お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「慰霊之碑」@新旭町(高島市) ― 2010/11/17
私が高島市を訪問する目的のひとつは、旧高島郡の忠魂碑のすべてを確認することでした。忠魂碑が建てられた時代には、郡内に2町15村がありました。そのすべてにあるとすれば、17柱となります。
昨日紹介した三谷村には、建てられなかったといいますから、実際は16柱を探す旅となります。
さて、上の写真は、忠魂碑ではありません。
「慰霊之碑」です。写真の右端にかろうじて見えていますが、戦没者を刻んだ「平和の礎」も、おかれています。そうです、沖縄のように。
(*やつしろさんの指摘で間違いの箇所を削除しました)
やつしろさんも、同行したHさんも私よりはかなり年長のはずですが、とてもお元気でした。この場所は、Hさんの近くなので、下の写真のように、教えていただきました。 まずは、グラウンドの入口へ向かいました。その入口に立つと、碑が見えていました。下の写真のちょうど中央です。
昨日紹介した三谷村には、建てられなかったといいますから、実際は16柱を探す旅となります。
さて、上の写真は、忠魂碑ではありません。
「慰霊之碑」です。写真の右端にかろうじて見えていますが、戦没者を刻んだ「平和の礎」も、おかれています。そうです、沖縄のように。
(*やつしろさんの指摘で間違いの箇所を削除しました)
やつしろさんも、同行したHさんも私よりはかなり年長のはずですが、とてもお元気でした。この場所は、Hさんの近くなので、下の写真のように、教えていただきました。 まずは、グラウンドの入口へ向かいました。その入口に立つと、碑が見えていました。下の写真のちょうど中央です。
『近江愛智郡誌』第三巻から日清戦争の戦病死者の名簿を探す ― 2010/11/17
図書館に行く時間ができると、滋賀県の各郡の『郡誌』を読むようにしています。これまでも『高島郡誌』、『伊香郡誌』などを読みました。
先日手に取ったのは、『近江愛智郡誌』(昭和4年)でした。
「明治廿七八年戦役戦病死者」の名簿をチェックするためです。
「明治廿七八年戦役」とは、日清戦争のことです。明治39年までは全滋賀県が陸軍歩兵第九聯隊の管轄下にありました。ですから、滋賀県出身のほとんどの兵卒は、この聯隊に属しました。第九聯隊は陸軍墓地をもっていました。そのEブロックが、日清戦争での戦病死者の墓地なのです。
このブロックの墓碑は、およそ200ですが、階級、氏名、死亡年月日、死亡場所が記載されているだけです。出身地などは、わかりません。私は、ここに墓碑がおかれている若い兵卒たちの経歴を明らかにすることを、いつしか目的とするようになりました。
見てみると、日清戦争では11名の名前が挙がっています。それらの名前と、Eブロックの埋葬者名簿をつきあわせる作業をはじめるのです。
先日手に取ったのは、『近江愛智郡誌』(昭和4年)でした。
「明治廿七八年戦役戦病死者」の名簿をチェックするためです。
「明治廿七八年戦役」とは、日清戦争のことです。明治39年までは全滋賀県が陸軍歩兵第九聯隊の管轄下にありました。ですから、滋賀県出身のほとんどの兵卒は、この聯隊に属しました。第九聯隊は陸軍墓地をもっていました。そのEブロックが、日清戦争での戦病死者の墓地なのです。
このブロックの墓碑は、およそ200ですが、階級、氏名、死亡年月日、死亡場所が記載されているだけです。出身地などは、わかりません。私は、ここに墓碑がおかれている若い兵卒たちの経歴を明らかにすることを、いつしか目的とするようになりました。
見てみると、日清戦争では11名の名前が挙がっています。それらの名前と、Eブロックの埋葬者名簿をつきあわせる作業をはじめるのです。
明治二十七八年戦病死者表さっそく見つけましたよ。
『近江愛智郡誌』第三巻から
○多喜 金四郎 歩兵一等卒
○田中 市蔵 輜重輸卒
○北川 幾太郎 輜重輸卒
○中居 嘉蔵 歩兵二等卒
○小島 房吉 歩兵一等卒
○辰巳 藤吉 近衛歩兵一等卒
○中澤 忠右衛門 歩兵一等卒
○清水 常吉 輜重輸卒
○勝間 初次郎 歩兵一等卒
○西川 為吉 歩兵一等卒
○木村 忠氏 歩兵一等卒
愛智郡日枝村出身「陸軍輜重輸卒 清水常吉」の墓碑(明治28年6月23日没) ― 2010/11/17
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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