お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その13 ~第一大隊は柳樹屯にふたたび~ ― 2011/08/29
高島郡饗庭村饗庭は、現在の高島市新旭町にあります。おそらくその地域の共同墓地に、輜重輸卒をつとめた冨田楳吉の墓碑があると思われます。いま、楳吉の存在を確認するものは、旧大津陸軍墓地にある小さな墓碑だけです。
楳吉は、明治28(1895)年6月18日に「柳樹屯」でなくなったことが、この墓碑からわかります。
楳吉は第九聯隊の兵卒がもっとも多く亡くなった4月および5月を生き延びることができました。上陸した柳樹屯で兵站病院に4月から入院し、6月に亡くなった可能性はありますが、聯隊の兵士を死に追いやった病気の性格(劇症の赤痢、コレラなど)を考えれば、確率は低いと思います。ですから、楳吉は、4月に柳樹屯に上陸し、さらに沙家屯附近の舎営まで無事到着したという前提で、足取りを推測してみました。
楳吉は、書かれていませんが、第一大隊に所属した輜重輸卒だと思われます。なぜなら、第二大隊も、第三大隊も、柳樹屯、沙家屯と移動しますが、第一大隊とちがって、5月12日には、沙家屯を出発し、13日には王家屯、6月6日には海城に到着しています。楳吉が死を迎えたときには、はるか遠方にいたわけです。
第一大隊は、沙家屯から二三日の距離にある豼子窩に残留。5月29日に「大連湾大孤山間ノ守備ヲ命セラレ大隊ノ首部ハ翌30日ニ出発柳樹屯ニ」到着しました。
「大隊ノ首部」とは、大隊司令部を含む一定の部隊のことでしょう。輜重輸卒の冨田楳吉は、その移動の荷を負ったと思います。
楳吉の発症もしくは事故がいつ起こったのかわかりません。死亡場所と年月日は、柳樹屯に到着後、19日目に亡くなったことを示しています。楳吉をほぼ同じ運命をたどったと思われる兵卒は、以下のとおりです。
楳吉は、明治28(1895)年6月18日に「柳樹屯」でなくなったことが、この墓碑からわかります。
楳吉は第九聯隊の兵卒がもっとも多く亡くなった4月および5月を生き延びることができました。上陸した柳樹屯で兵站病院に4月から入院し、6月に亡くなった可能性はありますが、聯隊の兵士を死に追いやった病気の性格(劇症の赤痢、コレラなど)を考えれば、確率は低いと思います。ですから、楳吉は、4月に柳樹屯に上陸し、さらに沙家屯附近の舎営まで無事到着したという前提で、足取りを推測してみました。
楳吉は、書かれていませんが、第一大隊に所属した輜重輸卒だと思われます。なぜなら、第二大隊も、第三大隊も、柳樹屯、沙家屯と移動しますが、第一大隊とちがって、5月12日には、沙家屯を出発し、13日には王家屯、6月6日には海城に到着しています。楳吉が死を迎えたときには、はるか遠方にいたわけです。
第一大隊は、沙家屯から二三日の距離にある豼子窩に残留。5月29日に「大連湾大孤山間ノ守備ヲ命セラレ大隊ノ首部ハ翌30日ニ出発柳樹屯ニ」到着しました。
「大隊ノ首部」とは、大隊司令部を含む一定の部隊のことでしょう。輜重輸卒の冨田楳吉は、その移動の荷を負ったと思います。
楳吉の発症もしくは事故がいつ起こったのかわかりません。死亡場所と年月日は、柳樹屯に到着後、19日目に亡くなったことを示しています。楳吉をほぼ同じ運命をたどったと思われる兵卒は、以下のとおりです。
6月 8日 柳樹屯 輜重輸卒 堀居 留治郎(150)第一大隊の第一中隊は9月16日から別の任務につきましたが、撤退命令が出たあと12月11日に柳樹屯に戻ってきました。第九聯隊全体では、12月10日から25日の間に、柳樹屯から本国への帰途につきました。冨田楳吉をはじめ上記の兵卒は戻ることができなかったのです。
6月16日 柳樹屯 一等卒 田中 興吉(158)
6月18日 柳樹屯 輜重輸卒 冨田 楳吉(高島郡)(197)
6月24日 柳樹屯 二等卒 大倉 菊次郎(74)
7月19日 柳樹屯 二等卒 畠中 熊次郎(124)
7月23日 柳樹屯 輜重輸卒 丸岡 嘉一郎(168)
8月18日 柳樹屯 一等卒 小和田 三次郎(51)
9月 2日 柳樹屯 一等卒 楠浦 権之助(14)
9月 8日 柳樹屯 一等卒 利田 鶴吉(182)
10月 4日 柳樹屯 一等卒 村上 米治郎(131)
10月10日 柳樹屯 一等卒 萩野 治三郎(148)
11月 1日 柳樹屯 一等卒 今堀 欽次郎(155)
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://nostalghia.asablo.jp/blog/2011/08/29/6077670/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。