
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「1名の将校と14名の下士官、そして204名の兵卒」の日清戦争 その2 ~旅順口、大連湾、柳樹屯そして劉家店~ ― 2011/08/22
4月11日と13日に分かれて廣島の宇品港を出港した歩兵第九聯隊は、4月14日と16日に大連湾に到達します。しかし、そこに上陸はしませんでした。
翌17日には、日清講和条約、いわゆる下関条約が締結され、清国は巨額の賠償金を払い、遼東半島と台湾を日本に割譲する約束をしました。大連湾の第4師団(第九聯隊を含む)が、戦うべき戦争は終わっていたのです。
第九聯隊は中国の心臓部へ向かわず、そのまま遼東半島の守備につくことになり、柳樹屯に上陸しました。そこに着くまでに、さらに3名が亡くなりました。
上陸して一週間、「柳樹屯」だけで、一等軍曹を含む13名の若者が病死しています。
「劉家屯」で、4月22日から4月29日までのわずかの間に、17名が次々と亡くなっています。
もちろん、戦闘ではありません。病院があったのです。
「第四師団野戦病院経歴書」には次のような記述が見つかりました。
第九聯隊の兵卒・下士官は、出発前から、または船中から、重大な病気に犯されていたと思われます。出発前に3名、船中で1名、宿営地への上陸をまたずに3名、上陸地点の柳樹屯で13名(4月)、さらに進んで劉家店で17名が亡くなり、次回紹介しますが、宿営地の沙家屯でも4月だけで16名が亡くなっています。
それ以外の場所でも、4月24日から29日の間に、二等軍曹をふくむ9名が亡くなりました。
翌17日には、日清講和条約、いわゆる下関条約が締結され、清国は巨額の賠償金を払い、遼東半島と台湾を日本に割譲する約束をしました。大連湾の第4師団(第九聯隊を含む)が、戦うべき戦争は終わっていたのです。
第九聯隊は中国の心臓部へ向かわず、そのまま遼東半島の守備につくことになり、柳樹屯に上陸しました。そこに着くまでに、さらに3名が亡くなりました。
4月17日 旅順口 一等卒 山本 重太郎(181)柳樹屯への到着は、公式には、22日と23日になっていますが、墓碑を見ると、その日付よりも早く、亡くなっている兵卒がいます。それは、この場所に、柳樹屯兵站病院があり、そこに重篤患者が運ばれためだと思われます。
4月21日 旅順口 一等卒 駒澤 榮太郎(79)
4月21日 大連湾 一等卒 隠岐 四郎(44)
上陸して一週間、「柳樹屯」だけで、一等軍曹を含む13名の若者が病死しています。
4月 6日 柳樹屯 一等卒 森田 阪松(199)上陸地である柳樹屯だけではありません。
4月16日 柳樹屯 上等兵 増岡 竹治郎(166)
4月17日 柳樹屯 二等卒 木村 市太郎(117)
4月20日 柳樹屯 一等卒 森田 友次郎(45)
4月20日 柳樹屯 二等卒 中川 周太郎(141)
4月21日 柳樹屯 一等卒 津崎 辰之助(83)
4月23日 柳樹屯 二等卒 前川 藤市郎(62)
4月24日 柳樹屯 一等卒 森田 徳太郎(123)
4月24日 柳樹屯 二等卒 吉田 市松(195)
4月24日 柳樹屯 一等卒 田井中 重吉(198)
4月25日 柳樹屯 一等軍曹 元武 勇(B05)
4月26日 柳樹屯 一等卒 菊本 萬次郎(43)
4月27日 柳樹屯 上等兵 川富 吉之(15)
「劉家屯」で、4月22日から4月29日までのわずかの間に、17名が次々と亡くなっています。
4月21日 劉家店 一等卒 吉川 源一郎(128)なぜ「劉家店」なのか、そこには、なにがあったのか。
4月22日 劉家店 二等卒 宮嶋 作彌(69)
4月25日 劉家店 一等卒 浦谷 亀太郎(6)
4月25日 劉家店 一等卒 中川 安次郎(53)
4月25日 劉家店 二等卒 木村 忠氏(60)
4月25日 劉家店 一等卒 山本 松之助(92)
4月25日 劉家店 二等卒 西嶋 卯之助(95)
4月25日 劉家店 輜重輸卒 高橋 伊之助(伊香郡片岡)(113)
4月25日 劉家店 上等兵 村田 喜治郎(118)
4月25日 劉家店 一等卒 鎌田 辰治郎(162)
4月26日 劉家店 一等軍曹 矢杉 安太郎(B09)
4月26日 劉家店 一等卒 西村 小太郎(89)
4月28日 劉家店 上等兵 坂口 房吉(11)
4月28日 劉家店 二等卒 平岩 作次郎(56)
4月29日 劉家店 二等卒 木下 京松(147)
4月29日 劉家店 一等卒 里内 松太郎(107)
4月29日 劉家店 一等卒 中澤 忠右衛門(67)
もちろん、戦闘ではありません。病院があったのです。
「第四師団野戦病院経歴書」には次のような記述が見つかりました。
第四師団第二野戦病院 明治二十七年十二月三日動員完成 第四師団中ニ在テ二十八年二月二十五日衛戍地ヲ出発同日広島ニ到リ四月十二日宇品ニ於テ乗船同月二十三日柳樹屯ニ上陸 四月二十四日劉家店ニ進ミ同日劉家店避病室開設四月二十六日沙家屯ニ至ル 同日沙家屯舎営病院開設 同月三十日皮子窩ニ至リ皮子窩舎営病院開設・・・」
第九聯隊の兵卒・下士官は、出発前から、または船中から、重大な病気に犯されていたと思われます。出発前に3名、船中で1名、宿営地への上陸をまたずに3名、上陸地点の柳樹屯で13名(4月)、さらに進んで劉家店で17名が亡くなり、次回紹介しますが、宿営地の沙家屯でも4月だけで16名が亡くなっています。
それ以外の場所でも、4月24日から29日の間に、二等軍曹をふくむ9名が亡くなりました。
4月24日 金州 上等兵 川勝 善吉(84)(さらに続く)
4月26日 金州 二等卒 胡内 梅太郎(81)
4月26日 花家屯 一等卒 稲生 竹蔵(177)
4月27日 花家屯 二等軍曹 中川 彌三郎(B01)
4月27日 林家屯 一等卒 宇野 治良吉(109)
4月27日 林家屯 一等卒 阪口 吉松(152)
4月28日 孫家屯 二等卒 石田 嘉市(93)
4月28日 孫家屯 一等卒 小嶋 房吉(108)
4月29日 蔡家店 一等卒 向井 二助(42)
「1名の将校と14名の下士官、そして204名の兵卒」の日清戦争 その1 ~大陸到着前の病死者~ ― 2011/08/21
旧大津陸軍墓地は陸軍歩兵第九聯隊附属の埋葬地です。日清戦争期に亡くなった将兵を祀る219基の墓碑があります。内訳は、将校1名、下士官14名、兵卒204名です。合計219名の足取りをたどってみます。
よけいな解説は省きたいと思いますが、日清戦争の場合、戦病死者・病死者が、戦死者の10倍に達した事実を念頭においていただきたいと思います。風邪などではなく、コレラ、腸チフス、赤痢などきわめて感染力の強い伝染病です。
さて、219名というだけでは、あまりに抽象的です。
大津市に営所をおく陸軍歩兵第九聯隊のなかには、高島市出身の兵卒も多数入営していました。そのなかに、中村林蔵、福井乙吉、内田検次郎、奥村粂蔵、井花長次郎、大塚長治郎、日置卯市そして富田媒吉。
これらの20代の若者を頭に描きながら、お読み下さい。
ときは日清戦争期。明治27(1894)年7月23日に戦闘は始まrり、8月1日に、清国と日本が宣戦布告をします。
宣戦布告までに第5師団、第6師団が動員を終え、8月4日には第3師団、同30日には第1師団、10月上旬には第2師団が動員を終えます。
大津の第九聯隊が所属した第4師団が動員を終えたのは、12月2日のことでした。その頃には、黄海海戦も終わり、旅順口の占領も終わっていました。
第九聯隊の出征は、さらに遅れ、翌明治28年3月28日のことでした。中村林蔵、福井乙吉、内田検次郎、奥村粂蔵、井花長次郎、大塚長治郎、日置卯市そして富田媒吉は、このときに、多くの市民に送られて大津営所を離れました---そして、二度と戻りませんでした。
3月はどういう時期だったのか。それは、清国から全権大使・李鴻章が下関に到着し、休戦協議が行われている最中のときでした。出発して2日後に、日清休戦条約が締結されました。それは、第九聯隊が大津を離れて廣島に向かっている途中のことでした。
中村林蔵らは、まもなく廣島到着にします。廣島で10日間待機したのち、宇品港から4月11日と13日に大陸に向けて出港しました。
しかし、大陸にむけて船出するまえに、犠牲者が生まれたことが、墓碑の日付からわかります。
話はもどります。11日には、第九聯隊第一大隊と第二大隊が出港。13日には同第三大隊が出港しました。
出港したその日(11日)に、船中で亡くなった下士官がいました。それは、陸軍歩兵特務曹長・尾嵜常人でした。その墓碑(B12)の写真をこの記事のトップに載せました。吉田清次郎には死亡場所が刻まれていませんが、明白に「征清戦役軍航海船中歿」と刻まれています。
日本軍は、一方で清国と講和条約の交渉を行いながら、4月以降、直隷作戦を第九聯隊を含む第4師団と近衛師団を主力として行う予定でした。第4師団は、廣島にも、船中にも病死者を出しながら、遼東半島に向かいました。しかし、その先には、さらなる不幸が待っていました。
続きは次回です。
よけいな解説は省きたいと思いますが、日清戦争の場合、戦病死者・病死者が、戦死者の10倍に達した事実を念頭においていただきたいと思います。風邪などではなく、コレラ、腸チフス、赤痢などきわめて感染力の強い伝染病です。
さて、219名というだけでは、あまりに抽象的です。
大津市に営所をおく陸軍歩兵第九聯隊のなかには、高島市出身の兵卒も多数入営していました。そのなかに、中村林蔵、福井乙吉、内田検次郎、奥村粂蔵、井花長次郎、大塚長治郎、日置卯市そして富田媒吉。
これらの20代の若者を頭に描きながら、お読み下さい。
ときは日清戦争期。明治27(1894)年7月23日に戦闘は始まrり、8月1日に、清国と日本が宣戦布告をします。
宣戦布告までに第5師団、第6師団が動員を終え、8月4日には第3師団、同30日には第1師団、10月上旬には第2師団が動員を終えます。
大津の第九聯隊が所属した第4師団が動員を終えたのは、12月2日のことでした。その頃には、黄海海戦も終わり、旅順口の占領も終わっていました。
第九聯隊の出征は、さらに遅れ、翌明治28年3月28日のことでした。中村林蔵、福井乙吉、内田検次郎、奥村粂蔵、井花長次郎、大塚長治郎、日置卯市そして富田媒吉は、このときに、多くの市民に送られて大津営所を離れました---そして、二度と戻りませんでした。
3月はどういう時期だったのか。それは、清国から全権大使・李鴻章が下関に到着し、休戦協議が行われている最中のときでした。出発して2日後に、日清休戦条約が締結されました。それは、第九聯隊が大津を離れて廣島に向かっている途中のことでした。
中村林蔵らは、まもなく廣島到着にします。廣島で10日間待機したのち、宇品港から4月11日と13日に大陸に向けて出港しました。
しかし、大陸にむけて船出するまえに、犠牲者が生まれたことが、墓碑の日付からわかります。
4月 6日 一等卒 岩田 夛吉(78)これら三つの墓碑には共通して、死亡場所の記述がありません。それは偶然ではないと思います。下の写真は、岩田夛吉の墓碑。
4月 6日 一等卒 幾田 幾之助(121)
4月11日 二等卒 吉田 清次郎(25)
話はもどります。11日には、第九聯隊第一大隊と第二大隊が出港。13日には同第三大隊が出港しました。
出港したその日(11日)に、船中で亡くなった下士官がいました。それは、陸軍歩兵特務曹長・尾嵜常人でした。その墓碑(B12)の写真をこの記事のトップに載せました。吉田清次郎には死亡場所が刻まれていませんが、明白に「征清戦役軍航海船中歿」と刻まれています。
日本軍は、一方で清国と講和条約の交渉を行いながら、4月以降、直隷作戦を第九聯隊を含む第4師団と近衛師団を主力として行う予定でした。第4師団は、廣島にも、船中にも病死者を出しながら、遼東半島に向かいました。しかし、その先には、さらなる不幸が待っていました。
続きは次回です。
旧大津陸軍墓地のEブロック(日清戦争戦病死兵卒の墓地)名簿~戦病死年月日と場所~ ― 2011/08/21
旧大津陸軍墓地のEブロックにある207柱(IDは212まで)に刻まれている死亡年月日と死亡場所です。68までは作っていましたが、今回新たに墓碑の写真と照らし合わせながら残りの作業を終えました。改定し、氏名の名簿と合わせていきます。
墓碑の配置が上の方の図で、下の図はそれに大津市が連番を与えたもの。墓地の正面は上です。正面から日清戦争の兵卒の墓地を眺めれば、最前列だけが14基、それ以降は18基づつ並んでいる。トップの写真の最前列の3基は、左から14、13、12の番号の墓碑。
墓碑の配置が上の方の図で、下の図はそれに大津市が連番を与えたもの。墓地の正面は上です。正面から日清戦争の兵卒の墓地を眺めれば、最前列だけが14基、それ以降は18基づつ並んでいる。トップの写真の最前列の3基は、左から14、13、12の番号の墓碑。
連番 | 死亡年月日 | 死亡場所 |
---|---|---|
1 | 明治28年 9月13日 | 柳樹屯 |
2 | 明治28年 9月12日 | 豼子窩 |
3 | 明治28年 9月 8日 | 折木城 |
4 | 明治28年 7月26日 | 海城 |
5 | 明治28年 7月 6日 | 小河沿 |
6 | 明治28年 4月25日 | 劉家店 |
7 | 明治28年11月 7日 | 営口 |
8 | 明治28年 8月21日 | 営口 |
9 | 明治28年 9月28日 | - |
10 | 明治28年 9月16日 | 折木城 |
11 | 明治28年 4月28日 | 劉家店 |
12 | 明治28年 7月 9日 | 大弧山 |
13 | 明治28年 6月27日 | 海城 |
14 | 明治28年 9月 2日 | 柳樹屯 |
15 | 明治28年 4月27日 | 柳樹屯 |
16 | 明治28年 5月 1日 | 沙家屯 |
17 | 明治28年 8月17日 | 海城 |
18 | 明治28年 8月 7日 | 海城 |
19 | 明治28年 5月 1日 | 沙家屯 |
20 | 明治28年 5月12日 | 沙家屯 |
21 | 明治28年 9月 6日 | 豼子窩 |
22 | 明治28年11月 6日 | 営口 |
23 | 明治28年 4月29日 | 沙家屯 |
24 | 明治29年 2月14日 | 台湾 |
25 | 明治28年 4月11日 | - |
26 | 明治28年11月 1日 | 営口 |
27 | 明治28年 4月29日 | 沙家屯 |
28 | 明治28年 9月 1日 | 金州 |
29 | 明治28年 9月18日 | 折木城 |
30 | 明治28年 8月 9日 | 海城 |
31 | 明治28年 4月28日 | 沙家屯 |
32 | 明治28年 9月11日 | 金州 |
33 | 明治28年 4月28日 | 沙家屯 |
34 | 明治28年 5月 8日 | 沙家屯 |
35 | 明治28年 5月 3日 | 沙家屯 |
36 | 明治28年 4月29日 | 沙家屯 |
37 | 明治28年 7月24日 | 大孤山 |
38 | 明治28年 7月24日 | 海城 |
39 | 明治28年 5月 1日 | 沙家屯 |
40 | 明治28年10月13日 | 豼子窩 |
41 | 明治28年 4月29日 | 沙家屯 |
42 | 明治28年 9月16日 | 蔡家店 |
43 | 明治28年 4月26日 | 柳樹屯 |
44 | 明治28年 4月21日 | 大連湾 |
45 | 明治28年 4月20日 | 柳樹屯 |
46 | 明治28年 9月 6日 | 大孤山 |
47 | 明治28年 8月 4日 | 豼子窩 |
48 | 明治28年 7月26日 | 海城 |
49 | 明治28年12月11日 | 金州 |
50 | 明治28年 7月 6日 | 豼子窩 |
51 | 明治28年 8月18日 | 柳樹屯 |
52 | 明治28年 5月 2日 | 沙家屯 |
53 | 明治28年 4月25日 | 劉家店 |
54 | 明治28年 7月30日 | 豼子窩 |
55 | 明治28年 4月29日 | 沙家屯 |
56 | 明治28年 4月28日 | 劉家店 |
57 | 明治28年 5月 3日 | 沙家屯 |
58 | 明治28年 7月 6日 | 小河沿 |
59 | 明治29年 3月25日 | 台湾台北 |
60 | 明治28年 4月25日 | 劉家店 |
61 | 明治28年 8月11日 | 海城 |
62 | 明治28年 4月23日 | 柳樹屯 |
63 | 明治28年 9月 1日 | 折木城 |
64 | 明治28年 9月25日 | - |
65 | 明治28年 4月29日 | 沙家屯 |
66 | 明治28年12月 6日 | - |
67 | 明治28年 4月29日 | 劉家店 |
68 | 明治28年 8月 8日 | 豼子窩 |
69 | 明治28年 4月25日 | 劉家屯 |
70 | 明治28年 4月22日 | 読み取り困難 |
71 | 明治28年 9月19日 | 海城 |
72 | 明治28年 9月 4日 | 営口 |
73 | 明治28年 9月 8日 | 金州 |
74 | 明治28年 6月24日 | 柳樹屯 |
75 | 明治28年 9月 7日 | 豼子窩 |
76 | 明治28年 4月27日 | 沙家屯 |
77 | 明治28年 5月 2日 | 沙家屯 |
78 | 明治28年 4月 6日 | - |
79 | 明治28年 4月18日 | 旅順口 |
80 | 明治28年 7月13日 | 営口 |
81 | 明治28年 4月26日 | 金州 |
82 | 明治28年 8月23日 | - |
83 | 明治28年 4月21日 | 柳樹屯 |
84 | 明治28年 4月24日 | 金州 |
85 | 明治28年 5月 1日 | 金州 |
86 | 明治28年10月23日 | 海城 |
87 | 明治28年 4月25日 | 劉家屯 |
88 | 明治25年10月30日 | 折木城 |
89 | 明治28年 4月26日 | 劉家屯 |
90 | 明治28年 5月23日 | 金州 |
91 | 明治28年 4月27日 | 沙家屯 |
92 | 明治28年 4月25日 | 劉家店 |
93 | 明治28年 4月28日 | 孫子屯 |
94 | 明治28年 4月28日 | 沙家屯 |
95 | 明治28年 4月25日 | 劉家屯 |
96 | 明治28年 5月10日 | 杢家屯 |
97 | 明治28年 5月 5日 | 沙家屯 |
98 | 明治28年 8月11日 | - |
99 | 明治28年12月 3日 | 金州 |
100 | 明治28年 7月16日 | 海城 |
101 | 明治28年 5月 1日 | 沙家屯 |
102 | 明治28年10月 5日 | 海城 |
103 | 明治28年 7月20日 | 破廠八重河子 |
104 | 明治28年 9月 3日 | 金州 |
105 | 明治28年 4月30日 | 沙家屯 |
106 | 明治28年 9月18日 | 海城 |
107 | 明治28年 4月29日 | 劉家屯 |
108 | 明治28年 4月18日 | 孫家屯 |
109 | 明治28年 4月27日 | 林家屯 |
110 | 明治28年 8月29日 | 金州 |
111 | 明治28年 7月24日 | 小河沿 |
112 | 明治28年 9月15日 | 豼子窩 |
113 | 明治28年 4月25日 | 劉家屯 |
114 | 明治28年 9月21日 | 海城 |
115 | 明治28年 5月 6日 | 沙家屯 |
116 | 明治28年 9月21日 | - |
117 | 明治28年 4月17日 | 柳樹屯 |
118 | 明治28年 4月25日 | 劉家屯 |
119 | 明治28年10月 6日 | 小河沿 |
120 | 明治28年 8月29日 | 豼子窩 |
121 | 明治28年 4月 6日 | - |
122 | 明治28年 4月20日 | ??屯 |
123 | 明治28年 4月24日 | 柳樹屯 |
124 | 明治28年 7月19日 | 柳樹屯 |
125 | (墓地の空き地) | |
126 | (士官候補生の墓碑) | |
127 | (墓地の空き地) | |
128 | 明治28年 4月25日 | 劉家屯 |
129 | 明治28年10月28日 | 豼子窩 |
130 | 明治28年 7月 6日 | 小河沿 |
131 | 明治28年10月 4日 | 柳樹屯 |
132 | 明治28年 8月 6日 | 小河沿 |
133 | 明治28年 6月20日 | 折木城 |
134 | 明治28年 6月23日 | 海城 |
135 | 明治28年 4月29日 | 沙家屯 |
136 | 明治28年 8月 1日 | 小河沿 |
137 | 明治28年 4月29日 | 沙家屯 |
138 | 明治28年 5月14日 | 勝家屯 |
139 | 明治28年 5月 1日 | 沙家屯 |
140 | 明治28年10月18日 | 海城 |
141 | 明治28年 4月20日 | 柳樹屯 |
142 | 明治28年 7月13日 | 海城 |
143 | (墓地の空き地) | |
144 | (墓地の空き地) | |
145 | (墓地の空き地) | |
146 | 明治28年 8月20日 | 海城 |
147 | 明治28年 4月29日 | 劉家屯 |
148 | 明治28年10月10日 | 柳樹屯 |
149 | 明治28年 6月 8日 | 林家屯 |
150 | 明治28年 6月 8日 | 柳樹屯 |
151 | 明治28年 5月13日 | 沙家屯 |
152 | 明治28年 4月27日 | 林家屯 |
153 | 明治28年 7月13日 | 小河沿 |
154 | 明治28年 9月19日 | 海城 |
155 | 明治28年11月 1日 | 柳樹屯 |
156 | 明治28年 5月17日 | 沙家屯 |
157 | 明治28年 7月10日 | 小河沿 |
158 | 明治28年 6月16日 | 柳樹屯 |
159 | 明治28年 7月24日 | 海城 |
160 | 明治28年 7月10日 | 小河沿 |
161 | 明治28年 4月29日 | 沙家屯 |
162 | 明治28年 4月25日 | 劉家店 |
163 | 明治28年 5月27日 | 豼子窩 |
164 | 明治28年 8月 9日 | 柳家屯 |
165 | 明治28年 4月30日 | 沙家屯 |
166 | 明治28年 4月16日 | 柳樹屯 |
167 | 明治28年 7月29日 | 大孤山 |
168 | 明治28年 7月23日 | 柳樹屯 |
169 | 明治28年 4月25日 | 劉家屯 |
170 | 明治28年 9月 1日 | 大孤山 |
171 | 明治28年 7月12日 | 小河沿 |
172 | 明治28年 5月 5日 | 沙家屯 |
173 | 明治28年10月 6日 | 海城 |
174 | 明治28年 5月 3日 | 沙家屯 |
175 | 明治28年 9月14日 | 海城 |
176 | 明治28年 4月29日 | 沙家屯 |
177 | 明治28年 4月26日 | 花家屯 |
178 | 明治28年 8月10日 | 金州 |
179 | 明治28年 9月 8日 | 折木城 |
180 | 明治28年10月 9日 | 豼子窩 |
181 | 明治28年 4月17日 | 旅順口 |
182 | 明治28年 9月 8日 | 柳樹屯 |
183 | 明治28年 7月10日 | 海城 |
184 | 明治28年10月28日 | 普蘭店 |
185 | 明治28年 8月 4日 | 営口 |
186 | 明治28年 4月27日 | 孫家屯 |
187 | 明治28年10月11日 | 折木城 |
188 | 明治28年 5月 7日 | 金州 |
189 | 明治28年12月 8日 | 旅順口 |
190 | 明治28年 8月10日 | 営口 |
191 | 明治28年 7月15日 | 海城 |
192 | 明治28年10月 5日 | 営口 |
193 | 明治28年 9月22日 | 豼子窩 |
194 | 明治28年 8月11日 | 金州 |
195 | 明治28年 4月24日 | 柳樹屯 |
196 | 明治28年 8月25日 | - |
197 | 明治28年 6月18日 | 柳樹屯 |
198 | 明治28年 4月24日 | 柳樹屯 |
199 | 明治28年 4月 6日 | 柳樹屯 |
200 | 明治28年 9月13日 | 海城 |
201 | 明治28年 5月 1日 | 金州 |
202 | 明治28年 8月 5日 | 破廠八重河子 |
203 | 明治28年 9月 9日 | 海城 |
204 | 明治28年 8月25日 | 豼子窩 |
205 | 明治28年 7月17日 | 海城 |
206 | 明治28年10月 8日 | 金州 |
207 | 明治28年10月11日 | 折木城 |
208 | 明治28年 5月 5日 | 沙家屯 |
209 | 明治28年 9月14日 | 豼子窩 |
210 | 明治28年 8月18日 | - |
211 | 明治28年11月 1日 | 豼子窩 |
212 | 明治28年 7月24日 | 破廠八重河子 |
旧大津陸軍墓地Eブロック墓碑名簿
墓地は、琵琶湖側を正面に並べられている。001は、最前列の一番右手の墓碑であり、順次左手に移る。
最前列(向かって右から左へ)
001 二等卒 山本清九郎
002 一等卒 中田 留吉
003 一等卒 丸山 文吉
004 二等卒 吉村 広吉
005 一等卒 善利 岩次郎
006 一等卒 浦谷 亀太郎
007 一等卒 今井 源松
008 一等卒 伊庭 米二郎
009 二等卒 中尾 萬次郎
010 一等卒 新畑 音吉
011 上等兵 阪口 房吉
012 一等卒 上田 猶治
013 一等卒 中村 竹次郎
014 一等卒 楠浦 権之助
二列目
015 上等兵 川富 吉之
016 一等卒 藤井 政次郎
017 一等卒 竹内 栄次郎
018 一等卒 川崎 利吉
019 二等卒 中村 林蔵 滋賀県旧高島郡出身
020 一等卒 吉川 竹松
021 上等兵 小西 留蔵
022 一等卒 井上 幸太郎
023 一等卒 中嶋 留次郎 滋賀県旧伊香郡出身
024 一等卒 小泉 彌太郎
025 二等卒 吉田 清太郎
026 一等卒 勝見 市蔵
027 一等卒 藤井 常吉
028 二等卒 岩井 音松
029 上等兵 横田 勝次郎
030 二等卒 山田 元次郎
031 一等卒 小笹 定吉
032 二等卒 福井 乙吉 滋賀県旧高島郡安曇川町出身
三列目
033 一等卒 宮本 為蔵
034 一等卒 川西 吉松
035 一等卒 北川 十次郎
036 一等卒 上田 竹之助
037 一等卒 三木 房吉
038 一等卒 阪本 竹松
039 上等兵 内田 検次郎 滋賀県旧高島郡出身
040 二等卒 小谷 友治郎
041 二等卒 松本 嘉十郎
042 一等卒 向井 ニ助
043 一等卒 菊本 萬次郎
044 一等卒 隠岐 四郎
045 一等卒 森田 友次郎
046 二等卒 森本 栄三郎
047 一等卒 浅田 安之助
048 二等卒 大伴 圓蔵 滋賀県大津市出身
049 一等卒 宮島 岩松
050 一等卒 伏木 清太郎
四列目
051 一等卒 小和田 三次郎
052 一等卒 岸 駒次郎
053 一等卒 中川 安治郎
054 一等卒 西川 為吉
055 一等卒 矢野 久吉
056 二等卒 平岩 作治郎
057 二等卒 平川 幸造
058 上等兵 奥村 徳蔵
059 一等卒 北川 長松
060 二等卒 木村 忠氏
061 一等卒 六條 伊蔵
062 二等卒 前川 藤市郎
063 一等卒 中川 力蔵 滋賀県旧伊香郡出身
064 一等卒 松田 善松
065 一等卒 森 巳之助 滋賀県現大津市大石学区出身
066 一等卒 土井 友吉
067 一等卒 中澤 忠右衛門
068 一等卒 比澤 兼松
五列目
069 二等卒 宮嶋 作彌
070 一等卒 大橋 政次郎
071 二等卒 青山 伊之助
072 一等卒 宮村 多治郎
073 一等卒 波多野 藤次郎
074 二等卒 大倉 菊次郎
075 二等卒 清水 捨吉
076 二等卒 井上 友次郎 大津市出身
077 一等卒 石垣 房次郎
078 一等卒 岩田 多吉
079 一等卒 駒澤 栄太郎
080 一等卒 梅山 竹二郎
081 ニ等卒 胡内 梅太郎
082 上等兵 久保 槌松
083 一等卒 津崎 辰之助
084 上等兵 川勝 善吉
085 二等卒 有山 信太郎
086 一等卒 宮田 梅吉
六列目
087 二等卒 岩嶋 幸之助
088 一等卒 西田 柳吉
089 一等卒 西村 小太郎
090 二等卒 竹村 藤吉
091 一等卒 西川 一茂
092 一等卒 山本 松之助
093 二等卒 石田 嘉市
094 一等卒 中尾 幸太郎
095 二等卒 西嶋 卯之吉
096 二等卒 森本 民蔵
097 二等卒 福知 虎吉
098 二等卒 森本 徳松
099 一等卒 寺田 吉太郎
100 一等卒 菅井 宇吉
101 二等卒 井上 嘉市郎
102 一等卒 吉原 寅吉
103 二等卒 植田 菊蔵
104 一等卒 安本 仙之助
七列目
105 上等兵 村田 捨吉
106 二等卒 太田 竹松
107 一等卒 里内 松太郎
108 一等卒 小嶋 房吉
109 一等卒 宇野 治良吉
110 一等卒 田尾 栄次郎
111 輜重輸卒 田中 市蔵
112 上等兵 山口 晋吉
113 輜重輸卒 高橋 伊之助 滋賀県旧伊香郡出身
114 二等卒 奥田 亀吉
115 輜重輸卒 廣瀬 助松 滋賀県近江八幡市出身
116 一等卒 稲田 岩太郎 滋賀県大津市出身
117 二等卒 木村 市太郎
118 上等兵 村田 喜治郎
119 一等卒 友田 喜三郎
120 二等卒 堀口 市松
121 一等卒 幾田 幾之助
122 上等兵 井上 市次郎
八列目
123 一等卒 森田 徳太郎
124 二等卒 畠中 熊次郎
125 欠
126 *別の墓碑
127 欠
128 一等卒 吉川 源一郎
129 二等卒 伊藤 栄之助
130 輜重輸卒 細江 巳之助
131 一等卒 村上 米治郎
132 輜重輸卒 北村 鶴吉
133 輜重輸卒 本田 政治郎
134 輜重輸卒 清水 常吉
135 上等兵 瀧本 金治郎
136 一等卒 西口 末治郎
137 一等卒 草山 安次郎
138 一等卒 山田 鶴吉
139 二等卒 奥村 久米蔵 滋賀県旧高島郡出身
140 一等卒 田中 時松
九列目
141 二等卒 中川 周太郎
142 一等卒 坪田 石之助
143 欠
144 欠
145 欠
146 一等卒 松本 岩吉
147 二等卒 木下 京松
148 一等卒 萩野 治三郎
149 輜重輸卒 松村 定吉
150 輜重輸卒 堀居 留治郎
151 一等卒 清水 留吉 滋賀県旧伊香郡出身
152 一等卒 阪口 吉松
153 一等卒 井岡 奈良吉
154 一等卒 前田 繁二郎
155 一等卒 今堀 欽次郎
156 二等卒 木谷 勇吉 滋賀県旧伊香郡出身
157 上等兵 池辺 喜市
158 一等卒 田中 興吉
十列目
159 二等卒 井誥 嘉吉
160 二等卒 梅本 門造
161 一等卒 掛田 三治郎
162 一等卒 鎌田 辰治郎
163 一等卒 竹原 國吉
164 上等兵 前川 常治郎
165 上等兵 岸田 安太郎
166 上等兵 増岡 竹治郎
167 一等卒 松澤 鐵蔵
168 輜重輸卒 丸岡 嘉一郎
169 二等卒 藪内 駒吉
170 一等卒 竹村 安次郎 大津市出身
171 輜重輸卒 藤田 芳治郎
172 一等卒 小林 尚輝
173 一等卒 井花 長太郎 滋賀県旧高島郡マキノ町出身
174 二等卒 江龍 安次郎
175 一等卒 田畑 富蔵
176 一等卒 日置 卯市 滋賀県旧高島郡安曇川町出身
十一列目
177 一等卒 稲生 竹蔵
178 一等卒 松本 鉄次郎
179 一等卒 田辺 長造
180 一等卒 田辺 平吉
181 一等卒 山本 重太郎
182 一等卒 利田 鶴吉
183 一等卒 高橋 彌三吉
184 二等卒 笹井 利三郎
185 二等卒 山田 藤吉
186 二等卒 西尾 丈吉
187 一等卒 今井 久吉
188 二等卒 川上 定吉
189 一等卒 大塚 長治郎 滋賀県旧高島郡新旭町
190 一等卒 谷 傳蔵
191 二等卒 西川 十太郎
192 一等卒 恒木 丈太郎
193 二等卒 藤村 留蔵
194 上等兵 田中 廉次郎
十二列目
195 二等卒 吉田 市松
196 一等卒 森田 定吉
197 輜重輸卒 冨田 楳吉 滋賀県旧高島郡出身
*「高島郡誌」では、「楳」が「梅」と誤記されている。
198 一等卒 田井中 重吉
199 一等卒 森田 阪松
200 一等卒 大橋 卯三郎 大津市出身
201 二等卒 吉田 健吉
202 一等卒 佐々木 藤吉
203 二等卒 井上 直蔵
204 一等卒 安場 貝次郎
205 一等卒 小走 音松
206 一等卒 松本 由之助
207 一等卒 山口 萬吉
208 一等卒 井上 寅松
209 二等卒 古田 栄次郎
210 一等卒 森本 浅吉
211 一等卒 岡崎 藤吉
212 一等卒 大原 欽三郎
「戦役経歴書 歩兵第九聯隊」~daisukeさんへ~ ― 2011/08/21
大津市と高島市には、日清戦争(1894~95年)で亡くなった将兵の墓碑が200柱を超えて現存します。旧大津陸軍墓地だけで、兵卒206柱の墓碑が並んでいます。各集落の共同墓地にも建てられています。
この戦争の墓碑が、身近に存在するのを、私は2007年8月まで知りませんでした。その驚きと恥ずかしさを動機として、戦争の墓碑を尋ね歩いています。
このブログをつうじて、墓碑に刻まれた人物のことを知りたいという方がいらっしゃるのを知りました。それは、遺族の方々でした。少しでもお役に立ちたいと思い、参考になる資料を紹介したいと思います。
将校や下士官は別かも知れませんが、兵卒の場合、少なくとも大津市と高島市の若者は、大津市に営所をおいた陸軍歩兵第九聯隊に入営したはずです。この聯隊は、大坂に本部をおいた第四師団に所属していました。その「戦役経歴書」が公開されています。どの大隊・中隊に所属していたかがわかれば、亡くなった方の足取りがわかると思います。
なお、この文章がそのまま「大津市志」にも引用されていました。
この戦争の墓碑が、身近に存在するのを、私は2007年8月まで知りませんでした。その驚きと恥ずかしさを動機として、戦争の墓碑を尋ね歩いています。
このブログをつうじて、墓碑に刻まれた人物のことを知りたいという方がいらっしゃるのを知りました。それは、遺族の方々でした。少しでもお役に立ちたいと思い、参考になる資料を紹介したいと思います。
将校や下士官は別かも知れませんが、兵卒の場合、少なくとも大津市と高島市の若者は、大津市に営所をおいた陸軍歩兵第九聯隊に入営したはずです。この聯隊は、大坂に本部をおいた第四師団に所属していました。その「戦役経歴書」が公開されています。どの大隊・中隊に所属していたかがわかれば、亡くなった方の足取りがわかると思います。
なお、この文章がそのまま「大津市志」にも引用されていました。
「要塞砲兵」とは? ― 2011/08/06
日清戦争戦病死者「陸軍歩兵一等軍曹島村幸次郎碑」@高島市 ― 2011/07/25
日清戦争戦病死者「陸軍歩兵二等卒奥村粂蔵」碑@高島市 ― 2011/07/24
日清戦争は、明治政府がはじめて行った外征戦争でした。内戦とは規模もちがう戦争であり、地域社会をまきこんで遂行されました。国民意識の高揚も意図されたところでした。
その戦没者の扱いについても、予想される日露間の戦争を考慮して、これまでにない取組が行われました。靖国神社の大祭をその頂点として。
戦死者には特別の碑が建てられました。その置かれた位置は、共同墓地とは限りません。たとえば、「陸軍輜重輸卒山崎松蔵碑」。現在は安曇川町田中墓地にありますが、当初は、集落の交通の要所に置かれていました。
この「陸軍歩兵二等卒奥村粂蔵」(碑)の場合はどうでしょうか。
現在の位置は、下の写真にあるようにお寺の門前です。この場合は、当初の位置も同じではなかったかと推察しています。
奥村粂蔵の墓碑は、一つではありません。もう一基、旧大津陸軍墓地に存在します。もちろん、同一人物の墓碑です。
高島市で、西南戦争・日清戦争・日露戦争の戦病死者の墓碑を再発見する作業の中心となっているのが八代さんです。専門的知識をもってらっしゃるうえに、すさまじいばかりの執念を発揮されています。そうでもないと、簡単には発見できなかったと思いました。
苦労話をうかがいました。
この墓碑の場合は法話のなかで墓碑のことを語ったとき、参拝者の一人の女性から、「そういえば、あそこにあったんじゃないか」という話が手掛かりとなったそうです。
地域社会では、もはや、日清・日露の戦没者のことは忘れ去られており、墓碑だけが存在しているという場合が少なくありません。個人的な探究心ではじめたことですが、地域社会に調べた内容を返していきたいと考えるようになりました。
その戦没者の扱いについても、予想される日露間の戦争を考慮して、これまでにない取組が行われました。靖国神社の大祭をその頂点として。
戦死者には特別の碑が建てられました。その置かれた位置は、共同墓地とは限りません。たとえば、「陸軍輜重輸卒山崎松蔵碑」。現在は安曇川町田中墓地にありますが、当初は、集落の交通の要所に置かれていました。
この「陸軍歩兵二等卒奥村粂蔵」(碑)の場合はどうでしょうか。
現在の位置は、下の写真にあるようにお寺の門前です。この場合は、当初の位置も同じではなかったかと推察しています。
奥村粂蔵の墓碑は、一つではありません。もう一基、旧大津陸軍墓地に存在します。もちろん、同一人物の墓碑です。
高島市で、西南戦争・日清戦争・日露戦争の戦病死者の墓碑を再発見する作業の中心となっているのが八代さんです。専門的知識をもってらっしゃるうえに、すさまじいばかりの執念を発揮されています。そうでもないと、簡単には発見できなかったと思いました。
苦労話をうかがいました。
この墓碑の場合は法話のなかで墓碑のことを語ったとき、参拝者の一人の女性から、「そういえば、あそこにあったんじゃないか」という話が手掛かりとなったそうです。
地域社会では、もはや、日清・日露の戦没者のことは忘れ去られており、墓碑だけが存在しているという場合が少なくありません。個人的な探究心ではじめたことですが、地域社会に調べた内容を返していきたいと考えるようになりました。
日清戦争戦病死者「陸軍歩兵一等卒日置卯市碑」@高島市 ― 2011/07/24
高島市の旧安曇川町の墓地の一角にある「陸軍歩兵一等卒日置卯市碑」の本体の写真です。使い慣れない方のカメラで撮ったために、ピントがずれている気がします。
全貌は、一つまえの記事の写真でわかると思います。
左側面は建立の日付だと思われますが、明治三十一年七月とと読めます。以下は、あとで読み取ることにします。ただ、残念なことに、全方角から撮影しなかったので、背面や右側面に文字があったのかどうかは、わかりません。
また訪問して確かめることにします。
今、頭に浮かぶ疑問ですが、位置の問題。三尾里墓地は、最近整備されたと思われます。ですから、「日置卯市碑」が当初からこの場所にあったのかどうかが、気になります。
全貌は、一つまえの記事の写真でわかると思います。
左側面は建立の日付だと思われますが、明治三十一年七月とと読めます。以下は、あとで読み取ることにします。ただ、残念なことに、全方角から撮影しなかったので、背面や右側面に文字があったのかどうかは、わかりません。
また訪問して確かめることにします。
今、頭に浮かぶ疑問ですが、位置の問題。三尾里墓地は、最近整備されたと思われます。ですから、「日置卯市碑」が当初からこの場所にあったのかどうかが、気になります。
日清戦争戦病死者の墓碑の位置~安曇川町三尾里墓地~ ― 2011/07/23
全国どこでもそうなのかは、私にはわかりません。しかし、私の見た限り、共同墓地のなかで、戦死者の墓碑占める位置は共通しています。どこよりも、目立つ位置にあるのです。
そもそも戦死者の墓碑は、背が高く、通常尖っています。遠目にも、あるのがわかります。そのなかでも、目立つのは、日清戦争や日露戦争の墓碑でした。上の写真は、高島市安曇川町三尾里の共同墓地。田の真ん中にあります。農道は、墓地の正面の建物に通じています。墓地の区画の向かって左手の隅に最大の墓碑が置かれています。
それが日清戦争の戦病死者・日置卯市の墓碑。丸く砲弾型の墓碑も二基あります。西南戦争の戦死者(日置住吉碑)の墓碑は、前列の一番右手にあります。日清戦争の墓碑に比べれば、ごく小さなものです。
日中戦争・太平洋戦争の墓碑は、日清戦争墓碑と直角に並べられています。
ところで、『高島郡誌』には、日清戦争の戦病死者の名前が17名挙げられています。下記がそれです。この名簿をもとに、八代さんが中心となって、所在を確認しているわけですが、先日の行動で、日置卯市、奥村粂蔵、島村幸四郎の墓碑を見ることができました。
それについて、順次書いていきます。
そもそも戦死者の墓碑は、背が高く、通常尖っています。遠目にも、あるのがわかります。そのなかでも、目立つのは、日清戦争や日露戦争の墓碑でした。上の写真は、高島市安曇川町三尾里の共同墓地。田の真ん中にあります。農道は、墓地の正面の建物に通じています。墓地の区画の向かって左手の隅に最大の墓碑が置かれています。
それが日清戦争の戦病死者・日置卯市の墓碑。丸く砲弾型の墓碑も二基あります。西南戦争の戦死者(日置住吉碑)の墓碑は、前列の一番右手にあります。日清戦争の墓碑に比べれば、ごく小さなものです。
日中戦争・太平洋戦争の墓碑は、日清戦争墓碑と直角に並べられています。
ところで、『高島郡誌』には、日清戦争の戦病死者の名前が17名挙げられています。下記がそれです。この名簿をもとに、八代さんが中心となって、所在を確認しているわけですが、先日の行動で、日置卯市、奥村粂蔵、島村幸四郎の墓碑を見ることができました。
それについて、順次書いていきます。
『高島郡誌』記載の日清戦争戦病死者
①西庄村 井花 長太郎(蛭口) 陸軍歩兵一等卒
②饗庭村 冨田 楳吉(饗庭) 陸軍輜重輸卒
③饗庭村 内田 検次郎(旭) 陸軍歩兵上等兵
④新儀村 大塚長次郎(太田) 陸軍歩兵一等卒
以上、4名は旧大津陸軍墓地
⑤安曇村 日置 卯市(三尾里) 陸軍歩兵一等卒
三尾里墓地と旧大津陸軍墓地
⑥安曇村 山崎 松蔵(田中) 陸軍輜重輸卒
旧安曇村田中墓地
⑦安曇村 福井 乙吉(常盤木) 陸軍歩兵二等卒
旧大津陸軍墓地と常盤木・十八川墓地
⑧水尾村 吉田 伊之助(宮野) 陸軍歩兵上等兵
旧水尾村宮野墓地
⑨大溝町 三矢 松太郎(永田) 陸軍歩兵一等卒
永田墓地 ⑩大溝町 中村 林蔵(勝野) 陸軍歩兵二等卒
中野墓地と旧大津陸軍墓地
⑪大溝町 仁賀 宗太郎(勝野) 陸軍工兵上等兵
鵜川・打下墓地 ⑫大溝町 中江 幸四郎(音羽) 軍役夫
旧真田山陸軍墓地(大坂市玉造)
⑬高島村 奥村 粂蔵(拝戸) 陸軍歩兵二等卒
昌泉寺門前・旧大津陸軍墓地
⑭高島村 林 甚蔵(畑) 陸軍歩兵一等卒
畑墓地
⑮大溝町 島村 幸太郎(勝野)
徳善寺境内
⑯朽木村 森 岩五郎(栃生)
⑰朽木村 金子 兼助(宮前坊)
旧真田山陸軍墓地にもあった「陸軍歩兵二等卒林力松之墓」 ― 2010/12/08
国立歴史民俗博物館の研究報告「慰霊と墓」を丁寧にみています。これには、旧真田山陸軍墓地にある墓碑のリストが掲載されているからです。
以前、旧志賀町で「陸軍歩兵二等卒林力松碑」を紹介しました。上の写真がそれです。記事は→ここ。
旧真田山陸軍墓地にも墓碑があることがわかりました。
「陸軍歩兵二等卒林力松之墓」
IDは、E-6-5でした。南小松は「碑」ですが、旧真田山陸軍墓地では「墓」です。この墓碑には、「明治二十八年九月十六日於台湾牛四島頭兵站司令部死」と刻まれているそうです。
永田村の陸軍歩兵一等卒 三矢松太郎と同じ場所で、同じころに死亡したのかもしれません。記事は→ここ。三矢が死亡したのは、牛馬頭患者宿泊所病院(島の上に四を書けば、馬に見えるのか、その逆かも?)。ときもほぼ同じ九月二十三日でした。
旧真田山陸軍墓地にある墓碑だけでは、林力松の出身地がわからなかったはずですが、現地(民間墓地)と照らし合わせることで、判明したことになります。
以前、旧志賀町で「陸軍歩兵二等卒林力松碑」を紹介しました。上の写真がそれです。記事は→ここ。
旧真田山陸軍墓地にも墓碑があることがわかりました。
「陸軍歩兵二等卒林力松之墓」
IDは、E-6-5でした。南小松は「碑」ですが、旧真田山陸軍墓地では「墓」です。この墓碑には、「明治二十八年九月十六日於台湾牛四島頭兵站司令部死」と刻まれているそうです。
永田村の陸軍歩兵一等卒 三矢松太郎と同じ場所で、同じころに死亡したのかもしれません。記事は→ここ。三矢が死亡したのは、牛馬頭患者宿泊所病院(島の上に四を書けば、馬に見えるのか、その逆かも?)。ときもほぼ同じ九月二十三日でした。
旧真田山陸軍墓地にある墓碑だけでは、林力松の出身地がわからなかったはずですが、現地(民間墓地)と照らし合わせることで、判明したことになります。

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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