
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
可通者島根県因幡国邑美郡・・・と刻まれた陸軍曹長橋尾可通の墓碑について ― 2007/11/12
旧大津陸軍墓地のCブロックの一番後ろの列の一番右に、「陸軍曹長橋尾可通之墓」があります。
没年は、明治11(1878)年。31歳での病死です。
この方は、士族出身。旧大阪鎮台第五大隊時代から陸軍に入り、そのまま第九連隊に移ったのだと推測します。
●少し変だと思ったのは、「島根県」の出身。
第五大隊は、明治6(1873)年、当時の鳥取・豊岡・北條・足羽・石川の5県の壮兵から編成されています。島根県はありません。
でも、鳥取と島根の関係を調べてみて、納得がいきました。
明治6年の段階では、「因幡国」は鳥取県に属しています。したがって、橋尾可通が第五大隊に編入されたのはおかしくありません。
しかし、明治9(1876)年に、鳥取県は島根県に併合されます。橋尾曹長が死亡したのは、明治11(1878)年ですから、「因幡国」は、鳥取県ではなく、島根県。
ですから、墓碑に「鳥取県」と書かれていても、第五大隊の編成地域(鳥取・豊岡・北條・足羽・石川)の外から応募したというわけではないのです。
ささいなことですが、疑問を追及すると、それなりの答えがあるものなのですねぇ。
没年は、明治11(1878)年。31歳での病死です。
この方は、士族出身。旧大阪鎮台第五大隊時代から陸軍に入り、そのまま第九連隊に移ったのだと推測します。
●少し変だと思ったのは、「島根県」の出身。
第五大隊は、明治6(1873)年、当時の鳥取・豊岡・北條・足羽・石川の5県の壮兵から編成されています。島根県はありません。
でも、鳥取と島根の関係を調べてみて、納得がいきました。
明治6年の段階では、「因幡国」は鳥取県に属しています。したがって、橋尾可通が第五大隊に編入されたのはおかしくありません。
しかし、明治9(1876)年に、鳥取県は島根県に併合されます。橋尾曹長が死亡したのは、明治11(1878)年ですから、「因幡国」は、鳥取県ではなく、島根県。
ですから、墓碑に「鳥取県」と書かれていても、第五大隊の編成地域(鳥取・豊岡・北條・足羽・石川)の外から応募したというわけではないのです。
ささいなことですが、疑問を追及すると、それなりの答えがあるものなのですねぇ。
「(明治)十年二月・・・鹿児島」の文字が見える陸軍歩兵伍長・大関義之の墓碑 ― 2007/11/12
旧大津陸軍墓地の「見学会」(24日)まで、あと二週間を切りました。私の作業もひとつの区切りにするつもり。それまでに、調べられることは調べてしまいたいと思うのです。一日中断したら、これまでの流れを忘れてしまうのは、睡眠不足のせい?
それはさておき、今日は、昨晩に続き、Cブロック(下士官の墓地)を碑文を読むことにします。じっと見ていると、文字が不思議に読めてくるんです。時間がたつと、また読めなくなってしまいます。ですから、読めたときに、メモを残すのが大切。
●陸軍歩兵伍長・大関義之
この方の碑文は、文字の角がまるくなっていて、消え始めています。それでも、断片的に読めます。
上の写真の4行目に、「鹿児島」という文字を見つけました。
もしかして、西南戦争へ参加された方なのかも知れません。「鹿児島」の7から8字まえには(4行目の冒頭)、「同十年二月」という文字が見えます。ますます、その可能性が出てきましたね。
とりあえず、メモ。
それはさておき、今日は、昨晩に続き、Cブロック(下士官の墓地)を碑文を読むことにします。じっと見ていると、文字が不思議に読めてくるんです。時間がたつと、また読めなくなってしまいます。ですから、読めたときに、メモを残すのが大切。
●陸軍歩兵伍長・大関義之
この方の碑文は、文字の角がまるくなっていて、消え始めています。それでも、断片的に読めます。
上の写真の4行目に、「鹿児島」という文字を見つけました。
もしかして、西南戦争へ参加された方なのかも知れません。「鹿児島」の7から8字まえには(4行目の冒頭)、「同十年二月」という文字が見えます。ますます、その可能性が出てきましたね。
とりあえず、メモ。
「駐在官」とはなにか? ― 2007/11/12
旧大津陸軍墓地のCブロックにある「陸軍曹長・橋尾可通之墓」。その左側面から裏をじっと見ていたら、もしかしたら、橋尾曹長は、第九連隊に所属している人ではないのではないかと思うようになりました。それは、以下の部分に「駐在官」とあるし、漢文を読み下せば、「たまたま大津で勤務していたときに、病気に罹った」とあるからです。
「第九師管滋賀懸下駐在官在勤於大津偶罹病明治十一年七月三日終歿」
まちがっているかも知れませんが。
「第九師管滋賀懸下駐在官在勤於大津偶罹病明治十一年七月三日終歿」
まちがっているかも知れませんが。
陸軍歩兵伍長の墓碑に、なぜ「陸軍軍医正 村治重厚」の名前が?@旧大津陸軍墓地 ― 2007/11/12
旧大津陸軍墓地にある下士官の墓碑を解読しています。
その墓碑のひとつ、「陸軍伍長大関義之」は、安政5(1858)年3月15日に生まれて、明治11(1878)年8月27日に、20歳で病死していると刻まれています。
病死を告げる部分に、「陸軍軍医正勲四等従六位村治重厚」の名前が見えます。
上の写真の二行目です。
全体がよく解読できないので困っていますが、担当医(?)の名前が刻まれているのをはじめて見ました。担当医ではなかったりして。
ちなみに、「村治重厚」という名前を刻んだ大きな墓碑が、同じ旧大津陸軍墓地にあるのです。それは、上段の将校の墓地のほぼ真ん中。この陸軍墓地では、大きな部類に属する墓碑です。
その墓碑のひとつ、「陸軍伍長大関義之」は、安政5(1858)年3月15日に生まれて、明治11(1878)年8月27日に、20歳で病死していると刻まれています。
病死を告げる部分に、「陸軍軍医正勲四等従六位村治重厚」の名前が見えます。
上の写真の二行目です。
全体がよく解読できないので困っていますが、担当医(?)の名前が刻まれているのをはじめて見ました。担当医ではなかったりして。
ちなみに、「村治重厚」という名前を刻んだ大きな墓碑が、同じ旧大津陸軍墓地にあるのです。それは、上段の将校の墓地のほぼ真ん中。この陸軍墓地では、大きな部類に属する墓碑です。
陸軍二等軍医正 勲四等 従六位 村治重厚之墓@旧大津陸軍墓地 ― 2007/11/12
旧大津陸軍墓地の上段。Aブロック。そこは将校の墓地。
ほぼ中央に、村治重厚軍医の墓碑があります。
おなじ陸軍墓地の下段(以前は中段)の下士官の墓地。そこには、この軍医の名前が刻まれている陸軍歩兵伍長大関義之の墓があるのです。
・・・そういうことは、よくあることなのでしょうか?
この墓碑の裏面には、没年が記されています。
「大正五年十二月二日享年七十有二」
1915(大正5)年に72歳ですから、生まれは1843年・・・。明治11(1978)年では34か35歳。そのときにすでに、「二等軍医正」ですから、膳所藩の御典医の家系の方かも知れませんね。
帝国陸軍階級表を見れば、「陸軍二等軍医正」は、陸軍歩兵中佐に相当する階級です。
ほぼ中央に、村治重厚軍医の墓碑があります。
おなじ陸軍墓地の下段(以前は中段)の下士官の墓地。そこには、この軍医の名前が刻まれている陸軍歩兵伍長大関義之の墓があるのです。
・・・そういうことは、よくあることなのでしょうか?
この墓碑の裏面には、没年が記されています。
「大正五年十二月二日享年七十有二」
1915(大正5)年に72歳ですから、生まれは1843年・・・。明治11(1978)年では34か35歳。そのときにすでに、「二等軍医正」ですから、膳所藩の御典医の家系の方かも知れませんね。
帝国陸軍階級表を見れば、「陸軍二等軍医正」は、陸軍歩兵中佐に相当する階級です。
陸軍墓地は郷土の戦死者の墓地ではない・・・所在地に住む私になにができる? ― 2007/11/12
旧大津陸軍墓地は、この地に駐屯した陸軍歩兵第四師団第九連隊にかかわる墓地。ですから、郷土、たとえば大津市という範囲で収まるものではありません。この当然の事実を、墓碑銘で確認しながら、あらためて考えさせられています。
いったいどの範囲まで及ぶのでしょうか?
そして、そのことの意味はどこにあるのでしょうか?
はるか故郷を離れてここに眠る人たちは、もはや、どこにも身寄りがないのでしょうか?
だとしたら、私になにができるのでしょうか?
いったいどの範囲まで及ぶのでしょうか?
そして、そのことの意味はどこにあるのでしょうか?
はるか故郷を離れてここに眠る人たちは、もはや、どこにも身寄りがないのでしょうか?
だとしたら、私になにができるのでしょうか?
「教導団」と読める ― 2007/11/12
石川県より教導団生徒志願者届出方猶予願(陸軍省 明治5年3月13日) ― 2007/11/12
犬上県について ― 2007/11/12
1871年8月29日 彦根が廃藩置県により
犬上県の県庁所在地になった。
1872年9月 (旧暦) 犬上県が滋賀県に編入され、
以来滋賀県に属する。
1889年7月1日 東海道本線彦根駅開業。
1937年2月11日 彦根町、松原村、青波村、
福満村、千本村、北青柳村が
合併して市制移行。
1942年6月10日 磯田村、南青柳村を編入
1950年4月1日 日夏村を編入
1952年4月1日 坂田郡鳥居本村を編入
1956年9月30日 河瀬村、亀山村を編入
1957年4月3日 高宮町を編入
1968年4月1日 愛知郡稲枝町を編入
犬上県の県庁所在地になった。
1872年9月 (旧暦) 犬上県が滋賀県に編入され、
以来滋賀県に属する。
1889年7月1日 東海道本線彦根駅開業。
1937年2月11日 彦根町、松原村、青波村、
福満村、千本村、北青柳村が
合併して市制移行。
1942年6月10日 磯田村、南青柳村を編入
1950年4月1日 日夏村を編入
1952年4月1日 坂田郡鳥居本村を編入
1956年9月30日 河瀬村、亀山村を編入
1957年4月3日 高宮町を編入
1968年4月1日 愛知郡稲枝町を編入
犬上県教導団生徒志願者届出方猶予願(陸軍省 明治5年3月14日) ― 2007/11/12

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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