お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
一週間後に咲いていました、月下美人 ― 2007/11/17
月下美人の花が、みるみる閉じていく・・・? ― 2007/11/17
やっぱり、花のつけねは、葉っぱの先ですねぇ ― 2007/11/17
もう一箇所の月下美人は、ネコといっしょ ― 2007/11/17
ネコは肉食獣です、セキレイさんが気の毒でした ― 2007/11/17
路地のまんかなで、ネコがなにかを咥えていました。接近しても逃げる気配がありません。それどころか、こちらを威嚇するように、うなっています。近づいて、野鳥が犠牲になっていることがわかりました。助けようにも、もう手遅れ。ピクピクうごいていても、鳴き声さえたてることができません。こんなに接近しても、子猫は逃げません。必死に咥えています。敏捷なセキレイをどうしてつかまえることができたのか、不思議でなりません。セキレイの姿をこんなに近くで見たのは、はじめてですが、不幸な出会いとしかいいようがありません。トリもネコも好きですが、この組み合わせは最悪でした。(残酷な写真を掲載して申し訳ありません)ネコは、肉食獣そのものですね。
「能受員妙道日喜大姉」と刻まれた墓碑@旧大津陸軍墓地 ― 2007/11/17
旧大津陸軍墓地には、将校の家族の墓碑などが存在します。それぞれに刻まれた墓碑や碑文を読みながら、その生い立ちやここに眠るわけを知りたく思いました。
私は、本来の「陸軍地」の上段部分に接するように土地を確保し、そこにこれらの墓碑が立てられたのだと思います。
そういうことが出来るのかどうか、またそれが通例なのかどうかはわかりません。
私は、将校の墓地をAブロックと呼びます。同じ上段ですが、その隣にある縁戚の墓地をMブロックと呼ぶことにしています。
●Mブロック
繰り返しになると思いますが。Mブロックには、本来、墓碑が11柱存在したはずです。1976年の時点では、11柱の図があります。しかし、現在は、「森田 千栄」という墓碑は存在しません。ですから、10柱しかないのです。
10柱のうち、2柱は第九連隊長であった草場彦輔の妻とおそらく息子にあたる方の墓碑です。同じ上段にある伏木徳太郎大尉の妻の墓碑もあります。
残り7柱の由来を明らかにしたいと思うのです。
●「能受員妙道日喜大姉」という墓碑
Mブロックの一番右手にあるのが、この(写真)墓碑です。
名前の代わりに戒名が刻まれていることに、この場での違和感があります。
この墓碑がここにある理由は、墓石の裏側に刻まれている名前にあります。
つぎにそれをお見せします。
私は、本来の「陸軍地」の上段部分に接するように土地を確保し、そこにこれらの墓碑が立てられたのだと思います。
そういうことが出来るのかどうか、またそれが通例なのかどうかはわかりません。
私は、将校の墓地をAブロックと呼びます。同じ上段ですが、その隣にある縁戚の墓地をMブロックと呼ぶことにしています。
●Mブロック
繰り返しになると思いますが。Mブロックには、本来、墓碑が11柱存在したはずです。1976年の時点では、11柱の図があります。しかし、現在は、「森田 千栄」という墓碑は存在しません。ですから、10柱しかないのです。
10柱のうち、2柱は第九連隊長であった草場彦輔の妻とおそらく息子にあたる方の墓碑です。同じ上段にある伏木徳太郎大尉の妻の墓碑もあります。
残り7柱の由来を明らかにしたいと思うのです。
●「能受員妙道日喜大姉」という墓碑
Mブロックの一番右手にあるのが、この(写真)墓碑です。
名前の代わりに戒名が刻まれていることに、この場での違和感があります。
この墓碑がここにある理由は、墓石の裏側に刻まれている名前にあります。
つぎにそれをお見せします。
陸軍歩兵少佐 牛渡六郎の長女 ― 2007/11/17
「幽夢水子」という墓碑@旧大津陸軍墓地 ― 2007/11/17
「福島県士族 牛渡三男」という碑文 ― 2007/11/17
中(牛)渡六郎居所取調方の件(陸軍省 明治30年8月11日) ― 2007/11/17
★アジア歴史資料センターのインデックスの文字がまちがっています。「中渡六郎」ではなく、「牛渡六郎」です。下の本文は正しく「牛場」となっています。
陸軍省受領壱第二七八四号
副官部ヨリ郵便為替貯金管理所ヘ回答案
元清国柳樹屯守備隊第二中隊牛渡六郎右野戦為替事務上要用之件ニ依リ本人居所取調方替貯坤第三七八四号御照会之趣了承即チ左記之通リニ候状御承知相成度此段及御回答候也遂テ本人所ハ不明ニ付此段申副候也
明治三十年八月十一日人事課起案
歩兵第九連隊第三大隊長陸軍歩兵少佐牛渡六郎替貯坤
第三七八号
元清国柳樹屯守備隊
第二中隊
牛渡六郎
右之者野戦為替事務上要用之候所居所不明ニシテ取扱上差支居候ニ不乍御手数御取調之上至急何分ノ御回報煩度此段及御照会候也
明治三十年八月七日
郵便為替貯金管理所
陸軍省御中
追テ本文御回答ハ封皮ニ交ワセ事務ト朱記シ免税郵便ニテ御発送相成可然此申渡候也
陸軍省受領壱第二七八四号
副官部ヨリ郵便為替貯金管理所ヘ回答案
元清国柳樹屯守備隊第二中隊牛渡六郎右野戦為替事務上要用之件ニ依リ本人居所取調方替貯坤第三七八四号御照会之趣了承即チ左記之通リニ候状御承知相成度此段及御回答候也遂テ本人所ハ不明ニ付此段申副候也
明治三十年八月十一日人事課起案
歩兵第九連隊第三大隊長陸軍歩兵少佐牛渡六郎替貯坤
第三七八号
元清国柳樹屯守備隊
第二中隊
牛渡六郎
右之者野戦為替事務上要用之候所居所不明ニシテ取扱上差支居候ニ不乍御手数御取調之上至急何分ノ御回報煩度此段及御照会候也
明治三十年八月七日
郵便為替貯金管理所
陸軍省御中
追テ本文御回答ハ封皮ニ交ワセ事務ト朱記シ免税郵便ニテ御発送相成可然此申渡候也
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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