お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
西庄村の忠魂碑@高島市 ~もとの校庭に再建~ ― 2010/11/16
忠魂碑は、忠義をつらぬいた将兵を顕彰する碑。すなわち、天皇の名の下に行われた”正義の戦争”に殉じた将兵を顕彰することによって、現に生きている者たちをその戦争に駆り立てる役割を果たしました。犬死にではなく、名誉の死であると。
その場所は、神聖なものとされました。
岡の上に置かれて、町民・村民を見下ろしていたもの(剣熊村など)もあれば、地域の中心・教育の場である小学校におかれる場合もありました。
忠魂碑は、さらに二度運命を変えます。
第一回目は、敗戦のインパクト。敗戦直後に軍国主義の遺物として、米占領軍の圧力のもとで、廃棄されるようになりました。埋められて隠されたもののあるし、折られたものや、跡形もなく砕かれたものもあったでしょう。
そして、二回目。まもなく復活する流れが生まれます。
1951年にアメリカとの単独講和が成立したことを契機にして、掘り出され元の場所や別の場所におかれたり、新しく再建されるなどの動きが生まれました。
私が目にしている忠魂碑は、どれも、この二つの運命を経たものなのです。
西庄村の忠魂碑は、どうか。
戦後いったん廃棄され、ときを経て同じ小学校の校庭に再建されています。もとの石の形はわかりませんが、「忠魂碑」という名前はそのままでした。
上の写真は背面ですが、「昭和二十八年八月十六日建立」と刻まれています。1953年に早くも再建されたわけです。しかし、もはや書は大将などの軍人ではなく、保守政治家になっています。「衆議院議員 堤康次郎 書」。
写真の向こうに校庭が広がり、野球をする子どもたちが見えます。一代目の忠魂碑も、こういう形で戦前の子どもたちや合祀のために集まった村民を見下ろしていたと思われます。
正面にはプレートなどがあり、興味深いものがありました。ですから、この碑については、また立ち戻ることにします。
これで、海津村、剣熊村、百瀬村、西庄村というマキノの4つの村の忠魂碑すべてを確認できました。
その場所は、神聖なものとされました。
岡の上に置かれて、町民・村民を見下ろしていたもの(剣熊村など)もあれば、地域の中心・教育の場である小学校におかれる場合もありました。
忠魂碑は、さらに二度運命を変えます。
第一回目は、敗戦のインパクト。敗戦直後に軍国主義の遺物として、米占領軍の圧力のもとで、廃棄されるようになりました。埋められて隠されたもののあるし、折られたものや、跡形もなく砕かれたものもあったでしょう。
そして、二回目。まもなく復活する流れが生まれます。
1951年にアメリカとの単独講和が成立したことを契機にして、掘り出され元の場所や別の場所におかれたり、新しく再建されるなどの動きが生まれました。
私が目にしている忠魂碑は、どれも、この二つの運命を経たものなのです。
西庄村の忠魂碑は、どうか。
戦後いったん廃棄され、ときを経て同じ小学校の校庭に再建されています。もとの石の形はわかりませんが、「忠魂碑」という名前はそのままでした。
上の写真は背面ですが、「昭和二十八年八月十六日建立」と刻まれています。1953年に早くも再建されたわけです。しかし、もはや書は大将などの軍人ではなく、保守政治家になっています。「衆議院議員 堤康次郎 書」。
写真の向こうに校庭が広がり、野球をする子どもたちが見えます。一代目の忠魂碑も、こういう形で戦前の子どもたちや合祀のために集まった村民を見下ろしていたと思われます。
正面にはプレートなどがあり、興味深いものがありました。ですから、この碑については、また立ち戻ることにします。
これで、海津村、剣熊村、百瀬村、西庄村というマキノの4つの村の忠魂碑すべてを確認できました。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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