陸軍歩兵軍曹 梅村七松」のお墓です。
出身地は高島郡「本庄村大字四川」、兵種は「歩兵」、階級は「軍曹」、勲等功級は「勲七等」、戦病死年月日は「明治三十七年十月三十一日」、戦病死場所は「青泥窪兵站病院(病死)」と、『高島郡誌』には書かれています。
いくつかの疑問があります。きっと、それらがこの軍曹の生きた姿につながる手がかりとなるのでしょう。たとえば、勲八等と勲七等の違いはどこにあるのか、功級がつくひととつかない人との違いはどこにあるのか。また、病死したという「青泥窪兵站病院」は、中国大陸のどこにあったのでしょうか。 調べてみました。「青泥窪」とは、「大連」の旧地名。旅順の近くの商業都市です。梅村七松が病死したのは、明治37(1904)年10月31日。旅順要塞への攻撃の最中にあたります。
戦争の記憶はどうでしょうか。悲しみの記憶をのこす人が亡くなると、それを引き継ぐのは難しくなります。墓碑は、形は世代を超えて残っても、思いが残るとは思えません。
私のように、まったく見知らぬ人の墓碑を訪ね歩く、姿は奇妙なものでしょうね。墓地の関係者にモノを訪ねるときの怪訝そうな反応は何度も経験します。私は、石に刻まれた無念の思いに耳を傾けようと思いました。可能な限り、生きたという証を探しながら。
さて、この墓碑は、日露戦争で亡くなった「陸軍歩兵軍曹 梅村七松」のお墓です。
出身地は高島郡「本庄村大字四川」、兵種は「歩兵」、階級は「軍曹」、勲等功級は「勲七等」、戦病死年月日は「明治三十七年十月三十一日」、戦病死場所は「青泥窪兵站病院(病死)」と、『高島郡誌』には書かれています。
いくつかの疑問があります。きっと、それらがこの軍曹の生きた姿につながる手がかりとなるのでしょう。たとえば、勲八等と勲七等の違いはどこにあるのか、功級がつくひととつかない人との違いはどこにあるのか。また、病死したという「青泥窪兵站病院」は、中国大陸のどこにあったのでしょうか。 調べてみました。「青泥窪」とは、「大連」の旧地名。旅順の近くの商業都市です。梅村七松が病死したのは、明治37(1904)年10月31日。旅順要塞への攻撃の最中にあたります。
旅順要塞第一次総攻撃で戦死「故陸軍歩兵伍長山本鶴吉之碑」 ― 2011/08/01
「陸軍歩兵伍長」といえば、下士官(特務曹長、曹長、伍長、軍曹)です。兵卒(上等兵、一等卒、二等卒)ではありません。
思い出すのは、旧大津陸軍墓地です。ここでは、将校はもちろんですが、下士官と兵卒では埋葬地も違えば、墓碑の大きさも違います。たとえば、日清戦争のときは、戦病死者のために個人墓碑がつくられましたが、埋葬場所と大きさで差別されていました。 上が下士の墓地、下が兵卒の墓地です。
日露戦争のときは、あまりの戦死者の多さに、個人墓碑はつくられず、集合碑がつくられました。しかも、4柱も。4柱つくった意味は、将校、准士官、下士、兵卒という区別をつけるためで、碑の大きさも違います。このような階級差別は、官製墓地では厳格でした。
ところが、民間墓地では、平等の扱いを受けています。そのことがまず印象的でした。
墓碑の右側面には、「法名」という文字が見えます。
『高島郡誌』は、山本鶴吉の出身地は「本庄村大字四津川」、兵種を「歩兵」、階級を「伍長」、勲等功級を「勲八等功七級」、戦病死年月日を「明治三十七年八月二十一日」、戦病死場所を「旅順」としています。
前にも書きましたが、乃木将軍の第三軍が旅順要塞に第一次総攻撃をかけたのが、明治37(1904)年8月19日でした。山本鶴吉は21日に「旅順」で亡くなっています。さしあたり、これ以上のことはわかりません。
思い出すのは、旧大津陸軍墓地です。ここでは、将校はもちろんですが、下士官と兵卒では埋葬地も違えば、墓碑の大きさも違います。たとえば、日清戦争のときは、戦病死者のために個人墓碑がつくられましたが、埋葬場所と大きさで差別されていました。 上が下士の墓地、下が兵卒の墓地です。
日露戦争のときは、あまりの戦死者の多さに、個人墓碑はつくられず、集合碑がつくられました。しかも、4柱も。4柱つくった意味は、将校、准士官、下士、兵卒という区別をつけるためで、碑の大きさも違います。このような階級差別は、官製墓地では厳格でした。
ところが、民間墓地では、平等の扱いを受けています。そのことがまず印象的でした。
墓碑の右側面には、「法名」という文字が見えます。
『高島郡誌』は、山本鶴吉の出身地は「本庄村大字四津川」、兵種を「歩兵」、階級を「伍長」、勲等功級を「勲八等功七級」、戦病死年月日を「明治三十七年八月二十一日」、戦病死場所を「旅順」としています。
前にも書きましたが、乃木将軍の第三軍が旅順要塞に第一次総攻撃をかけたのが、明治37(1904)年8月19日でした。山本鶴吉は21日に「旅順」で亡くなっています。さしあたり、これ以上のことはわかりません。
「砲弾型墓碑」が3基@四津川墓地(高島市) ― 2011/08/01
田の真ん中あたりのあぜ道にそって墓地がありました。一番右には、背が高くて四角柱・四角錐型の墓碑が立っていましたが、その左には、写真のように砲弾型墓碑が3基並んでいました。
2007年の11月に、大字今津共同墓地ではじめて「砲弾型」墓碑を見ました。そのときも、3基並んでいました。上の写真がそのとき撮ったものです。オーバーかも知れませんが、立ちすくむ位の衝撃をうけました。そういう驚きが、墓碑探索を後押ししているのだと思います。
高島市の日露戦争の戦病死者は100名とされています。これまでにかなりの数の墓碑を拝見しました。もっとも古いものは、安曇川の田中墓地にありますが、「砲弾型」墓碑は、けっして珍しいものではなく、日露戦争基の墓碑に限っては多数派を構成しているように思えます。
墓碑の正面の文字を読んでみました。
2007年の11月に、大字今津共同墓地ではじめて「砲弾型」墓碑を見ました。そのときも、3基並んでいました。上の写真がそのとき撮ったものです。オーバーかも知れませんが、立ちすくむ位の衝撃をうけました。そういう驚きが、墓碑探索を後押ししているのだと思います。
高島市の日露戦争の戦病死者は100名とされています。これまでにかなりの数の墓碑を拝見しました。もっとも古いものは、安曇川の田中墓地にありますが、「砲弾型」墓碑は、けっして珍しいものではなく、日露戦争基の墓碑に限っては多数派を構成しているように思えます。
墓碑の正面の文字を読んでみました。
「故陸軍歩兵伍長勲八等功七級 山本鶴吉 之碑」続いて、一つひとつ見ていきましょう。
「故陸軍歩兵軍曹勲七等 梅村七松 之碑」
「故陸軍輜重輸卒勲八等 早藤彌三郎 之碑」
大正十(1921)年に京都衛戍病院で亡くなった「故陸軍砲兵上等兵横井川四郎太之墓」 ― 2011/07/31
旅順第一次総攻撃三日目に戦死した「故陸軍歩兵一等兵 日置鹿蔵 之墓」@三尾里墓地 ― 2011/07/31
日置鹿蔵の名前は、『高島郡誌』の戦病死者名簿に掲載されています。出身地は「安曇村大字西萬木」、兵種は「歩兵」、階級は「上等兵」、戦病死年月日は「(明治)三十七年八月二十一日」、戦病死場所は「旅順要塞」でした。
所属部隊は書いていませんが、上記から、陸軍歩兵後備第九聯隊ではないかと思いました。明治37(1894)年8月19日に第一次の旅順要塞総攻撃が行われ、失敗のうちに24日に中止されました。日置鹿蔵は、3日目に戦死したのです。
たまたま昨晩、児島 襄『日露戦争』を文庫本で読んでいました。第三巻は、旅順要塞への第一次総攻撃をふくんだ巻でした。淡々とした描写でしたが、日露双方に名もない兵がばたばた倒れる胸が悪くなるような戦況でした。名前が掲載されないなかに、日置鹿蔵がいたのです。 墓碑の背面には、碑文がありました。同類の墓碑以上に鹿蔵の個人的履歴が刻まれていました。誕生日は明治7(1874)年9月21日。30歳の誕生日を目前にして亡くなったのです。年齢からしても、後備兵であることがわかります。
所属部隊は書いていませんが、上記から、陸軍歩兵後備第九聯隊ではないかと思いました。明治37(1894)年8月19日に第一次の旅順要塞総攻撃が行われ、失敗のうちに24日に中止されました。日置鹿蔵は、3日目に戦死したのです。
たまたま昨晩、児島 襄『日露戦争』を文庫本で読んでいました。第三巻は、旅順要塞への第一次総攻撃をふくんだ巻でした。淡々とした描写でしたが、日露双方に名もない兵がばたばた倒れる胸が悪くなるような戦況でした。名前が掲載されないなかに、日置鹿蔵がいたのです。 墓碑の背面には、碑文がありました。同類の墓碑以上に鹿蔵の個人的履歴が刻まれていました。誕生日は明治7(1874)年9月21日。30歳の誕生日を目前にして亡くなったのです。年齢からしても、後備兵であることがわかります。
「故海軍一等機関兵 井上軍三 墓」@西万木墓地 ― 2011/07/31
西万木墓地には、日露戦争期の墓碑が3柱あるように思います。砲弾型の墓碑を左右にして、中央にある四角柱・四角錐型の墓碑。それが「故海軍一等機関兵勲八等井上軍三墓」です。海軍の墓碑はめずらしいものです。
この方の名前は、『高島郡誌』の戦病死者の名簿にありません。『安曇川町史』の「満州事変」以降の戦没者名簿にもありません。
背面の碑文がさしあたり唯一の手がかり(墓地の関係者に聞くのが一番かも知れませんが)です。
読める範囲では以下のような碑文です。下線がとくに自信ありません。
この方の名前は、『高島郡誌』の戦病死者の名簿にありません。『安曇川町史』の「満州事変」以降の戦没者名簿にもありません。
背面の碑文がさしあたり唯一の手がかり(墓地の関係者に聞くのが一番かも知れませんが)です。
読める範囲では以下のような碑文です。下線がとくに自信ありません。
明治三十五年入舞鶴海兵團三十七八年戦役起也従軍出征三十九年十一月真和遣米艦隊欺躍発航品川沖碇泊際死没矣日露戦争の終結させてポーツマス条約は、明治38(1905)年9月5日です。一等機関兵の井上軍三が死亡した日付が読み取れませんが、それが明治39年11月だったとすれば、講和から一年以上たっています。戦病死者とは見なされないので、名簿にないのでしょう。

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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